3. 難攻不落の城塞都市






『これ以上は危険です。城を離れる決断を』



 それは、たった数分前の彼の言葉だった。会議室にまで迫ったケモノを一突きで屠り、艶めく瘴液に剣を濡らしながら、アユハはひどく凪いだ目でティエラを見ていた。

 


「……全員、城から脱出を。アユハに続きます」



 騎士たちの賢明な抵抗も虚しく、アルヴァレス城は黒獣の手に落ちた。敵の数は圧倒的で、増援に増援を重ねたにも関わらず城門はあっさりと陥落する。白亜の城はケモノに占拠され、会議室に気味の悪い咆哮が聞こえるようになるまでに時間はかからなかった。

 それに対し、王女の判断は早かった。城に残れば自分たちの結末は目に見えている。黒獣に喰われるか、黒獣に成るか――残された選択肢を前に、城を捨てる決断など容易い。

 


「避難誘導も城からレフィルブラン砦に変更したようです。俺たちもあそこを目指しましょう」



「分かりました。先導は任せます」



 この命はティエラだけのものではない。この名は、この身は、この従者は――オリストティア王国の“王女”に与えられたものだ。そう簡単に黒獣になど渡してやるものか。



「外に出たらケモノの群れと遭遇すると思いますが、そのまま突破して1番隊と合流します。まあ……今はアルヴァレスのどこを通ってもケモノだらけでしょうけど」



 広い廊下を駆けるアユハの背をティエラは追いかける。彼は今、涼しげなその表情の下で何通りもの脱出方法を思案しているはずだ。アユハの下したその決定に対し、ティエラが異を唱えることはなかった。

 こと戦いに関して、アユハは判断を誤らない。それが、王女を守る戦いであるのならば尚更。ティエラはそれをよく知っている。



「ティエラ様! ご無事ですか!」

「アユハ様……! いったい、何がどうなっているのです!?」



 城内を闊歩するケモノを駆逐しながら、アユハは王城の回廊を駆け抜ける。ティエラを挟むように後ろには居合わせた騎士たちが続き、名も知らない彼らと小さな隊を作りあげた。王女を守りながら、彼らはともに城からの――王都アルヴァレスからの脱出を目指す。

 


(正門と北門は陥落。ホールを抜けて南門……も避けた方がいいか。この状況だと既に占領されてる可能性が高い。とすると、残るは……)



 城の主要な門は最早ケモノの侵入経路と化した。王女をはじめとする多くの命を預かる身として、なるべく黒獣との接触は避けた状態で王都にまでたどり着きたい。

 城からの脱出はただの始まりに過ぎず、そこから先は厳しい戦いの連続が予想されるのだ。少しでも吸い込む瘴気の量を抑えなければ、いずれこの中の誰かが黒獣化するだろう。



「!」



 思考を止めることなく駆け続けた足がふいに停止した。どうやらこの道も黒獣がひしめき合っているらしい。すぐ先にケモノの群れだ。幸いなことに相手はまだこちらに気付いていないようで、その隙にアユハは小声で指示を出す。



「一つ前の通路から騎士団宿舎に向かってください。その先の裏門から王都に出ます」



「承知しましたが……アユハ様は?」



「少しヤツらを減らしておこうかと」



 生者の匂いを嗅ぎ取ったらしいケモノたちが振り返る。虚ろな視線の先に人間の集団を捉えた黒獣が、一斉に体を揺らして走りだした。黒い油のような巨体からは絶えず瘴気が立ち上り、長い廊下に尾を引きながら拡散していく。



「アユハ」



 相変わらず抑揚の欠片もなく自分の名を呼ぶ王女の声。しかし、そのたった一言に込められた無数の意味をアユハは知っている。だから、彼はティエラに向かってただ頷いた。

 時にすればそれは一瞬。視線が合わさっただけの刹那の間に、二人はそれぞれの意思を確認し合う。それ以上、彼女からの言葉はなかった。ふいにティエラは身を翻し、アユハの指示に従って来た道を戻り始める。

 


「アユハ様……」



「すぐに合流します。ティエラ様をお願いしますね」



 軽い調子で先を促せば、騎士たちは王女を追いかけて道を引き返していく。彼らからの惜しむような視線には気付かないフリをした。ここで脱落する気など毛頭ない。遅かれ早かれ遭遇するであろう邪魔者たちに先手を打つだけだ。

 


「さて」



 遠ざかる騎士たちの気配を背で確認しながら、アユハはケモノの群れと対峙する。



「お前は王都の侵入者? 避難民? それとも……ウチの騎士?」



 一人静かに呟くアユハの頭上を黒い影が覆う。ケモノの瘴気は廊下に満ち、動きに沿ってアユハの体を呑み込んだ。

 しかし、そんなことには構わない。

 飛び上がった黒獣の攻撃をさらりとかわし、彼は敵の背後に回り込む。そのまま胸部の中心に鎮座するコアを貫き、勢いを殺さずに剣を引き抜いた。さらさらと灰のように黒獣の体が霧散していく。



「まあ、誰だっていいけどね」



 この黒獣が何者であろうと、なってしまえば救う術はない。理性を失い見境なく人を襲うようになった時点で、その人間はケモノに成ったのだ。そのような相手に対し、アユハの剣が鈍ることはない。

 ――あれだけ恐れていたケモノに自分が成る。発する瘴気で多くの人を黒獣化させ、それ以上に多くの命を奪う前に。この手で止めてあげることが、せめてもの救いになるだろうか。



(城に侵入したケモノは王都のヤツが流れてきたのか……いや、違うな。どんなに足の速いケモノでも時計台からここまではもう少しかかるはず……いくら何でも到着が早すぎる)



 アユハの目の前を塞いでいるのは平凡なケモノの群れだ。たらたらと廊下を歩いていたような黒獣が、そんな速度で移動してくるわけがない。

 それとも、湧いたそれぞれの地点から一直線に、この城に向かって来たとでも言うのだろうか。王都を逃げ惑う人々には目もくれず、黒獣が、何らかの目的を掲げて。

 そんな知能、ケモノには備わっていない。ケモノは目の前の命を理由もなく貪り、瘴気をまき散らしては病を広げ、誰かにコアを砕かれるまで破壊を繰り返すだけの存在だ。

 だから。“ありえない”と知っているから、想像してしまう。ここにいるケモノたちはまるで――。



「……本当にみたいだ」



 王都アルヴァレスは高い防壁が囲う、オリストティア王国最大の都市。壁を越えられる飛行型のケモノですら即座に撃ち落されるようなこの街は、その全体が砦の役割を果たしている。

 いくつもの防衛施設と無数の騎士が守る堅牢な都市を越え、さらに巨大な城壁を突破しなければ、この城にはたどり着けない――はずなのに。



「この国に何が……」



 難攻不落の城が、成す術もなく陥落する。

 その問いに答えられる人間は、今のオリストティア王国に存在しなかった。










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