6. 氷の王女と冬の騎士 (3)






 どれほどのケモノを殺し続ければ、この霧は晴れるのだろう。アルヴァレス中に溢れ返る黒獣を相手にし始めてから、随分と長い時間が経ったような気がする。

 王都の状況は時が経つほどに悪化していた。黒獣と遭遇する頻度は増し、戦う機会ばかりが多くなる。――この変異は、王都の民が次々と黒獣化している何よりの証拠だった。



「……酷い……」



「……見るな。進むぞ」



 道に転がる死体が増えた。黒獣に襲われた体は損傷が激しく、道端に誰かの一部が飛び散っている。生臭いケモノと湿った雨、人の血と肉の臭いが混ざり合い、吐き気を催す異臭が煌びやかだった王都を舐める。

 彼らは変わり果てたアルヴァレスをひたすらに走っていた。降りしきる雨は体温を奪い続け、疲労の蓄積に比例して負傷が後を絶たない。

 城を脱出した時に比べ、味方の数も著しく減った。姿の見えなくなった騎士がどこで脱落していったのかも定かではない。しかし、待つ暇も、迎えに戻る時間さえも残されていないのが現実だった。

 力尽きた人々は、この王都に置いていくしかない。戦いの中ではぐれた仲間も、動けなくなった仲間も、みんな。

 今は小さくなった隊を保つので精一杯だった。動かなくなった人々を運ぶ余裕など、とうの昔に失っている。



「急げ! ケモノに成りたくなければ走るんだ!」



「振り返るな! 呑まれるぞ!」



 折れそうになる心を互いに支え合う。そうでもしなければ、今すぐにでも押し潰されてしまいそうだった。いくら王国を守るために生きているとは言え、こんなを想定して訓練などしていない。



「見えた……」



 王女を守りながら王都を駆け抜けた騎士たちの前に、ようやくアルヴァレスの関門が迫る。最後の大通りを抜ければ、長かった戦いにも別れを告げることができるだろう。

 


(このまま逃げきれるか……?)



 喜びを露わにする騎士たちを横目に、アユハは周囲の警戒を強めていた。雨音だけの静寂が包む大通りには、至る所に戦いの痕跡が残されている。アルヴァレスが混乱に包まれた初期、ここには逃げるために多くの人々が殺到したはずだ。そんな格好の狩場を、黒獣が見逃すわけがない。

 ケモノに喰い荒らされた死体と目が合った。光を失った瞳は、もう騎士たちの姿を映さない。



「止まって」



 推測通り、一行の進路を塞ぐように、通りの先を歩く黒獣たちの姿が目に入った。風下にいることが幸いしたのか、ケモノがこちらに気付く様子は今のところ見受けられない。しかし、アユハたちにこの道を進む以外の選択肢はなかった。別の道から遠回りできるほどの余力は尽きている。



「ケモノ……避けるのは難しい、ですかね」



 一人の騎士の小さな呟きが重く心にのしかかる。弱音を吐きたくなるのも当然だと思った。

 アルヴァレス城からここまで、一時も休むことなく走り続けてきた。時には声を張り上げ、ケモノと戦い、数えきれないほどの惨劇を見てここにいる。

 隊士の数は城を出た当初の半分以下となり、ここまで生き残った騎士たちにも大きな負傷が目立つ。そして、それを満足に癒せるような時間はどこにもない。

 激しい雨は絶えず彼らの体温を奪い続ける。あれほど駆け回って戦闘に明け暮れてきたにも関わらず、アユハの体は氷のように冷えきっていた。自分の体温など遥か過去に置き去りにしたようで、今なら雪でさえ暖かく感じそうだ。



(――だからといって、立ち止まる理由にはならないけど)



