第26話

 時が止まった気がした。

 仲町は微笑みを浮かべているけれど、目の奥が笑っていない感じがする。


 試されているような気がした。私が何を言うかによって、今後が変わってくる。そんな気が。


 私にもそれなりに友達はいて、その中でも眞耶は大切な友達だ。

 ……それなのに。


 仲町が本気で望むのなら、全てを捨てるのも悪くないかもしれない。なんて、思っている自分がいることに気づく。仲町に興味があるのは間違いなくて、彼女に少なからず好意を抱いているのも確かだ。でも、それは全てを捨ててもいいって気持ちではない、はずなのに。

 仲町の感情にも、自分の感情にも驚く。


「春流ちゃん」


 催促するように、彼女は私の名前を呼ぶ。

 仲町が、望むのなら。


 そう口にしそうになった時、彼女の顔が私に近づいてくる。

 これで、何度目になるだろう。


 一回目と二回目は覚えていたのに、何度もキスするうちに、その回数もすっかり忘れてしまった。でも、今。彼女にキスされたことだけは、確かだった。


 どうして今なんだろう、と思う。

 だけど、決して嫌ではなかった。彼女は慣れた様子で私の髪に触れながら、深くキスをしてくる。唇を割って、前歯に触れて、今度は歯茎へ。自分の舌で触れる時とは全く違って、体がピリピリしてくるような、そんな感じがする。


「……冗談」


 唇を離した彼女は、ぽつりと言った。


「春流ちゃんと室井さんが仲良しなことは、知ってるから。……ちょっとだけ、意地悪言いたくなっただけ」

「仲町にも、そういう気持ちあるんだね」

「あるよ。……春流ちゃんが他の人と仲良くしてたらずきってなるし、嫉妬もするし。……嫌いになった?」

「それ、わかってて言ってるでしょ」


 仲町は答えない。

 私はもう口にできなくなった「嫌いになった?」という言葉。その言葉を発することの意味、発している時の気持ちは、私が一番よく知っている。

 だから私は、静かに口を開いた。


「ならない。別に、自然なことじゃない? 私は仲町の新しい一面が知れて、嬉しい」

「春流ちゃんの、ばか」


 唐突な罵倒である。

 えぇ……?


 私、馬鹿って言われるほどのこと、言ったかな。いや、わからない。言葉をどう感じるかなんて、仲町にしかわからないのだから。


 でも、いや、うーん?

 どうしたものかと考えていると、仲町は私の肩に頭をくっつけてくる。肩までかかった私の髪に、彼女の髪が混ざる。


 金色が綺麗に出やすい髪質だと、前に美容師の人が言っていたけれど。


 仲町の髪の色は、地毛なのに私より綺麗な気がする。これが持つ者と持たざる者の差、というやつだろうか。いや、単に仲町のだから、綺麗に見えるだけかも。


「そうやって、いつもいつも、いっつもかっこいいこと言うからだよ。……私が、わがままになっちゃうのは」

「わがままってほどかな?」

「ほどだよ。普通、私だけを愛してなんて言わない。重いもん」

「いいじゃん、重くても」

「よくない。このままだと、ほんとに」


 彼女は顔を上げる。

 微かに潤んだ瞳は、それでも私をまっすぐ映している。


「春流ちゃんのこと、閉じ込めちゃうかもしれない」


 冗談なのか本気なのかわからない声色。

 私は、笑った。


「じゃあ、非常食は常にバッグに入れとかなきゃだ」

「……ごはんは私の方で用意するよ」

「至れり尽くせりだね」

「……」


 ぼんやりと会話をしていると、次第に仲町の体から力が抜けていく。


 屋内の立体駐車場は、少し空気が悪い。あまり好ましくない閉塞感もあるし、車のガスのせいなのか、変な匂いもする。


 でもそんな中で、すぐ隣から仲町の匂いを、存在を感じるから。ここでこうしているのも、悪くないかもしれないと思った。


「春流ちゃん」

「うん」

「好き」


 これで、何度目の好きだろう。

 キスの回数と同じで、好きと言われた回数ももう、思い出せなくなっている。それでも、彼女に好きと言われる度に新鮮に嬉しくなるのだから不思議だと思う。


 好きって、どういうことなんだろう。

 どんな形で、どんな色で、どんな感情?


