自己満足のチョコレートムース
心に留めていることがある。それは「プレゼントは自己満足だ」ということ。プレゼントを渡した時、相手に喜んでもらえたら嬉しい。けれど、そうじゃないことだってある。プレゼントとは、私が「渡したい」という気持ちで勝手に用意したものなのだから、相手の反応を期待してはいけない。相手の負担になるようなものを渡してはいけない。だから、今まで渡してきたプレゼントはお菓子とか、ハンドクリームとか、そういう無くなってしまう物、気に入らなかった時、処分に困らない物がほとんどだ。
だからこそ、私は今、もう寝ようと思ったのにベッドの中でとても悩んでいる。ヤナさんに渡すバレンタインチョコのことだ。
実は、チョコレート自体はもう買ってある。私は毎年、百貨店で行われるパレンタインのイベントで、自分用のチョコを相当量買う。いつもはそれを一人でゆっくり楽しむのだが、今年はヤナさんと一緒に食べている。というか、ヤナさんと一緒に食べる前提で、去年よりも多く買ってきてしまった。帰ってきてレシートをまとめた時、その総額に恐ろしくなったほどだ。
その時、バレンタインにヤナさんに渡そうと買って来たのである。ミッシェル・プランの「ル・コマンド」。味が違う四角いチョコレートが六粒、美しく光を反射していた。箱も高級感があるし、紙袋もオシャレ。誰に渡したって恥ずかしくない、ハイグレードな逸品である。
しかし、渡す相手はヤナさんなのだ。散々言われているので、そろそろわかってきた。ヤナさんは私の手料理が割と好き。なら、もしかすると手作りのチョコレートの方がいいのでは…?
そもそも、ヤナさんにチョコレートを渡そうと思ったのだって、深い意味があるわけじゃない。バレンタインのイベントに行ったし、ヤナさんには普段の家事なんかでお世話になっているし、もらって困るものでもないし、せっかくだから渡そうかな、みたいな。「義理チョコ」とまで味気ないものでもないけど、「いつもありがとうチョコ」みたいな。そんなものがあるかどうかは知らないけど。
しかし、手作りとなると話が変わってくる気がする。そもそも最後にバレンタインにチョコレートを渡したのは学生の時だ。その時はブラウニーを作って、大きなタッパーに入れて、同じようにしてクッキーや生チョコなどを持ってきた女友達と休憩時間につまんだのだ。だから、「渡した」と言えるようなものでもない。
つまり、私のパレンタインの経験が乏しすぎる。「バレンタインに手作りチョコを用意する二十代女性」って痛くないか?いや、恋人に渡すなら「可愛らしい」で済むのか? 駄目だ、わからない。
明日も仕事なのにベッドの中で何度も寝返りを打ちながら頭を悩ませる。そこで、思い直した。「プレゼントは自己満足」。渡したければ、渡せばいい。
「あれ?」
「どうした?」
夜ご飯を食べ終え、ヤナさんと二人、ゆっくりお茶を飲んでいる時だった。湯飲みを持つヤナさんの指を見て、違和感を覚えた。
「ヤナさん、爪切ったの?」
ヤナさんの長く尖っていた爪が、短く切り揃えられていたのである。
「ああ、切った」
「え、どうして?」
「どうしてって、爪は伸びたら切るものだろう?」
なんてことないように言うが、それにしてはヤナさんの爪は出会ってからずっと鋭く長かったのだ。まさしく「鬼」というような。それを今になって短く切ってしまうなんて、何か心境の変化があったに決まっている。しかし、それを無理やり聞き出すこともないか、と口を噤む。
「別に大した理由はない。ずっと長いままにしていたが、掃除だの何だのをするのに邪魔だからな。特に必要もなくなったから、短くしてしまっただけだ」
「必要なくなった? 前は必要だったの?」
「昔は、な」
私が遠慮したのを察したのか、ヤナさんは軽い口調で理由を語ってくれた。しかし、昔は必要だった理由は言ってくれなかったので、そこは触れてほしくないんだろう。妖怪のヤナさんが、あの硬くて鋭い爪で何をする必要があったのか。薄ら寒い心地がするので、深く考えないようにしょう。
私があまりにも見つめるものだから、ヤナさんは私に片手を差し出してくる。それを両手で受け、ヤナさんの人差し指の爪を撫でた。切り口は引っ掛りも無く滑らかて、緩やかなカーブを描いている。手のひらは固いが、厚みを感じる。少し乾燥しているようだが、温かい手だ。