 度重なる戦闘でさすがに乱れた呼吸を整えながら、アユハは肩越しにティエラの様子を窺う。寒さで顔色こそ優れないが、彼女は未だ気丈そうだった。

 そんな王女は、アユハの視線に気付いたようで。護衛たちの後ろから、まるで明日の天気でも話すかように声をかける。



「時にアユハ」



「はい?」



しろがねの丸薬、どれほど残っていますか?」



「城を脱出した時点で尽きました。今は皆、運だけでなんとか人間です」



「目の前の敵の数は」



「ざっと30……いや、それ以上」



「対する我々の状況は」



「……立っているのがやっとです」



 厳しい現状を確認するだけの会話は、傍から聞いていれば疲弊した心に追い打ちをかけるようなものである。しかし、アユハだけは彼女の意図を明確に理解できた。



「ですが、勝てます」



 だから、アユハの確信に満ちたその言葉にも、ティエラが表情を変えることはない。正答を得た王女はただ頷き、特に感動もなく続けるだけである。



「当然です」



 二人のやり取りに呆然とした騎士たちへ王女は目を向ける。彼女と視線を合わせた彼らは、その姿に言葉を失った。



「あと一息。私もともに戦います」



 ――あの氷の王女が、笑っていた。貼り付けたような仮面の笑みではなく、慈愛に満ちた微笑みを混乱の中で初めて出会った騎士たちに見せる。



「不安ならば隣を見なさい。ここにいるのは皆、騎士たちです。信じられないのならば前を向きなさい。そこには彼がいるでしょう」



 アユハのもとに視線が集う。最前線に立つ彼は、とうに普段通りの涼しげな表情で先の敵を見据えていた。



「ここまで来たのです。何が何でも生き残りなさい。今のうちに褒美のことを考えておくくらいがちょうどいい」



「俺はレフィルブランの団長と一戦したいですね」



「それはあなたが勝手になさい」



 張り詰めた空気がふいに緩む。最悪の戦況でも衰えない余裕のある会話の数々は、王女とその騎士が長年の月日をかけて築き上げてきた信頼そのものだった。

 ティエラが示し、アユハが切り拓く先。アルヴァレス城からの長い道のりを経て、外へと続く道が見える。王都から脱出さえできれば、今は姿の見えない仲間たちともいずれ合流するだろう。皆、目指す場所は一つなのだから。



「あとはここを突破するだけ」



「我が騎士たちなら容易いでしょう?」



 消えかけた士気を奮い立てる。

 アルヴァレスの外に出れば、他の街に逃げ込める。各地の要所に助けを乞える。――今度はアルヴァレス奪還のために、動き出せる。この絶望の手を振り払うことができれば、きっと。

 黒獣の群れがこちらに気付いた。即座に襲い掛かってくる気配を感じ、騎士たちが肉薄する。

 しかし、これまでの戦いで真っ先に敵に斬りかかっていたはずのアユハは、まだ動こうとしない。



「アユハ?」



「――褒美を望めるのなら、俺は貴女の勝利が欲しい」



 王女の騎士として生きることを決めてから、望み続けてきたものはいつだって同じだった。

 オリストティアから黒獣を排除できれば。この王国に、穏やかな明日が永遠と続くようになれば。――彼女の未来が、祝福に包まれたものであれば。



「それはあなたが私に与えるものです」



「ははっ、そうですね!」



 アユハの言葉に、彼女が目を丸くしたのも一瞬だ。その返答も特別なものではない。

 会話の間に呼吸は整った。早く騎士たちに合流しなければ。アユハは頬を流れる雨雫を乱雑に拭う。

 アユハから伝えるべきことはそれだけだった。しかし、ティエラにはまだ何かがあるようだ。前方で騎士たちとケモノが衝突した気配を感じ取るが、彼は立ち止まったまま、主君の言葉を待っている。

 アユハにとって、彼女の言葉は何よりも優先させるべきものだった。それは黒獣と命を削り合う今、この瞬間でも変わらない。



「アユハ」



「はい」



「私についてきてくれてありがとう」



 唐突な言葉に思わず硬直した。そんなことを言われるとは予想もしていなかったのだ。用意された答えなどあるわけもなく、彼は言葉を詰まらせる。



「……なぜ、今……」



「さあ、なぜでしょうね。……でも、あなたがいたから私はここまで闘えた。こんな時だからこそ言わなければと思ったのです」



「それは……ティエラ様、俺……」



 困惑したままのアユハとは裏腹に、剣を引き抜いたティエラは泰然とした態度で酷く柔らかに微笑んだ。――騎士たちは彼女の笑顔に驚いていたようだが、アユハにとっては目を見張るほど珍しいものでもない。頻繁でこそないものの、王女は健やかに暮らす民を見て安堵を零すような人だった。


 

「行きなさい。これが最後の戦いです。あなたが先陣を切らなくてどうするの」



 アユハを追い越したティエラが、先に戦闘を始めた騎士たちのもとへと駆けていく。足取りの軽いその後ろ姿に目を細め、王女の騎士は主を追って暗い戦場へと駆けだした。










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