わるいおんな①

「お邪魔します」

「ん、どうぞ」


 私はいつものように、春流ちゃんの家に招かれていた。意外にも彼女の方から家に入れてくれたけれど、私はといえば、いつも以上に緊張していた。


 ぶつかってみる、とは言ったものの。

 そんな雰囲気でもなくて、少し困る。春流ちゃんは完全にいつも通りって感じで、お茶を淹れようとしている。この空気感を変えないと、と思って、私は立ち上がった。


「春流ちゃん。今日は、私がお茶淹れてもいいかな?」

「いいよ」

「ありがと。このお茶、淹れ慣れてるから。きっと春流ちゃんにも美味しいって言ってもらえる出来になると思う」


 私がお茶を淹れていると、彼女の視線を感じた。

 感心した様子で見られると、肩に力が入りそうになる。でも、一番いい状態で彼女にお茶を飲んで欲しいから、頑張って耐えた。


 お茶を湯呑みに入れて、ダイニングに持っていく。

 彼女はいつものように、ソファに座った。私もその隣に座って、湯呑みをテーブルに置いた。


「……そうだ。靴下、脱いでもいい?」

「どうぞ」


 何度も彼女の家に来る中で、少しずつ緊張が解けてきて、靴下を脱ぐのにも抵抗がなくなってきた。


 彼女が私に靴下を脱いでほしい理由は、聞いても完全には理解できないけれど。


 靴下を脱ぐと、少しだけリラックスできた。自分の家ではないのに、自分の家みたいな感覚で。私は少しだけ、脚を広げてみせた。


 はしたないという言葉がお母さんから飛んでこないのは、ちょっと不思議な感覚だった。


「……お茶、せっかくだし飲んでもいいかな?」

「うん。……あ、そうだ。このキャラメル、室井さんから」

「眞耶から? ……わお。ありがとって伝えといて」


 私はバッグからキャラメルを取り出して、彼女に渡した。

 好きっていうのは本当のことらしく、彼女は少しだけ嬉しそうな感じでキャラメルを口に運んでいる。そんなに美味しいのかな、と思って私も食べてみるけれど、普通のキャラメルって感じだった。でも、春流ちゃんの好きなものを知って、一緒に味わえて嬉しい。


 嬉しい、けど。

 それきり会話が止まってしまって、少しだけまた居心地が悪くなる。


 素足の時にこんなに気まずい思いをするのは、初めてかもしれない。足の指をなんとなく動かしてみるけれど、緊張は解れなかった。


「……あの!」

「——ねえ」


 声が重なる。

 頻繁に声が重なる相手は相性がいい、とどこかで聞いたことがあるけれど、今は素直に喜べなかった。

 春流ちゃんが言おうとしていることは、きっと。


「これで最後にしない?」


 彼女は、言う。

 いつもなら、私の方から先に話していいよって言ってくれるはずなのに。


「何を?」

「こうやって、一緒にいるの」


 なんで、私を遠ざけようとするの。

 彼女が言おうとしていることはわかっていたはずなのに、胸がずきずきする。私のこと、好きって言ってくれたのに。どうして頑なに、私と別れようとするんだろう。


「なんで」

「……私は、悪い女だから。一緒にいたら仲町のこと、不幸にしちゃうよ」

「……何それ」


 春流ちゃんが悪い女なら、私だって悪い女だ。

 春流ちゃんは自己評価が低すぎる。自分の魅力について全然わかっていないし、私がどれだけ春流ちゃんのことが好きかってことも、きっとわかっていない。


 伝えたいのに。

 伝えられなきゃ嫌なのに。

 どうしてうまく伝えられないんだろう。


「私、春流ちゃんと一緒にいて不幸だって思ったことなんてない!」

「未来のことは、わからないでしょ」

「わかる! 私は、春流ちゃんのことが好き! 一緒にいて幸せにはなっても、不幸になんてならないよ!」

「……私が他の人のこと、好きになっても?」

「……え」


 心臓を鋭い針で突き刺されたような心地がした。

 春流ちゃんが、他の人のことを?