「どうした。俺の手が気に入ったか?」
「んー……」
「掃除だの何だの」。ヤナさんは私が仕事に行っている間に家のことをいろいろとしてくれている。私はここに住むようになってから、掃除なんてほとんどしていない。料理はするが、洗濯だってヤナさんがしてくれる。ヤナさんは「家にいてやることもなく暇だから」と言ってくれているが、私が助けられていることに変わりはない。
「いつもありがとう」
ヤナさんの片手を両手でぎゅっと握って、改めて感じたお礼を言う。
やっぱり、チョコ、作ろう。それがお礼になるとは思わないけど。
二月十一日の午後。結局、買ってきてしまった材料を前に腕を組む。いろいろと悩んだが、もうここまで来たら作るしかない。ヤナさんは食べ物の好き嫌いは無いから大抵ものを美味しく食べてくれる。渡して困らせることもないだろう。恋人でも何でもない相手に手作りチョコを渡す微妙さは、勘弁してもらおう。まぁ、ヤナさんは世間に疎いので、何も感じないかもしれないけど。もうヤケクソだ。
まずはチョコレートを割る。ガーナの黒だ。板チョコはガーナが一番好き。チョコは手で適当に割って、ボウルに入れておく。次に卵を卵白と卵黄に分ける。卵白は少し大きなボウルに入れ、冷蔵庫で冷やしておく。卵黄は小皿に入れる。チョコレートを入れたポウルを湯煎にかける。溶けてきたら湯煎から外し、少し冷ます。チョコレートの温度が高すぎると、次に入れる卵黄に火が通ってしまうのだ。冷めたら、分けておいた卵黄を加えて混ぜる。そこまでやったらこのボウルは少し除けておく。次は卵白でメレンゲを作る。卵白に一つまみだけ塩を入れ、ハンドミキサーで解す。砂糖小さじ一を入れ、ハンドミキサーの高速で抱立てる。ある程度抱立ったら更に砂糖小さじ一を入れ、更に泡立てる。角が立つくらいになったらハンドミキサーを低速にし、全体の泡のキメを整える。これてつやつやのメレングが出来上がった。このメレンゲの半分をチョコのボウルに入れ、ゴムベラで優しく混ぜる。しっかり混ざったら、残りのメレングを加え、丁寧に混ぜる。白い塊が残らないように、でも、泡が潰れてしまわないように。
コロンとした丸みが可愛いガラス容器を二つ用意し、そこにスプーンで入れていく。片方を気持ち多めにして。後は冷蔵庫で冷やして完成だ。明日の午後、おやつとして出そう。
「ん? 甘い匂いがするな」
「今、冷蔵庫で冷やしてるから、食べられるのは明日だよ」
「そうか。楽しみにしておこう」
「はい。ヤナさん」
「ん? ありがとう。これは何というものなんだ?」
「チョコレートムースだよ」
「チョコレート、むーす」
翌日の午後、十四日は平日なので今日がうちのバレンタインということにする。
ヤナさんはコーヒーと一緒に渡したチョコレートムースが入ったグラスを持ち上げ、まじまじと見つめる。その間に、私は小さな紙袋をコーヒーの横に置いた。
「こっちは何だ?」
「えっと、パレンタインのチョコレートです」
「バレンタイン? もう、幾つも買っているが」
「え?」
「ほら、昨日もバームクーヘンを切り分けてくれただろう。あれ等は百貨店のバレンタインフェアで買ったと言っていなかったか?」
「あぁ、それは私が自分用に買ってきたチョコを一緒に食べてるだけで、それとは別のチョコだよ」
「別枠。そういうものなのか。それにしても、二つも用意してくれたのか?」
「いやぁ、私がそのパレンタインフェアに行った時に、一緒に買ってあったんだけど……。手作りしてみてもいいかな、って後から思って。だから、作ってみたの。えーっと、『いつもありがとう』のチョコです」
気取ずかしさから早口になってしまうし、目も合わせられない。おかげてヤナさんがどんな表情をしているかもわからない。
「鈴和」
「はい」
「鈴和」
名前を呼ばれ、返事はしたが、目は合わせられないままでいると、もう一度、強く名前を呼ばれた。その声に促されるようにヤナさんに視線を合わせる。
「ありがとう」
噛み締めるような、なにか眩しいものでも見たかのようだった。一見、苦しそうに眉を寄せているが、眼差しはどこか柔らかい。
「鈴和にこんなにも心を砕いて買えるとは、俺は甚く仕合わせだな」
