第16話

 びっくりした。

 だって、すごい俊敏だったし、いきなりのことだったから。


 人に冷たいって言われたこともあるし、私自身、自分のことを割とそういう人間だと思っていたけれど。意外とそうじゃないのかもって、うるさい心臓が教えてくれる。忘れかけていた感情を伝えるみたいに、どくんどくんって、ずっと鼓動が高鳴っている。


 仲町の匂いがした。

 春を告げるような、柔らかな匂い。


 潮風に負けない彼女の匂いがひどく心地よくて、私は思わず、その背中に腕を回した。


 温かい、と思う。

 いつも真っ赤な彼女は、やっぱり温かい。


 温かいものなんて他にいくらでもあるのに、仲町から温もりを感じると、いてもたってもいられなくなりそうだった。胸の内をくすぐられているような、思わず叫び出したくなるような、そんな感じ。


 どうしてそう感じるのかって、それは。

 興味があるから?


 仲町が、誰からも愛される人間だから?

 どちらもあまり、しっくりこない。……じゃあ。


「春流ちゃん。春流ちゃん、はるちゃん」

「めっちゃ呼ぶじゃん。そうだよ、私が飯島春流ですよ」

「やっぱり私、春流ちゃんのこと好きだぁ」

「えーっと」


 子供みたいに、彼女は言う。

 いつもの透き通った声とは違う、ちょっと濁った声。それが不思議と、嫌じゃなかった。


「なんで春流ちゃんはそんなに、堂々としてるの。……ずるいよ」

「えぇー……」


 ずるいと言われましても。

 私からすれば、仲町の方がよっぽど堂々としていてすごいと思うのだが。

 彼女は私の何を見て、堂々としていると感じているのだろう。


「私のことこんなに、心から褒めてくれる人なんて、春流ちゃんだけだよ」

「そんなことないでしょ。仲町、いつも色んな人から褒められてるじゃん」

「そうだけど、そうじゃないの。確かに皆、私のこと褒めてくれるけど。心から純粋に、ただ私を褒めてくれてるだけじゃないって、わかるから」

「……仲町」


 そういうものか。

 いや、わからないでもない。仲町は割と、完璧に近い人だ。天使みたい、とまではいかないでも、勉強も運動も得意だし、その笑顔はいつも輝いている。そんな彼女を褒めるとき、少なからず劣等感の類は混ざるものなのかもしれない。たとえ、仲のいい友達でも。


 とはいえ私にとって、私は私で仲町は仲町だ。

 仲町は可愛い、くらいしか思うことがない。

 しかし。


「私、仲町が思ってるほどいい人じゃないよ」


 気づけば私は、そう口にしていた。

 私の首筋にかかった長い髪が、微かに揺れる。


 くすぐったいけれど、身じろぎするほどではなかった。彼女の感触が、徐々に私の体に馴染んできているのかもしれない。


「仲町と付き合ったのだって、興味があるから、だけじゃなくて」


 言ったら今度こそ嫌われるかもな。

 そう思ったけれど、まあ、いいかと思い直す。

 その時はその時だ。


 恋人と別れるという初めても、捨てられればそれでいい。

 そうは思うが、やはり心臓はうるさかった。


「仲町なら、初めてを捨てさせてくれるって思ったから」

「……初めて。それって、どういう?」


 困惑した様子である。

 それもそうだ。いきなりこんなことを言われれば、誰だって戸惑うに決まっている。


「私、初めてが嫌いなんだ。初めて行く街とか、入る店とか。なんか、緊張するし面倒臭いしだるいじゃん?」

「……確かに、そうかも」

「でしょ? そういう面倒なの、人生から無くしたいから。初めてを全部捨てて、全部ぜーんぶ二度目になれば、これから先不快な思いをしなくて済むでしょ?」

「……」

「仲町が私に告白してくれた時、思ったんだ。……恋人関連の初めても、これで捨てられるなーって」


 ぱっと、彼女から手を離す。

 ハグはもう終わりですよーって雰囲気を出してみたけれど、彼女はかえってさっきよりも強い力で私を抱きしめてくる。

 ちょっと、痛いかもしれないってくらいに。


「ま、そんな感じ。私はただ初めてが捨てたいだけの、薄情者なのでした。……嫌いになった?」

「禁止」

「え?」

「嫌いになった? は禁止。全然楽しくないよ、それ」


 私は目を丸くした。

 私が彼女から「ほんとにいいの?」を奪ったように、彼女も私から「嫌いになった?」を奪おうとしているようだった。


 そうか、と思う。

 私はきっと、本当に嫌われるのが怖かったのだ。いきなり突き放されるよりは、嫌いになったか都度確かめた方が、不快感も苦しみも、痛みも少なくて済む。禁止されるのも納得できるくらい「嫌いになった?」というのは弱くて、どうしようもない言葉かもしれない。


