4. 氷の王女と冬の騎士 (1)
アルヴァレスはオリストティア王国で最も安全な場所のはずだった。それが今、彼らは城を追われ、ケモノに追われ、逃げ道を必死に探している。
命からがら城を抜け出して降り立った城下は、より一層濃い瘴気が充満していた。生臭い空気を浴びながら、王女たちは王都を疾走する。
(アルヴァレスが……暗い……)
外はいつの間にか酷い嵐になっていた。凍えるような冷たい雨が王女を濡らす。雨風に晒されても良いような人ではないのに、
王都には目も当てられないような惨状が広がっていた。逃げ惑う人々の悲鳴はケモノの咆哮に掻き消され、その咆哮すらも荒れ狂う風が攫っていく。
四方八方どこを見てもケモノばかりの変わり果てたアルヴァレスの街で、ティエラは声を張り上げ続けた。一人でも多くの民を、この悪夢から逃すために。
「レフィルブラン砦へ! 急いで!! ケモノは騎士団に任せてください!」
空気は淀み続ける。黒い瘴気は吸うほどに体を蝕み、一歩、一歩、確実に黒獣化へと近付いていく。
自分はあとどれくらい人間でいられるのだろう。数分後には目の前のコレと同じようにヒトを喰っているのだろうか。恍惚としながら真っ赤な血を浴びて、奇声を発しながら次の獲物を探すのだろうか。
「嫌だ、こっち来ないで!」
「死にたくない死にたくない!! 私たちが何をしたって言うの!?」
「王女様……この国は終わるのですか」
なんで。どうして。絶望に呑まれ、覇気を失った声が聞こえる。
ティエラは民の問いに対する答えを持たなかった。分からない――なんて無責任な言葉だろう。そんなことは皆、知っている。その上で彼らは答えを求めているのではないか。
“王女”ならば、何か納得のいく言葉をくれるはずだから。
「……レフィルブランへ。今は避難が優先です。騎士団の誘導に従って早く!」
変わらない表情の下で、拳を握りしめる。手のひらに爪が食い込もうが、感覚のなくなった指先では痛みも感じない。
気休めでさえ口にするのを躊躇った。何を言っても無意味に思えて、自分の言葉に寒気がする。
(私が望んだ未来は、こんな――)
生まれた頃から、この世界は終わっていた。感染症よりも、黒獣に襲われて死ぬ人間の方が多い時代だった。
それでもこの国は恵まれていた。明日を信じて生きていける。未来の話を許される。
そんな国だったから、ティエラは戦いの道を選んだ。日々黒獣との血生臭い戦争に没頭する王女は、ひどく冷徹な人間に映ったようではあるけれど。“氷の王女”の呼び名は、人々にとっては感情の乏しい自分を揶揄する言葉だったのだろう。しかし、ティエラにとっては、それこそが戦いの中で生きている証だった。感情だけで論じていても、この国の未来はない。
ただ平穏が欲しかった。鮮やかな花を大切にしたかった。武装など必要のない世界を歩いてみたかった。黒獣病なんて、歴史の波に埋めてしまいたかった。
王女はただ、オリストティア王国にどこまでも続く明日を望んでいた。
「ティエラ様」
アユハの声でようやく我に返る。騎士たちはレフィルブラン砦への道を急ぎながら、取り残された人々を助けるための進路を取ろうとしていた。
その指示を下した彼は、それが最良の道だと知っている。国を守るチカラを持たなかった自分と違い、彼はどこまでも自らで道を拓いていける。
「……なに弱気になってるんですか。そういうのはレフィルブランに着いてからにしてください」
「弱気になど……」
「大丈夫。貴女には俺がついています」
「それは……ええ。分かっています」
砦への道を進む隊員たちが二人から遠ざかっていく。しかし、先導を担うアユハはティエラを見つめたまま動こうとしない。
その視線は、とうに彼女の思考など見抜いているようだった。幾度となく厳しい戦場を生き抜いてきた剣士の観察眼に、ティエラはいつまで経っても敵わない。
「ティエラ様? どうなさいましたか」
「……もし。もし私が道半ばで尽きるようなことがあれば――そんな顔しないでください。もしもの話です」
「……いくら例えでもそういった話は聞きません。砦までには忘れてください」
「聞きなさい。大切な話です」
眉をひそめて心底嫌そうな顔をする彼に、ティエラは精一杯の穏やかさで語りかける。
ティエラとて、簡単に脱落する気などない。
自分で始めた戦いに、たくさんの人々を巻き込んでここまで来た。ただでさえ不穏な時代、ささやかな安寧を求める生活を選ぶことだってできたはずなのに、騎士たちはこの言葉に、この意志に従い、戦場で生きる道を選んでくれた。その責任を果たすためにティエラは今も、これから先も、黒獣と闘う意志を貫いていく。
けれど、これはそういう話ではなくて。
「私の目指す未来を覚えていますね?」
「――オリストティア王国に平穏を。枯れ果てた大地に花々を。黒獣病からの勝利を。神のいない世界に、溢れんばかりの祝福を」
「……最後のは昔、あなたが加えたものでしょう」
「神がいるのなら、こんな世界とっくに救われてる」
一秒先に何が起こるのか、先のことは誰にも予想できない世界だから。
態度で示すことは簡単だった。それを言葉で伝えることにこそ意味がある。
だって、彼は。
「もし、私が道半ばで力尽きるようなことがあれば。私の意志はアユハ、あなたが継いでください。互いの誓いを果たすその日まで、歩みを止めることは許しません」
ここにいるのは王女の
彼とならば、叶えられると信じている。
「……俺は貴女の剣です。貴女の意志に従ってどんなに厳しい悪路でもこの手で切り拓くと、今一度誓いましょう。――ですが」
腰に据えた剣を撫でる。彼だけの一振りが月のように煌めいた。
「その道を歩むのはティエラ様、貴女です」
いつか、夜明けを臨む日に。そこに王女の姿があることを信じて疑わない彼は、今日もティエラの言葉に頷き返すことはないけれど。
「ええ、そうですね」
だって、彼は――私の言葉を忘れない。
先を行く騎士たちを追いかける彼の背を見つめながら、王女は静かに頷いた。
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