 わからないけれど、わかるような。

 好きと断言したら何もかもが終わってしまう気がするから、断言することはできないけれど。


「春流ちゃんって、地毛は茶色なんだね」


 不意に、仲町が私の頭のてっぺんを見て言う。

 私は苦笑した。


「ん。余計にプリンっぽいでしょ」

「ううん。地毛も綺麗だと思う」

「そっか。……なんか、母親に似たらしいよ」

「お母さんも茶色だったんだ」

「そ。まあ、あんまり……」


 言いかけて、やめる。

 こういうのは、聞いていても楽しくないだろうし。


 実際覚えていないのは確かだ。母は基本的にずっと髪は染めていたし、地毛でいた期間なんて、多分。


 いや、やめよう。思い出しくないことを、思い出すのは。

 重要なのは私が彼女に似ていることと、彼女の最後の髪色が、金色だったということだけだ。今が何色なのかは、知らないけど。


「あんまり覚えてないんだけどね」


 ……あれ?


「もう随分前に、出てっちゃったし」

「そう、なんだ……」


 おかしい。

 言う必要のないことを、無駄に言ってしまっている。


 今まで誰かに自分から話したことなんて一度もないのに。どうしてこんなことを、仲町に。


「……春流ちゃん」

「なあに?」

「キス、してもいい?」


 どうして今聞くんだろう。さっきは何も聞かず、キスしてきたのに。


 今更キスなんて、何も聞かずにしてくれていいと思う。雰囲気がいい時とか、仲町がしたい時とかに、好きにしてくれればって思うのに。


「……いいよ」


 気づけば私は、そう口にしていた。

 今日は口が言うことを聞かない日だ。よくわからないうちによくわからないことを言って、気づけばもう後戻りできなくなっている。


 ああ、でも。

 仲町となら。仲町が、傍にいるのなら。たとえ後戻りできなくなっても、周りから私たち以外の全てがなくなってしまっても。それでもいいのかもしれない、なんて。そう思うのは、変かもしれないけれど。


 ちゅっと、彼女と私の唇が音を立てる。

 笑ってしまいそうになるくらい、軽い音。


 だけどその音が、私の心臓をどこまでも高鳴らせていく。顔がひどく熱くなる感覚があって、体からは力が抜けていく。この気持ちを、なんと言えばいいのか。わからないまま、何度もリップ音を立ててキスをする。

 彼女の存在を、強く感じた。


「春流ちゃん。春流ちゃん、好き」


 甘い声が頭に響く。

 好きという言葉は、本当に心地よくて、変になりそうな響きだった。


 違う、と思った。

 何がって、すぐ疑問に思う。だけど違うものは違くて、だって、この気持ちは。


「……ふふ。春流ちゃん、顔真っ赤」

「……今日の仲町は、積極的だ」

「うん。駄目かな?」

「駄目じゃ、ないけど」

「春流ちゃんなら、そう言ってくると思った」


 ぎゅっと、手を握られる。

 彼女はいつも通り、力強い瞳で私を見つめている。

 その瞳があまりにも、眩しかった。


「なんで、キスしていいか聞いたの?」

「春流ちゃんが、そういう顔してたから」


 どういう顔なんだろう。聞きたいけど、聞けない。


「春流ちゃん、全然悩みとか口にしてくれないから。……こうやって触んないと、わかんない」


 指が一本一本絡んでいく。


「春流ちゃんは、私の恋人だから。……悩んでることがあったら、いつでも言ってくれていいんだよ。力になるから」

「……ん。その時は、お願いするね」


 仲町は、微笑む。

 その微笑みで、わかってしまった。


 私が違う、と否定したかったのは。

 仲町に対する、気持ちだ。


 その気持ちは、始まった瞬間に終わりが見え出す。最初から曖昧なものとして心の隅に追いやっておけば、始まりもなければ終わりもない。


 だけど、今。

 私は仲町を、好きだと確信してしまった。


 自覚してしまったら、もう否定もできなければ、曖昧にしておくこともできない。


 好き、好き、好きだ。

 私は、仲町のことが、好き。


 それはもう覆しようのない事実で、心の大半を埋めている気持ちで。

 終わりの足音が聞こえた。

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