せかいでいちばん①

 これまでの人生で、何かが足りないと思ったことは一度もなかった。


 両親はいつだって私に優しかったし、友達にも恵まれて、毎日ただ楽しく生きていたから。私にとってはそれが当たり前で、そういう状況について疑問を思うことすらなかったのだ。


 だけど、高校生になったある日、私は友達が会話しているのを聞いた。


「雛夏ってすごいよねー。なんでもできるし、私たちと違って悩みとかなさそう」

「確かに。あの明るさに時々助けられるよ。私もあれこれ悩まず生きてこう! って」

「わかる」


 陰口でないことは、わかった。

 でも、愕然とした。


 だって、本当のことだったから。確かに私は、悩みなんてない。これまでの人生で悩んだことなんてただの一度もなく、人生は楽しさだけに満ちていた。


 それって、どうなんだろう。

 人は普通、悩むものだ。人生は楽しいだけじゃなくて、悩んだり苦しんだりするのが自然で。じゃあ、そんな自然から外れた私は?


 もしかして、私は空っぽな人なのではないだろうか。他の人とは違いすぎて、表で見せているものだけが全ての、薄っぺらい人間。


 そう思うと、嫌だった。

 嫌だった、けど。


 やっぱり悩みは長続きしなくて、一週間もすれば元の私に戻ってしまって。それがまた、私が空っぽってことを示しているようで。


 どうすれば私も、人並みの厚みを得ることができるだろう。

 そう悩んでいたある日。


「……あれ?」


 授業が始まる一分前。私は教科書を忘れていることに気がついた。


 忘れ物をすることなんて今までなかったから、私はひどく焦った。でも、もう他のクラスに借りに行ける時間でもなくて。

 そうしていると、不意に隣の席から教科書が差し出された。


「これ、貸したげる」

「え?」


 私に教科書を差し出してきたのは、ついこの間隣の席になった飯島さんだった。


 私はクラスのほとんどの子と仲良くしているけれど、飯島さんとはあまり話すタイミングがなくて、まだ友達ですらないのだ。だから、驚いた。


「貸すって……飯島さんは?」

「私はいいや。今日はちょっと眠いし、貧血っぽいから。寝てる」

「え、えぇー……。授業はちゃんと聞いた方がいいんじゃないかな」

「んー……じゃあ、教科書貸したお礼に、仲町が後で勉強教えてよ。それで解決だ」

「えっ、ちょ、飯島さん?」

「そういうことで。私、寝てるから。先生にバレないように誤魔化しといて」

「ええええぇ……」


 マイペースすぎる。

 しかも、適当というか。ここまで私とまともに会話してくれない人は、初めてだった。私はこれまで、誰からも興味を持ってもらえていた。向こうからたくさん話しかけてくたし、どんな人とだって自然と友達になれたのに。


 飯島さんとは、友達になれる気がしなかった。

 だって、あまりにも私に興味がない。多分世界で一番、私に興味がないんじゃないかってくらいに。


 だから、気になった。

 もしかしたら飯島さんは私の空っぽなところを見抜いているのではないか。飯島さんと関われば、私の駄目なところとか、直すべきところがわかるのではないか。そんな気がして。