 考えるだけで、表情が凍りつきそうになる。私の表情を見て何を思ったのか、春流ちゃんはにこりと笑った。


「……嫌でしょ?」

「嫌、だけど。春流ちゃん、他に好きな人、いるの?」


 声が震える。


「いないよ。でも、未来のことはわからない。もしかしたら明日には好きな人ができてるかもしれないし、仲町のこと好きじゃなくなってるかもしれない」


 軽い調子の声だった。

 それを聞いただけで、私は何も言えなくなる。


 人にかける言葉を迷うことなんて、ほとんどないのに。春流ちゃん相手だと、迷ってしまう。悩んでしまう。口が開かなくなってしまう。


「人の気持ちは、曖昧だから。特に、私のはね。仲町には迷惑かけて、本当にごめん。……でも、仲町には私よりもいい人がたくさんいるよ」


 そんな常套句は、聞きたくなかった。

 春流ちゃんよりいい人なんているはずない。それだけは確かなのに、声が出ない。何か言わないと本当にこの関係が終わってしまう。


 私はお茶で唇を湿らせようとしたけれど、手が震えてうまくいかなかった。


 湯呑みが歯にぶつかって、手からこぼれ落ちる。あっと思った時には、スカートにお茶がかかって、湯呑みが床を転がった。


「仲町! ……大丈夫?」


 切羽詰まった声を上げたかと思えば、彼女は平静を装って言う。

 お茶は十分冷めているから、熱くはなかった。


 ……でも。

 今くらいは、悪い女になってもいいかもしれない。


「熱っ。は、春流ちゃん! これ、どうしたら……!」

「えっ。と、とりあえず脱がないと!」

「す、スカートってどうやって脱ぐんだっけ!」

「ちょっと貸して!」


 春流ちゃんより私の方が、よっぽど悪い女だ。

 嘘をついて、心配させて……心配してくれたことを、喜んでいる。


 春流ちゃんが私のために慌てて、必死になってくれている。それが嬉しくて、思わず笑いそうになってしまう。こういう人を試すようなことは最低だってわかっているのに、やめられない。


 こんな気持ちになったのは、初めてだった。

 春流ちゃんが他の人と仲良くしているだけで嫌な気持ちになるのも、自分のためだけに嘘をつくのも。


 全部初めてで、こんなに醜い心が自分にあったんだって驚く。

 だけど、これが「好き」だから、止まれない。


 春流ちゃんは必死になって、私スカートを脱がしてくる。心臓の鼓動が速くなるのを感じるのと一緒に、彼女の気持ちも感じ取れた。春流ちゃんは、私のことが好きだ。それは明日になったら消えてしまうような、曖昧な気持ちじゃなくて。


 明日も明後日も、きっと続いてくれる気持ちなんだと思う。

 私が春流ちゃんに向ける気持ちと、よく似ているから。だから、彼女の気持ちを信じることができる。


「氷、持ってくる!」

「待って。下着も、濡れてる」


 彼女の腕を掴む。

 びくりと体を跳ねさせてから、彼女は恐る恐るといった様子で私を見つめてきた。私は無垢なふりをして、少し腰を上げた。


 どうなんだろう、と思う。

 乗ってきてくれるのか、それとも。


「……脱がすよ」


 私の気持ちが伝わったのか、そうでないのか。

 わからないけれど、彼女は私の下着に手をかけてきた。その長い指の先から、気持ちを感じる。緊張しているというのは、わかった。私が春流ちゃんに触れようとする時と同じ感じの指先だ。


 胸の鼓動が速い。

 その気持ちが嬉しくて、背中がむずむずして、今すぐ彼女を抱きしめたくなる。


 だけど今は、彼女を見ていたかった。

 顔を赤くして私の下着をゆっくりと脱がしていく彼女は、とても綺麗だった。


「……これで、大丈夫?」

「わかんない。火傷してないか、見て」


 私は他の人が言うほど無邪気でも無垢でもない。

 好きな人を心配させて、惑わせて喜んでいる、悪い女だ。

 でも今の私には、これしかできることが思いつかない。


 きっと、私の顔も彼女と同じように、真っ赤になっているだろうけど。二人で同じ顔をしているというのは、それはそれで特別感があって悪くない。

 私は、にこりと笑った。

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