5. 氷の王女と冬の騎士 (2)






 美しい石畳の街道を川のような水が流れている。

 休むことなく避難誘導を続けたことが功を奏したのか、逃げ惑うアルヴァレスの民たちはいつの間にか見当たらなくなっていた。

 ケモノの唸りだけが満ちる王都は不気味で、あの眠らない街の面影は微塵もない。人のいないアルヴァレスに対する形容し難い恐怖を振り払うように、騎士たちは砦への道を急いでいた。

 


「!」



 駆ける集団の頭上を巨大な影が覆う。直後、騎士たち目掛けて降ってきたが、丸太のように太い腕を振り下ろした。――ケモノの群れがアユハたちと肉薄する。

 どうやら家々の屋根伝いに移動してきたらしい。黒獣の通り道にされた家屋は、その足跡を示すかのように軒並み倒壊していた。

 そして、ケモノの出現と同時に地を蹴る剣士が一人。



「……!」



 騎士たちがケモノの存在を認識した頃には、既に先陣を切って一同を襲撃した敵の姿はない。残っているのは黒い霧の残滓のみ。

 彼は剣に滴る瘴液を振り払うと、黒獣の群れの前に立ちはだかった。



「ティエラ様の護衛が最優先。俺からも離れないように注意して立ち回ること」



 アユハは騎士たちを振り返る。黒獣の大群を前にして、その目はあまりに静かだった。



「この剣が範囲にいてください。少しでも黒獣化の兆しを見せたら――殺しますよ」



 ゴクリと息を呑んだのはケモノに怯えたからではない。そんな絶望よりも冷ややかな眼差しを黒獣へと向ける彼に気圧されたからだった。

 アユハはその手に握る白銀の剣を軽く振る。ゴウ、と凍てつく風が騎士たちの間を吹き抜けていった。



「ティエラ様。貴女に剣は抜かせません」



 黒獣と向き合いながら目だけで王女に合図を送る。頷いた彼女は、鞘に納まったままの剣を地面に打ち鳴らした。



「コールディルに続け!」



 ティエラの合図とともに一層冷え込む周囲の空気。ケモノの臭気が立ち込める災厄の中心で、月色の剣が唸る。

 黒獣が動くよりも先に、オリストティア随一の剣士が走りだした。



「ぜ、前進!」



 病巣渦巻くアルヴァレスに銀の軌跡が弧を描く。雨の降り続く戦場でオリストティアの冬が舞っていた。

 無秩序なケモノの攻撃を物ともせず、アユハは群れの中心を駆け抜ける。

 斬って斬って斬り刻んで、瘴液に汚れ、滴る黒。ドロリと粘着質の黒獣の体液が、美しい刀身を流れ落ちる。

 


「これがアユハ・コールディル……」



 呆気に取られる騎士たちの前を進むのは、黒獣を狩るために生きる人だった。

 彼の名と数々の功績こそ耳にするものの、実際に一般兵たちがその剣を目の当たりにする機会は少ない。遠く離れた存在である騎士と肩を並べて戦えることは、奇跡に等しいことだった。こんな状況でさえなければ、今頃は噂以上の鮮やかな剣技に見惚れているだろうと思うほどに。

 神速の剣が騎士たちの前で光る。同じ人とは思えないほどの精密さで、剣士は黒獣の核を砕き続けた。

 ――そんな彼の注意が向かう先はここではない。戦う相手を選ぶ知恵すら持たないモノの相手など、何でもない思考の片手間で十分だ。



(コレが病だなんて……)



 今から200年前。世界を燃やし尽くし、戦争は終わった。“終末大戦”の終結――それは、人々がようやく手に入れた平穏だった。

 しかし、束の間の平和は再び襲い来る嵐の前の静けさに過ぎなかった。の時代は刹那に終わり、人間は滅ぼす側から、滅ぼされる側へと追い込まれることになる。

 黒獣病は人に休息を与えなかった。人間同士の争いで壊れかけた世界を、黒い泥が蝕み、淀ませ、終わらせんと拍車をかける。

 黒獣病を初めに“病”だと言ったのは誰だったのだろう。コレは病だなんて生温いものではない。――呪い。遠い昔、黒獣に成って自分に殺された先輩騎士は「呪い」だと。そう言っていたことを今でも鮮明に覚えている。



「……その通りだ」



 こんな景色、いい加減に冗談だと言ってほしい。一体、いつになればこの悪夢は醒めるのだろう。

 口癖のように唱えた言葉が、いつにも増して重く心に沈み込む。

 呪いだって、何だって構わないから。彼女だけは無事に、外へ。アユハを鼓舞する理由は、いつであろうとただ一つだった。

 









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