 ああ、でも。

 それを禁止されてしまうと、少し、困るかもしれない。

 知らない街に一人投げ出されたような、そんな心地がする。


「失望した? って聞くのも、駄目」

「ひどいなぁ。何も言えなくなりそう」

「……言う必要ない言葉だもん。もう二度と、言わなくたっていいよ」


 彼女は私の髪に触れた。

 抱きしめる強さとは反対で、驚くほどに優しい指先だった。


「何か他に目的があるのは、わかってたから。今更嫌いになんてならないよ」

「……わお。わかってたのに、私と一緒にいたんだ。変わってるね」

「変わってないよ。私は、ただ。好きな人と一緒にいたいだけ」


 まっすぐ言葉を返されては、もう茶化すこともできない。

 私は何も言わず、彼女の腰の辺りに手をやった。さっきとはまた違った彼女を感じる。


「私だって、皆が言うほど無邪気でもないし、すごいわけでもないし、いい子でもない。……嫌いになった?」

「あ、禁止したのに自分は言ってる。ずるい」


 彼女は、何も言わない。

 私は小さく息を吐いて、ぽんと彼女の背中を叩いた。


「なるわけないじゃん。どんな仲町でもいいって言ったでしょ。私は仲町がすっごい腹黒で、会う人皆死ねばいいと思っててもいいよ」

「……そこまで?」

「ん。だって、どんな裏の顔があっても、私が見てきた仲町もきっと本物だって思うから。……これでも私、悪い人には敏感だし」


 ぴくりと、私に触れている彼女の指先が反応する。

 照れているのかな。


「そ、そうなんだ。……と、とにかく! 私も同じだよ」

「同じ……」

「そ。春流ちゃんが私のこと、簡単に嫌いにならないのと同じ。私も春流ちゃんのこと、嫌いになんてならないから。変なことは聞かなくていい」

「へ、変なことですか」


 改めてそう言われると、ちょっとぐさっとくる。

 確かにいちいち嫌いになったか聞くとか、変だと思うんだけど。

 まあ、でも、そうか。


 彼女がいいって言うなら、いいんだろう。少し不安は残るけれど、一応、そういうのを聞くのはやめよう。これ以上無理に聞いたら、仲町を嫌な気持ちにさせそうだし。


 一度、会話が止まる。

 私たちは潮風の中、ただ二人で抱き合っていた。日が暮れた後だと少し寒さすら感じるけれど、彼女と抱き合っていたおかげで体が凍えずに済んだ。


 私たちはどちらともなく離れて、顔を見合わせた。

 思わず、二人して笑う。


 別に、何があるってわけじゃないのに。なんだかおかしくなってしまうのは、どうしてだろう。


「ねえ、はるちゃん」


 彼女は立ち上がって、階段を降りていく。

 さく、と砂の音がした。

 波の音が、遠く聞こえる。


「春流ちゃんの初めて、私が全部もらってもいい?」


 初めては、全て捨てるつもりだった。

 だけど、最近は捨てるだけが初めてじゃないのかもって思うようになって。それでも、改めて彼女にこうやって聞かれると、ちょっと驚く。


 もらう。もらうか。

 捨てるとはまた違った響き。あげるとか、もらうとか。そっちの方が、いい響きかもしれない。


「いいよ。仲町が私に……」


 失望するまで、と言いかけて、やめる。

 仮定の話は、今したって仕方がない。


「ううん。私が、もういいやってなるまで。私の初めて、仲町にあげるよ。……いい?」

「もちろん!」


 にこり、と彼女は笑う。

 日が沈んでも、なお。


 彼女の笑顔はとても輝いていて、いつまでも見ていられそうだ、と思う。


 私はそっと、砂浜に足をつけた。

 ローファーが微かに沈んでいく感触が心地いい。


 落ちたペットボトルを拾ってから、また、私は彼女に手を差し出す。彼女は私の手を握って、砂浜をゆっくりと歩き始めた。流れる彼女の髪が、綺麗だった。

 思わず触れたくなるほどに。





「……そういえば。初めてをもらってくれるってことは、セックスもするってこと?」

「セッ……な、なんで春流ちゃんはすぐそっちに行こうとするかな!」

「いや、初めてって言ったらそういうの想像しない?」

「しないよ! 春流ちゃんの変態!」

「……本当は?」

「……。する、けど……」

「あはは、だよね。仲町のそういうとこ、いいと思うよ」

「……はるちゃんの、ばか」

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