第15話
わお。
まさか唇に触りたいと言われるとは思ってもみなかった。別に嫌ではないのだが、キスしたいとかじゃなくて、触りたい、なんだ。
そんなに私の唇が魅力的だったり?
うーん、ないかな。
「いいけど……もっと触ってて楽しいとこ、あるんじゃない?」
「ううん。今は、唇がいい」
今は。
じゃあ、普段はどこに触りたいんだろう。
「……そっか。ま、いいよ。私の唇がゴリゴリになるまで触っても」
「ゴリゴリ……? えっと、とりあえず……触るね」
繋いでいた手を離して、彼女は私の唇に触れてくる。
親指で押してみたり、人差し指でなぞってみたり。リップ塗ってるけど、手についてないかな、と思う。
私の疑問をよそに、彼女は細かいことを何も気にしていない様子で、何度も唇に触れる。キスしている時とはまた違った感触に、少し体が反応する。これも、初めてといえば初めてか。
彼女と付き合うと決めた当初は思いつくことすらなかった初めてを、いくつも経験している。ひどく不思議な感覚だったけれど、嫌じゃなかった。次はどの指で、どんな風に唇に触れてくるの?
疑問を投げかけるように、彼女の指にちょっと唇を押し付ける。
彼女は面白いくらい、体を跳ねさせた。
自分から触るのはいいのに、私から押し付けるのは駄目なんだ。
なんだかおかしくなって、くすくす笑う。
「仲町。楽しい?」
「……ドキドキする」
「それはそれは。もっとドキドキしてもいいよ」
「……春流ちゃんは? ドキドキ、してる?」
「それはもう。ここが電車じゃなきゃ、触らせて聞かせたいくらいには、ドキドキだよ」
「そうなんだ……」
嬉しいのか、困惑しているのか。
その中間くらいの表情で、彼女は私の唇に触れ続ける。一個駅を過ぎて、三個過ぎて、また過ぎて。
『次は、終点。終点……』
「え」
「……あ」
私たちはアナウンスを聞いて、ようやく現実を思い出した。
車内を見てみると、もうほとんど人が残っていない。
見れば、かなり遠くまで来てしまっていた。どうやら私も仲町も、夢中になり過ぎていたらしい。
いや、唇に触られたり触ったりすることに、時間を忘れるくらい夢中になってしまうのは、色々どうなのって感じだけど。まさかここまで時が経っているとは思いもしなかった。
私たちは顔を見合わせて苦笑した。
そして、降りたことのない駅に二人して降り立つ。
「私たち、相当浮かれてるカップルみたいだね」
「……確かに。付き合いたてみたい」
彼女はそう言って笑う。
付き合い始めてから約一ヶ月は、割とまだ付き合いたてと言えなくもない。でも、こんなことをしているカップルは、そんなにいないんじゃないかな、と思う。
「せっかくだから、ちょっとその辺歩いてみよっか」
「うん。行こう、春流ちゃん」
彼女は自然と、私の手を握ってくる。
手相占いをするとか、そんな口実必要ないじゃないか。あれこれ理由をつけなくたって、彼女はもう、自然と私に触れられるようになっている。それが少し、嬉しいような気がした。
思わず笑うと、彼女は目を見開いた。
顔を赤くしているところを見るに、もしかして見惚れていた?