 授業が終わって、昼休みになり。私は飯島さんに話しかけようとして、彼女がいないことに気がついた。


 いなくなるの早すぎないか、と思いながら、教室から出て彼女を探す。

 そして、廊下で彼女を見つけた。


「でさー。その芝犬が私にめちゃくちゃ懐いてきちゃって。飼い主のお爺さんもよければ遊んでくれないかーとか言い出して」

「……ふふ。眞耶は相変わらず、犬に好かれるねぇ」

「私は犬より人に好かれたいんだよ! 具体的には、春流に!」

「私は眞耶のこと、結構いいと思ってるよ」

「えっ、あっ、ありがとうございます……」

「なんで敬語?」


 私への無関心が嘘であるかのように、飯島さんは友達と楽しそうに話をしていた。


 その笑顔に、見惚れてしまった。

 驚くくらい綺麗で、でも可愛さもあって。その透明な笑顔を見ているだけで、なぜか心臓が跳ねるような感じがして。


 わけがわからないまま立ち尽くしていると、不意に飯島さんと目が合った。


 彼女はふっと笑って、私に手を振ってきた。

 心臓が、うるさい。


「お、仲町だ。どうしたの、そんなところでぼーっとして」

「え……っと、教科書、返そうと思って!」

「そっか。……あれ、その教科書は?」

「えっ。ご、ごめん! 教室に置いてきちゃった!」

「……あはは、何それ。仲町って、面白いね」

「あ……」


 人の笑顔を見るだけで、ここまで心を乱されるのは初めてだった。飯島さんの笑みにはなんだか不思議な魅力があって、心臓は速くなるばかりである。


 私は慌てて教科書を取りに戻ろうとしたけれど、その前に飯島さんに手をそっと握られた。


「いいよいいよ、無理に取り行かなくて。それよりど? せっかくだし、たまにはお昼、一緒に食べない?」

「……は、はい」

「うわー、春流がまた人口説いてる」

「いや、口説いてないから。いちお、クラスメイトだからね。親交を深めようと思って」

「ほーん」


 私はあれよあれよという間に、飯島さんたちとお昼を一緒に食べることになった。


 緊張のせいであんまり会話は弾まなかったけれど、飯島さんと一緒にいるのはどうしてか楽しくて、自然体でいられた。


 もしかしたらそれは、彼女が私に一切興味を見せていなかったからなのかもしれない。





「飯島さーん!」

「あ、仲町」


 あれからしばらく経って、私は頻繁に飯島さんに話しかけるようになっていた。まだ、友達にはなれていないかもしれないけれど。休み時間に会話ができるくらいの関係にはなっていて、以前よりも少し距離が近づいたような気がした。


「廊下はあんまり走っちゃ駄目だよ」

「あ、うん。飯島さんを見つけたから、つい」

「あはは、何それ。可愛いこと言うね、仲町は」


 彼女はなんの衒いもなく、可愛いという言葉を口にする。

 顔が熱くなるのを感じた。


 他の人が私を可愛いと言うときは、こうはならないのに。他の人に褒められるのが嫌と言うわけではないのだが、時折その奥に「可愛いのが仲町雛夏である」という前提条件のようなものが感じられて、苦しくなることがあるのだ。可愛くなくちゃ私らしくない、と言われている気がして。


 でも、飯島さんはまっすぐ私を見て、自然に褒めてくれる。

 だから、好きだった。


 いや、好きというのは可愛いという褒め言葉であって、飯島さんのことではなくて。……私は誰に言い訳をしているんだ。


「今日も勉強、一緒にしませんか!」


 緊張する。

 飯島さんと一緒にいる時は落ち着くのに、緊張する。

 矛盾しているとは思うけれど、実際そうなんだから仕方ない。


「ん、いいよ。じゃあ、放課後ね」

「あ、うん……」


 今日は、お昼に誘われなかった。

 別に毎日一緒に食べるのがルールってわけじゃないんだから普通のことなのに、胸がずきずきする。


 いやいや、何を考えているんだ私は。ちょっと誘われないくらいでこれって、重すぎるでしょ。


 でも、だけど、うむむ。

 ……はぁ。


 飯島さんについて考える時、私はいつも平静を失い、わがままになり、おかしくなる。それすらも嫌じゃなくて、嫌じゃないからこそ、戸惑うのだ。


「……あれ?」


 私、もしかして。

 飯島さんに関してなら、自然と悩める?


 悩むのがいいことだとは思わないけれど、どんな悩み事も長続きしなかった私にしては、珍しい。

 悩むのがどうしてなのかは、わからないままだったけれど。





 理由はその後しばらくして、判明した。


「飯島さん!」


 ある日、私は勉強している最中に彼女に話しかけた。


「……仲町。図書室では静かにね」

「あ、うん。ごめん」

「ん。それで、ご用事は?」

「えっと、その……」


 この頃、私と飯島さんはそれなりに長い付き合いになっていた。長い付き合いといっても、半年とかそこらではあるんだけど。


 だからそろそろいいんじゃないかって思うのだが、それでも、やっぱり緊張はして。


「は、春流ちゃん! って、呼んでもいいでしょうか……」


 言葉がどんどん尻すぼみになっていく。

 私は友達のことは名前で呼んでいるのだ。だから飯島さんのことも名前で呼びたかった。でも、他の友達とはちょっと違う呼び方にしたくて、ちゃん付けを提案したのだが。ちょっと子供っぽすぎただろうか。


 やっぱ訂正する?

 いや、でもそう呼びたいのはほんとで。

 でもでも、でも……。


「いいよ。仲町の好きに呼んで」


 彼女は、にこりと笑って言う。

 それを見て、私は気づいた。

 私は、飯島さんが——春流ちゃんが、好きだ。


 きっかけは単純で、私に興味がなかったからで。でも、その笑顔があまりにも綺麗で、私を自然に褒めてくれるその言葉が、態度が、柔らかさが。全てが、好きだった。


 こんな気持ちになるのは初めてで、どうしていいのかわからなかったけれど。


 彼女にも、私を好きになってもらえたらいいな。

 そう、思った。

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