第19話

 がしゃん、と自販機が音を立てる。

 私はペットボトルを取り出して、勢いよく半分ほど中身を呷った。夏も近づいてきている今の時季に、ブレザーを着たまま運動をしたのは失敗だった。


 私は館内の廊下にあるベンチに腰をかけた。まだぼんやりした様子の仲町に手招きすると、彼女は私の隣に座ってきた。しきりに唇を触っているところを見るに、さっきのキスを気にしているらしい。


「そんなに嫌だった?」

「あ、ううん。そうじゃないの。そうじゃなくて……」


 彼女は緑茶のペットボトルを指でいじりながら、言う。


「今までで一番、ドキドキするキスだったから」


 さっきのキスは、唇を触れ合わせるだけのものだ。

 初めてキスした時と違って、舌を入れてもいないし、二度目のように胸を触らせてもいない。それでも一番ドキドキしたのなら、それは。


「私たちも、段々ちゃんとした恋人になってきたってことなのかもね」

「……そっか。だとしたら、嬉しいな」


 人に恋する感覚というものは、まだまだよくわからないけれど。

 興味があるのは本当で、彼女と恋人でいることが、嫌じゃないのも確かだ。


 なんとも曖昧な、とは思う。私たちの関係は、普通の恋人とは違いすぎる。


「……私ね。これまで生きてきて、ほとんど悩んだことがないんだ」


 彼女はぽつりと言う。

 思わず首を傾げる。


「悩んだことがない?」

「そう。誰かに表立って嫌われたこともないし、人との関係で困ったこともない。お父さんもお母さんも優しいし……自分で言うのもなんだけど、周りの人に愛されて育ったんだと思う」


 そう言う割には、彼女の表情は暗い。

 私は彼女の、次の言葉を待った。


「でもね。……一年前くらいかな? 友達が、私のこと話してるの、聞いちゃって」


 仲町の友達が、陰口を言うようには見えない。

 しかし、どうなんだろう。


 実は仲町の友達も、裏では仲町に嫉妬していたり?

 人の内心なんて、パッと見ただけではわからないものだ。


「褒めてはくれてたんだ。雛夏ってすごいよねって。……でも」


 彼女は私を見つめてくる。

 縋るように、確かめるように。


 私は彼女を見つめ返した。弱々しい瞳は、それでも私を映し続けている。


「私たちと違って、悩みとかなさそうって、言ってて。……それで気づいたの。私、今までの人生で、一度も悩んだことないって」

「……悩まないに越したことはないんじゃないかな」

「うん。でも、一度も悩まないのも、おかしくない?」


 返答に窮する。

 私は、人並みに色々悩んで生きてきた人間だ。だから悩まずに生きてきた人の気持ちはわからないし、悩まなかったことを悩むという感覚も、理解するには遠い。

 でも、おかしいなんて言いたくはなかった。


「それからかな。私ってもしかして、空っぽなんじゃないの? って、思うようになって」

「……どういうこと?」

「したいことはなんでもできて、悩みもなくて。それって、空っぽでつまらない人なんじゃないかって思って。私って、周りと違いすぎるんじゃないかって」


 確かに彼女は並外れていろんなことができる。

 だが。


「仲町……」

「……大丈夫」


 私の言葉を、彼女は止めた。


「春流ちゃんの気持ちは、わかってるから」


 にこり、と彼女は笑う。そして、言葉を続けた。


「それで、どうすれば普通になれるんだろうって思うようになって、色々考えようとして。でも、やっぱり私は私だから。あんまり、悩みなんてなくて。だけど、そんな時……春流ちゃんと、隣の席になった」