なんて、聞かないけど。
今は何も言わず、ただ彼女と歩いていたい。
私たちは手を繋いだまま改札を通って、街に出た。夜の始まりを感じさせる風の中に、潮を感じた。どうやら海が近いらしい。
海水浴は日焼けが面倒臭いからそんな好きじゃないけれど、仲町となら行ってみたいかもしれない。彼女がどんな顔をするのか、見てみたいから。
「春流ちゃんと一緒にいると、楽しくて時間忘れちゃうな」
彼女は小さな声で言う。
潮風に流されたその言葉を、聞き逃さなかったのは奇跡かもしれない。
私は彼女の手の甲を、軽く爪で掻いてみせた。くすぐったそうに、彼女の手が動く。それが少し、面白い。
「去年からそうなんだ。春流ちゃんと話してたらいつの間にか授業が始まる時間になってて、もっと話したいけど、話せなくて……」
「そうだったんだ」
そんなに話していたイメージはなかったけれど、確かに思い返せば世間話はかなりしていたかもしれない。
しかし、彼女はいつから私のことが好きなんだろう。
何かと席が近くになることはよくあったけれど、好きになるようなきっかけはなかったと思う。
「……私、春流ちゃんの飾らないところが好き」
「飾らないところ?」
「うん。自然に褒めてくれたり、時々すごい子供扱いしてきたり。そうやって、普通に接してくれるところ」
「へー。嬉しいこと言うね」
自分じゃよくわからないけど。
私は彼女の手を握ったまま、前に躍り出た。
少し早足になって、潮風を追う。
強く風が吹く場所に近づけば、海に出られるかな。別段そこまで海好きではないが、今は二人で、海を見たい気分だった。
「春流ちゃん、速いよ!」
「かもね!」
「かもねじゃなくて!」
「ついてきなよ、仲町! 仲町なら、ついてこられるでしょ?」
「……ほんと、春流ちゃんは時々すごい強引だよね」
「嫌いになった?」
「……大好き!」
彼女はそう言って笑う。
そして、早足で歩く私の、さらに前に踊り出す。
「やっぱり春流ちゃんが私についてきて!」
「やだ!」
私はもっと速度を上げて、彼女の前を歩く。
すると彼女も、速度を上げた。
これではキリがない、と思ったけれど、何も言わずに走ってみる。結局私たちは、二人して手を繋いだまま全力疾走することとなった。
一体何をしているのだ、と思う。
私たちの姿は周りの目にはさぞ奇異に見えたことだろう。だけどそんなことが気にもならないくらい、私たちは二人の世界に没頭していた。
こんなに走るのなんて、いつぶりだろう。
体育で走ることはあっても、全力を出すことなんてそうそうない。
全力を出すほどのことでもないし、そもそも体育の成績を上げる気もなかったから。
でも、久しぶりに全力で走るのも悪くない。仲町が隣にいるから、そう思うのかもしれないけれど。
やがて私たちは、浜辺に辿り着いた。
海開きにはまだ早く、日も沈んできているため、海にはほとんど人がいない。これから帰るらしいサーファーの人たちはぽつぽついるけれど、制服でこんなところに来ているのは私たちくらいだった。
私たちは近くの自販機で飲み物を買って、砂浜に降りる階段の隅っこに座り込んだ。
「ふいー、めっちゃ汗かいた」
「ね。メイク、崩れてないかな?」
「大丈夫。さっきも今も、仲町はずっと……」
可愛いよ、と言いかけて、止める。
「はるちゃん?」
「そういえば、ちょっと聞きたいんだけど」
「う、うん」
「仲町が一番好きな褒め言葉ってなに?」
「え」
彼女は驚いた様子で、目を丸くする。
「可愛いって言われるの、あんまり好きじゃないんでしょ? 言われて嬉しい言葉、可愛いの他にある気がするし。どうせなら、仲町が好きな言葉で褒めたいじゃん? どんな言葉が好きでも、きっと仲町相手なら、本心で褒められると思うし」
彼女は目を何度か瞬かせてから、やがて、ふっと笑った。
「なんでもいいよ」
「うん? でも……」
「そうやって、私のこと考えてくれる春流ちゃんなら。どんな褒め言葉だって、嬉しい。……春流ちゃんがその時その時で私に感じてくれてる気持ちを、言葉にしてほしいな」
そういうことなら。
私は静かに、口を開いた。
「可愛いよ」
「うん」
「どんな仲町も、世界一可愛い。きっとこれから百年生きても、仲町より可愛い子には出会えないと思う」
「……うん」
「仲町——」
いくら褒めても褒め足りないのは、仲町があまりにも魅力的なせいだ。
私はさらに褒めようとしたけれど、その前に彼女の手が伸びてくる。
手からペットボトルが落ちて、階段をころころ転がった。
気づけば私は、仲町に強く抱き寄せられていた。
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