第18話

「まずは、私の嫌いなものを仲町に教えてあげよう」

「えっと……」


 放課後、私は仲町を連れて、地元の市民体育館に来ていた。

 借りたバスケットボールをぽんぽんと地面に打ちつけてみる。この感覚、相変わらず苦手だ。


 なぜ人という生き物は、こんなに安定感のない球体でスポーツをしようと思ってしまったのか。そしてなぜそれを、体育として授業に取り入れようと思ってしまったのか。私は思わずため息をついた。


「ほら、来ていーよ。先に三回ゴールに入れた方が勝ちってことで」

「……じゃあ、行くよ?」

「はいよー」


 てんてん、てんてん。

 地面にぶつけたボールを手で受け止めるのに必死な私は、ドリブルするとか以前の問題であった。


 そんな私が、運動神経抜群の仲町に勝てるはずもなく。

 ボールに夢中になっている間に彼女が走ってきて、そのままボールを奪われる。ブロックしてみようとは思うものの、彼女の動きは俊敏すぎてついていけない。


 そして、彼女は華麗にシュートを決める。

 ぱす、と音がした。

 ……ナイスシュート。


「次、行こうか」

「……」


 仲町は訝るように私を見てくる。彼女のこんな顔は、初めて見た。


 あまりにも私の運動神経が悪すぎて、理解が追いついていない様子である。その後も私は必死にボールを追おうとしてみるのだが、やはりうまくいくはずもなく。


 結局彼女が三回シュートを決めるまで、私はほとんどボールに触れることができなかった。


 ボールの支配率は恐ろしく低いだろう。

 私は思わずため息をついた。


「あの、春流ちゃん?」


 訝るのを通り越して、彼女は困惑しているようだった。

 そんな目で見ないでほしい。言わずともわかるから。お前本気でやっとんのか、と言いたいのだろう。


 誤解しないでほしいのは、私は基本的に手を抜いて生きてはいないということである。何事も全力……とは言えないが、頑張るところはそれなりに頑張っているのだ。


 しかし。

 しかしである。


「……見ての通り。私、球技が苦手なんだよね。いや、苦手っていうかもう、嫌いなんだけど」


 私はボールを拾って、指先で回転させようとした。

 当然、吹き飛ぶ。


 ふっと笑って、私はボールを追った。

 見れば、彼女はぽかんとした表情で私を眺めている。

 そして、やがて彼女は堪えきれないといった様子で笑い始めた。


「あ、笑った。ひどいなぁ、これでも必死なのに」

「ふふ……あはは、ごめん。その、馬鹿にしてるわけじゃなくて……ふふ」


 よかった。

 仲町が笑っていると、私も楽しい。どんな理由にせよ、彼女が心から笑っているならば、それでいいと思う。


「春流ちゃんも、苦手なものがあるんだね」


 ボールを拾って戻ってくると、彼女は言った。


「そりゃね。私も見ての通り、平凡な人なわけでして」

「……私、春流ちゃんはなんでもできる人だと思ってた」

「それ、仲町が言う? 仲町の方がよっぽど、なんでもできる人だと思うけど」

「そうかもね」


 特に謙遜することもなく、彼女は私からボールを受け取って、シュートの姿勢に入った。


 ボールが彼女の手から離れて、直接ゴールネットへ。

 スリーポイントだ。


「はるちゃんは、私のこと完璧だって思う?」


 ボールが跳ねる音が、遠い。

 彼女は自分の放ったボールには興味がないのか、私のことだけをじっと見つめている。その瞳には、微かな不安の色が見える。だけど私から返ってくる言葉がどんなものなのか、ある程度わかっている様子でもある。

