第29話

 思えば今日は、かなり多くの初めてを経験している気がする。

 平日にこういうところに来たのも初めてだし、恋人と絶叫系のアトラクションに乗るのも初めてだ。


「春流ちゃん、もっと体くっつけて。ちゃんと映らないよ」

「ん。これでいい?」

「おっけー! じゃ、撮るね!」


 彼女はスマホを構えて、写真をぱしゃぱしゃと撮り出した。なんとなくむずむずするというか、ちょっと恥ずかしいというか。やっぱりこの非日常的な空気感がそう思わせてくるのだろうか。


 とはいえ、彼女はどこ吹く風だった。

 いつも以上に堂々としていて楽しそうな感じは、さすがだと思う。


「こういうところ、よく来るの?」

「友達と、たまにね」

「ふーん。道理で慣れてると思った」


 私はストローに口をつけた。弁当を結構食べたから、あんまりお腹は空いていないけれど。仲町の方は割と腹ペコらしく、もそもそとチキンを食べていた。元気だなぁ、と思う。


 学校の食堂とはまた違った騒がしさが、耳に心地いい。

 そして、そんな中で楽しげに食事をしている仲町を見るのは、何よりも楽しかった。


「それ食べたらまた絶叫系乗る?」

「ううん。もうちょっと静かめなやつにするよ。そろそろ春流ちゃん、ほんとに死んじゃいそうだから」

「あはは、そうしてくれると助かる」


 話しながら、彼女の口に食べ物がついていることに気がつく。私はポケットからティッシュを取り出して、彼女の口許を拭いた。


「ほら、口についてるよ。……せっかくなんだし、もっとゆっくり食べなよ」

「……だって、早く食べないと時間が過ぎちゃう」


 彼女は恥ずかしそうにしながら、ぽつりと呟く。

 私は思わず笑った。


「それでそんな急いでるの? ……ほんと、仲町って可愛いよね」

「わ、笑わないでよ! まだまだ二人でしたいことたくさんあるし、時間がどれだけあっても足りないんだから!」

「あはは、そんなに焦らなくても——」


 これからしたいこと、していけばいいじゃん。

 そんな平凡な言葉すら、今の私には口にできなかった。

 本当に、これからも私は仲町と一緒にいられるんだろうか。


 もしかしたら明日には別の人を好きになっていて、仲町との恋人関係を解消しているかもしれない。


 それくらい、好きというのは信用できない感情だ。

 少なくとも、私の好きに関しては。


「……時間は逃げないよ」

「……うん」


 私から何かを感じ取ったのか、彼女は微妙な顔をして言う。

 そして、突然立ち上がった。


「よし! 食べ終わったし、早速並ぼう!」

「えっ。わお、ほんとに食べ終わってる。ちょっと待って。飲み物がまだ残って……」

「行こ、春流ちゃん!」


 有無を言わさず、彼女は歩き出す。

 いつになく強引さんだ。そうさせているのは、私なのかもしれないけれど。


 でも。

 私の手を強引に引きながら、楽しそうな笑みを浮かべている彼女を見ていると。胸がぎゅってなって、愛おしくなって、思わず笑ってしまう。仲町はやっぱり、好きに過ごしている時が一番可愛い。


「……ねえ、仲町」

「うん。なあに、春流ちゃん」

「仲町は、世界で一番可愛いよ」


 はっきりと口にする。

 彼女は強く、私の手を握った。もう二度と、離してくれないんじゃないかってくらいに。


「じゃあ春流ちゃんは、宇宙一可愛いよ!」

「大袈裟な。でも、ありがと」


 浮かれたカップルみたいな会話。

 でもそれが、ちょっと楽しかった。

 そのまま私たちは、パーク内を歩き回る。


 色んなアトラクションの列に並んで、その度にくだらない話をして。乗った後は感想を言い合って。そういう何気ないことが嬉しくて、楽しくて、改めて仲町のことが好きだって思う。


 人を好きになる日が来るなんて、思っていなかったけれど。

 この甘くて苦しいような感覚は、存外嫌ではない。胸が柔らかく振動して、その度に愛おしさが溢れてくるような。こういうのが、仲町も感じている「好き」なのかな。わからないけれど、繋いだ手がびっくりするくらいあったかいのは、確かで。