「そんな、しみじみ言うようなことじゃないよ。いつも掃除とか、お世話になってるのは私だし」
「そう言ってくれるな。鈴和が俺のことを考えてくれたことが、得難い幸福だと言っているんだ」
ヤナさんはムースが入ったグラスを両手で持っている。それが、大事なものを手放さないよう包み込んでいるようだ。こんなに仰々しく喜ばれてしまうと、怖気づいて自分の分も用意して「ガチ感」を減らそうとした私が情けなくなってしまう。
「喜んでもらえて何よりです。そっちのチョコ、開けてみてよ。絶対美味しいやつだから。ムースも何回も作ったことあるから、失敗はしてないと思う」
「そうか。なら、まずこちらを開けさせてもらおうか」
ヤナさんは紙袋から小さな箱を取り出す。箱を開けると濃厚なチョコレートの香りが広がり、中にはつやつやのチョコレートが六粒並んでいる。綺麗だな。美味しそう。
その内の一つをヤナさんが摘まみ上げ、口に入れる。ゆっくりと溶かしながら味わう様子をじっと見つめてしまう。
「うん、美味いな。味が濃い。匂いも複雑だが変やかさも感じる」
「へえ」
「ほら」
「んむ」
ヤナさんは一粒、私の口に押し付けるように入れてくれた。香ばしいチョコレートの香りが身に抜ける。ゆっくりと柔らかくなっていくと、濃厚な味わいが広がる。程よい苦みと細やかな甘さのバランスがいい。
「美味しい。ありがと」
「ああ」
「でも、パレンタインのチョコなんだから、全部ヤナさんが食べても良かったのに」
「そういうものか? 今まで、鈴和が買ってきたものはどれも俺に分けてくれていたからな。これもそうするべきかと思ったんだが。それに、『美味しいものは一緒に食べたほうが美味しい』だろう?」
「そうだけど……」
いつか、私がヤナさんに言った言葉だ。美味しいものを共有する相手がいることは、お腹以外の別の場所を満たしてくれることを、私は祖母から教えてもらった。
「では、次はこっちのチョコレートムースを頂こうか」
ヤナさんはコーヒーを一口飲むと、二粒減った箱を閉じ、横に除ける。そして、ムースとスプーンを引き寄せた。ムースには先ほど泡立てた生クリームを乗せて、庭で育てているミントを添えた。このミントはヤナさんが育てているもので、冬なのに葉っぱが枯れず、瑞々しい機色を保っている。ヤナさんは「何もしていない」と言うけど、私は何か、妖怪パワー的なものが働いてるんじゃないかと思っている。妖怪パワーなんてものがあるかどうかは知らないけど。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
ヤナさんが生クリームと共にチョコムースを揃って口に運ぶ。その動作がいつもよりゆっくりだと感じたのは錯覚だろうか。口からスプーンを引き抜いたヤナさんが目を見開く。
「美味い! 美味い、が、瞬く間に溶けてしまう。しかしこれは、飲み物ではないか? もう少し舌の上にのせて味わいたいのだが」
「ふわふわしてて、トロッと無くなっちゃうのがムースだよ。上手に出来たみたいでよかった」
私も一口、食べる。うん、美味しい。まぁ、材料がシンプルなだけに、この美味しさはガーナの板チョコのおかげだけど。ヤナさんは小さなスプーンを何度も往復させていて、グラスの中身はどんどん減っていく。
「チョコレートの苦さと甘さが丁度良い塩梅だな。口当たりが滑らかですぐに腹を通ってしまう。丼の大きさで欲しいくらいだ」
「ふふ、丼って」
「何だ、戯れ言ではないぞ」
「本気で言ってるほうがおかしいよ。丼サイズはくどくない?」
「そうか? そんなことはないが」
「えぇ? でも、そっか。ヤナさんが本気なら、作ってみようかな」
「お、言ったな。約東だぞ、違えるなよ」
「わかった、約束ね」
ヤナさんが差し出してきた小指に、自分の小指を絡める。指切りなんていつぶりだろうか。
「プレゼントは自己満足」その考えが変わることはないだろう。だけど、チョコムースを井で出した時のヤナさんのリアクションを期待してしまうのは仕方ないことだよなぁ、と、太さも色も温度も違う二本の絡んだ指を見ると、そう思ってしまうのだ。
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