 私は、笑った。


「思ってた。去年まではね。でも、今は全然」


 ボールが私たちの方に、微かに転がってくる。

 運動神経が良くて、成績も優秀で、可愛くて誰からも好かれる主人公みたいな女の子。仲町雛夏がそういう人であることは、疑うべくもないが。


「すぐ真っ赤になるし、むっつりだし、思ったより色々悩んでるみたいだし。完璧って感じはしないよねー」

「……ふふ。春流ちゃんなら、そう言うと思った」

「半分悪口かもだけどね」

「ううん。事実だから」


 仲町はボールを拾って、ふわりと笑いかけてきた。


「ねえ、春流ちゃん。次は、卓球やらない? 私、もっと春流ちゃんが球技してるとこ、見たいな」


 意外にSなのか、仲町は。

 私は一瞬頬が引き攣りそうになったけれど、彼女が期待に満ちた目をしているのを見て、笑った。


 彼女も私のことを、もっと知りたいのだろう。

 それなら苦手な球技をやるくらい、どうってことない。


「いいよ。でも、手加減してよ?」

「努力するね」


 彼女は笑って言った。

 てっきり手加減すると断言してくれると思ったけれど、そういうところ仲町は容赦しないらしい。

 私はボールを手に、再び受付に向かった。





 ぱん、と弾けるような音がした。

 もしや音速を超えているのでは、などという馬鹿げた発想すら湧いてくるほどの、凄まじいスマッシュだった。


 努力するとは一体なんだったのか。

 私はもはや苦笑すらできずにいた。実力に差がありすぎると、勝負は一切成り立たないものらしい。いや、別に勝負しているわけではないけれど。


「ちょっと仲町さーん。遊びの卓球だってこと忘れてると思いまーす」

「ごめんごめん。春流ちゃんがあんまりにも嫌そうな顔するから、面白くてつい」

「……Sすぎない? 怖くなってきた」

「だって、そういう顔見るの初めてなんだもん」


 彼女は一度ラケットを置いて、私の方まで歩いてくる。そして、顔を覗き込んできた。茶色の瞳は相変わらず綺麗だけど、獲物を捕食しようとしている蛇みたいにも見える。もしや私、これから食べられてしまうのか。

 いやいや、何を馬鹿なことを。


「やなことあったら、本当に嫌だーって顔するんだね」

「するよ。この通り」


 私はわざとらしく眉を顰めてみせた。

 彼女は、笑う。


「あはは! すごい顔! ……春流ちゃんって、演技で表情変えるの下手だね」

「そうかもね」

「ふふ……でも、そっか。……いつもの春流ちゃんの表情も、全部ほんとってことなんだよね」


 彼女はようやく納得したように、小さな声で言う。

 私は目を細めた。


「そ。やっとわかった? 私、別に完璧でも聖人でもないから」

「うん。春流ちゃんもやっぱり、普通の女の子だね」

「仲町と同じでね」

「……」


 私の言葉に何を思ったのか、彼女は目を見開く。

 もしかして、誰が普通じゃいと怒っているのだろうか。そもそも私と彼女の普通の定義が違うことはわかっていたというのに。いや、しかし、普通かどうかはともかくとして、彼女がただの女の子であることは確かである。


 人が言うほど無垢でも天真爛漫でもない、等身大の人間。

 それが、仲町雛夏だ。

 少なくとも、私にとっては。


「……そう思う?」

「ん?」

「私のこと、普通って」


 果たしてそれは、どのような意図か。

 私はなんと言うのが正解で、彼女はどんな言葉を求めているのか。


 春流ちゃんがその時その時で私に感じてくれてる気持ちを、言葉にしてほしい。


 以前そう言われたことを思い出す。

 なら、別に隠す必要もないのだろう。


「うん。仲町は、普通の女の子だよ」


 普通の定義というものはひどく曖昧で、その言葉を使えばどんなものも型にはめられてしまうような、そんな気もする。

 だけど、今の私たちにはきっと、それが必要なんだと思った。


「……それでも私に、興味があるの? 他の人と変わらない、つまらない私に」


 私は初めて、仲町の深いところに触れたような気がした。

 ちょっとした衝撃で砕けてしまいそうなほどの脆さを、その瞳から感じ取る。果たして彼女は何に悩んでいて、何を求めているのか?


 恋人として、私にできることは何か。

 わからないけれど、今はそれでもいいと思い直す。


 だって、仲町は今、触れられる距離にいるのだ。

 触れられるなら、なんだって伝えられる。言葉で、体で。


 私はそっと彼女を抱き寄せた。

 そのまま何も言わず、唇を彼女に合わせる。


 一瞬硬直した彼女の体は、すぐに弛緩して私を受け入れる。それは、私たちが曲がりなりにも恋人であることを意味している気がした。

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