 二人で過ごす時間は、あっという間だった。

 気づけば日が暮れていて、パーク内は眩く照らされ始める。


 まるで、二人で夢の中にでも迷い込んだみたいだった。暗いのに光り輝く道を歩いていると、不意にお腹が重くなるような、そんな感じがした。


 だけどそれを極力感じないように努めて、二人でパーク内を見て回る。


「せっかくだしお土産も買って帰ろ」


 彼女が言う。

 私は、頷いた。


「そうだね。せっかくだもんね」


 一日の終わりを強く感じた。

 別に、今日が終わったからって全てが終わるわけではない。だけど、明日になったら何かが変わってしまうかもしれないから。


『この髪の色はね、お父さんが好きな色なんだ』


 どうしてか、今。

 遠い昔の母のことを思い出す。地毛は私と同じ茶色なのに、お父さんが好きだから黒に染めていると言っていたっけ。でも、出て行く前は黒なんて影も形も見えないくらいの金色だった。ちょうど、今の私と同じで。


 おしゃれなんて、自分の好きなようにやるのが一番だ。

 自分の好きな服を着て、好きな色の髪にして、好きなようにメイクをして。


 それが楽しいのだから、他人に合わせる必要なんてない。それでも相手に合わせたくなるくらいの感情が、好きってことなのかもしれないが。とはいえ、服を相手に合わせることはできても、髪の色を相手の好みの合わせるというのは、かなり難しいと思う。


 自分の髪の色を、相手の好みに合わせたくなるくらいの、好き。

 それは想像もできないくらい、大きな感情のはずなのに。


 結局なくなるんじゃないか、と思う。

 だって、少なくとも母はそうだった。


 そして、きっと。幼少期から母に似ていると言われてきた私も、同じで。


「……春流ちゃん?」


 彼女は立ち止まって、私の方を振り返ってくる。

 今日は仲町のことが、やけに眩しく見える。


「どうしたの?」


 どうしたも、何も。

 別に私は、何もしていないし何も言っていない。


 それなのに彼女は私から何かを感じ取ったらしく、気遣わしげな顔をしている。


 私は何度か口を開いたり閉じたりした。

 どうして母は、髪を黒に染めたくなるくらいの好きを失ったんだろう。いつからそれが冷めて、他の人を好きになったのはどうしてなのか。何もわからないまま、私はここに立っている。


 私は、初めてが嫌いだ。

 母が私たちの前から姿を消した時の、あの胸が張り裂けそうな苦しみは、二度と味わいたくない。


 だから全ての初めてを捨てたかった。

 初めての痛みを全部経験して、何もかもに慣れてしまえば、あの時みたいに苦しまずに済むって。


 いつか来るかもしれない初めてに怯えて暮らすなんて、もう御免なのだ。


 捨てられる初めては、捨てておきたい。

 最初から、私はずっとそうだった。

 ……だから。


「ねえ、仲町。……仲町は私のこと、好き?」


 夜風が私たちの間を通り抜ける。

 まるで、二つの世界を分けるみたいに。


「うん。好き。大好き」


 いつだって彼女の「好き」はまっすぐだ。明日も明後日も変わらないんだって確信できるくらいに。

 じゃあ、私の「好き」は?


「……わ、たしも」


 声が掠れる。

 好きかもしれないなんて言った時は、声が掠れることはなかったのに。


 断言しようとするだけでこれだから、救いようがないと思う。でも、言わなくちゃきっと、何もわからない。


「……私も仲町のことが、すき」


 私は目を見開いた。

 だって、自分でも信じられないくらいに、軽い響きだったから。仲町とは比べ物にならないくらい軽くて、吹けば飛んでしまうくらいで。こんな「好き」じゃ、明日にはもうなくなっているかもしれない。


 やっぱり私は、仲町と同じ好きはあげられない。

 こんな軽い気持ちで一緒にいたら、仲町のことを不幸にするだけだ。そんなの最初から、わかっていたはずなのに。


「春流ちゃん——」

「だから」


 興味を持っちゃ駄目だったんだと思う。

 仲町は私なんかが好きになっちゃいけない人だったのだ。

 私は悪い女だから。


「別れよう、仲町」

「……え?」


 仲町は見たことがないくらい、驚いた表情を浮かべた。

 もう、後戻りはできなかった。

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