 私はペットボトルに口をつけた。

 私にとって緑茶はただの飲み物だけど、仲町にとっては、好きな飲み物。その差異を埋めることは難しいけれど、少なくとも同じ飲み物を一緒に飲むことはできる。

 それがどれほどの意味を持つかは、わからないけれど。


「……びっくりした。春流ちゃん、全然私に興味ないんだもん」

「……え。そんな言うほど?」

「うん。今まで会ってきた人の中で一番、私に興味ないって感じだった」

「……わお」


 改めて言われると、私ってどうなんだって思う。

 人に興味がないわけではないのだが、確かに去年は仲町に興味を持っていなかったよな、と思う。


 去年の彼女は、私の琴線に触れるような人物ではなかった、ような気がする。


「だから、知りたかった。春流ちゃんのことを知れば、私の駄目なところとか、足りないものがわかる気がしたから」

「……なるほど?」

「でも、途中からそんなのどうでもよくなって。ただ春流ちゃんのことが気になって、知りたくて……この気持ちは、なんなんだろうって思って」


 彼女の手が、私の手に触れる。

 頼りなく感じるほどに細いその指先が、驚くほどの存在感を放っている。私にとって彼女は無視できない存在で、もっと知りたい存在で。


 この感情の行き先を、彼女は知っている気がした。

 次の言葉を待っていると、彼女は私にそっと唇を合わせてきた。いつも真っ赤な彼女の顔は、今は白く透明なままで、思わず息を呑むくらい綺麗だった。


「……こういう気持ちなんだって、わかった」


 にこりと、彼女は笑う。

 心臓が、張り裂けそうなくらいうるさかった。彼女とは正反対に、いつもは顔色があんまり変わらない私の方が、きっと赤くなっている。


 顔が熱い。

 運動後の火照りとはまた違った意味で熱くなる顔を、隠してしまいたくなるけれど。彼女にじっと見られているから、それもできない。


「好き。好きなんだよ、はるちゃんのことが。こんなの初めてで、初めてすぎて、全然よくわからなくて、自分のことだってわからなくなって。……でも、春流ちゃんが好きって気持ちだけは、よくわかる」


 私は口をぱくぱくさせた。

 そのまっすぐな言葉に、どんな言葉を返せばいいのかわからなかった。


 だけど時間は待ってくれなくて、彼女は私の手を取って、自分の胸に誘う。


「だって、ほら。……こんなに、ドキドキしてる」


 掌から、彼女の鼓動を感じる。

 確かに、ドキドキしていた。私と同じくらい、いや、それ以上にどくんどくんって鼓動が刻まれていて、大丈夫なのかなって心配になる。


 さすがの彼女も恥ずかしいのか、顔が赤くなっていた。

 市民体育館のベンチで、顔を赤くしながら触れ合っているのなんて、きっと私たちくらいだ。


 どうなんだ。

 どうなんだって、理性は言っているはずなのに。


 そんなのどうでもいいって、本能が叫んでいる。

 ただ、もっと。


 もっと彼女に触れたい。その熱を、鼓動を、感情を、肌で感じたい。


「春流ちゃんにもっと、興味を持ってもらいたい。……だから、不安で。本当の私を見せたら。空っぽの私を知られたら、飽きられて、興味を持ってもらえなくなっちゃうんじゃないかって」

「仲町は、空っぽじゃないよ」


 さっきまで全然言葉が出てこなかったのに、今度は自然とその言葉を発することができた。


 一度喉から言葉が出てしまえば、あとはいくらでも、流れに身を任せることができる。

 私は、続けた。


「悩んだことないのが悩みって言うけどさ。私のことで、たくさん悩んでくれてるでしょ?」

「……うん」

「仲町は、そのままでいいよ。ちょっとむっつりで、無邪気なとこもあって、いっつも顔真っ赤で、でも言いたいことはちゃんと言ってくれる。そんな仲町が、私はいいって思う」

「……春流ちゃん」


 空っぽな人間なんて、きっといないんだと思う。

 どれだけ感情が薄そうに見える人だって、実は色々考えていたりもして。私だって、言葉にできない感情はいくつもあって、言葉にしないうちに忘れてしまったりもして。それでも、何もかもがゼロってわけじゃない。

 きっと仲町も、同じだ。


「だから仲町。もっと仲町のこと、教えてよ」

「……私、きっとつまらないよ?」

「つまらなくていいよ。面白くなくても、知りたい」

「……ほんとに」


 彼女は言いかけてから、笑った。


「ほんとにいいの? は、禁止だったね」


 私は頷いた。

 それがいい言葉なのか悪い言葉なのかはわからないけれど、少なくとも私たちの間には、必要のない言葉だと思う。


「春流ちゃんの前だと、めんどくさい子になっちゃうなぁ。私、カラッとしてるのが売りだったのに」

「私も、仲町の前だと変に饒舌になる。そんなに口数多い方じゃないのに」

「……ふふ。じゃあ、一緒にいたら、もっとお互いに、知らない自分のことも知れるのかな?」

「かもね」


 彼女は私の腕をぎゅっと抱きしめて、寄りかかってきた。

 私は、笑う。


「これからたくさん、見つけていけるといいね。私のことも春流ちゃんのことも、もっと好きになりたい」


 小さな声で、彼女は言う。


「……春流ちゃん」


 名前を呼ばれると、嬉しくなる。

 他の人にだって、日常的に呼ばれているはずなのに。


「やっぱり私、春流ちゃんのこと大好き」


 彼女の言葉にはいつだって、不思議な力がある。

 その綺麗な声で、好きと言われたら。

 顔が熱くなりすぎて、爆発しそうだから、言わないでほしい。


 ……いや。

 やっぱり、もっと言ってほしい。

 私は、わがままでめちゃくちゃだ。

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