第12話

 まさか彼女からキスしてくるとは思わず、反射的に体が跳ねる。

 仲町は私の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめてきた。ブレザー越しに感じるその掌が、やけに熱い気がする。


 初めての時とは違う、唇同士を触れ合わせるだけのキス。

 手を繋ぐのとそう変わらない程度の触れ合いなのに、体がひどく熱くなって、鼓動は速くなって、呼吸が止まりそうになる。


 キスという行為は、不思議だ。

 今まで人との触れ合いで、ここまで心を乱したことはないというのに。


「……あは。春流ちゃん、びっくりしてる」


 唇を離した彼女は、妖しく微笑む。

 驚いた。

 仲町もこんな表情を、浮かべるんだ。


「私からするつもりだったのに」

「だって、全然してくる気配ないんだもん。私、そんなに堪え性のある方じゃないから。……嫌いになった?」


 それは、私がいつも仲町に聞いていることだ。

 なるほど、と思う。


 この言葉を聞いた時の仲町は、いつもこんな気分なのだろう。

 私は、笑った。


「ならないよ。むしろ、好きになってきたかもね。また、新しい仲町を知れた」

「……う」

「照れる仲町も可愛いよ」

「き、キスの仕返し?」

「……? 何が?」


 私が首を傾げると、仲町はため息をついた。


「……はぁ。はるちゃんって、ほんと」

「ふふ。なんかよくわからないけど、失望した?」

「私は。……私は、春流ちゃんのことが好き。それは変わらないよ」

「……さすが仲町」


 私は小さく息を吐いて、湯呑みに口をつけた。

 苦いお茶は、緑茶って感じだった。少し冷めてきているけれど、飲みやすいからいいかと思う。

 ……しかし。


「お茶、新しいの淹れてくるよ。ぬるくなってるでしょ」

「ううん、大丈夫」

「いいの? 仲町、熱いのが好きなんでしょ?」

「うん。でも、春流ちゃんが私に初めて淹れてくれたお茶だから、最後までちゃんと味わいたいの」


 初めて。

 確かに、そうだ。私は今日、初めて彼女を家に上げただけじゃなくて。初めて、彼女をもてなしたということになるのだ。


 やっぱり、嫌じゃなかった。

 初めてというものは、不快感と苦痛を必ず伴うものだと思っていたが、本当は、そうじゃないのかもしれない。心が穏やかになって、でも、心臓はうるさくなる。めちゃくちゃな体の動きが嫌ではなくて、むしろ心地いい。


 こういう初めてなら、もっと経験したいと思う。

 もしかすると、捨てるだけが初めてじゃないのかも。


 仲町となら、きっと。

 ……いや、でも、うーん。どうかなぁ。


「そっか。じゃあ私は、仲町が私の隣でお茶飲んでる姿を、最後まで見てようかな」

「そ、それは恥ずかしいんだけど……」


 静かで穏やかな時間が、私たちの間に流れる。

 彼女がお茶を飲んでいる姿はずっと見ていても飽きないってくらいだったけれど、なんとなく、何かが足りない気がした。


 初めて来たにしては、彼女は私の家に馴染んでいる。

 馴染んでいる、のだが。

 私は少し考えてから、言った。


「仲町。靴下、脱いでくれない?」

「え」


 ちょうどお茶を飲み終えたらしい彼女は、ぴしりと凍りつく。

 私の発言が、あまりにも唐突だったせいだろう。私も割と変なことを言っていると自覚してはいるのだが、どうしても気になってしまったのだ。


 なんとなく、靴下は脱いでもらった方が、もっと調和するのではないか。そんな予感がした。


「な、なんで?」

「もっとくつろいでもらおうかなって思って。ほら、自分ちだと大体靴下って脱いでるでしょ?」

「そうだけど……汚いかもだし」

「大丈夫だよ。ほら、私も脱ぐから」


 私は適当に靴下を脱ぎ去って、彼女に足を見せた。

 彼女はなぜか、興味深そうに私の足を見つめている。


 そういうのは恥ずかしくないんだろうか。仲町の恥ずかしさの基準は、まだ私にはよくわからない。

 私は足の指をバラバラと動かしてみせた。


「……爪、塗ってるんだね」


 ぽつり、と彼女は言う。

 なるほど、そういうことか。


「うん。割と気分によって変えてるけど、最近はずっとピンクかな」

「……綺麗だね」

「でしょ。この色見せるのは、仲町が初めてだ」


 今日はたくさん初めてのことを経験している。

 この調子で、全部初めてがなくなればいいな、と思う。


「そっか、私が……」


 彼女は感慨深そうに言う。

 そんなしみじみ言うほどのことなのかな。いまいちよくわからないけれど、仲町が満足そうだからいいか、と思い直す。


「……じゃあ、私も脱ぐ」


 靴下を脱ぐだけなのに、まるでこれから服を全部脱ぎ去ろうとでもしているかのような声色である。


 彼女は真剣な表情で、靴下に手をかけた。

 思えば素足を見せ合える仲というのは、裸を見せ合う仲ほどではないにせよ、かなり深い仲なのではないか、と思う。少なくとも私たち高校生は、修学旅行くらいでしか裸足は見せない。


 だから、彼女の素足を見て、私は少し満足感を抱いていた。

 思ったより長い指。何も塗られていないけれど、形のいい爪。


 白くて滑らかな肌は、思わず触れたくなるような感じだ。私は誘われるように、彼女の足に触れた。


 ぴくり、と足が反応する。

 爪をなぞってみると、当然かもしれないけれどつるつるしていた。人の足の爪なんて今まで気にしたことがなかったが、思った以上に興味深い。


「あ、あんまり触ったら汚いって!」

「そんなに嫌? ……んー。じゃあ、一旦お風呂で洗う?」

「……洗ったら、もっと触るでしょ」

「どっちにしても、触っちゃうかもね。仲町の足、綺麗だし。つい触れたくなっちゃう」

「……それ、あんまり嬉しくないよ」


 別に、足に限った話ではない。

 仲町の体はきっとどこを見たって綺麗で、触れたくなるものなのだろう。去年はそんなだったけど、今年の夏に彼女が半袖を着ているのを見たら、その腕に触れたくなりそうだ。


 そろそろ、夏服の季節か。

 早いものだ、と思いながら、私は彼女の足を指でなぞった。


 ぴくぴくと震えるのがちょっと面白くて、なんだか背中に何かが登ってくるような、そんな感じがする。


 私はいたずらっ子ってわけじゃないのだが。

 仲町を前にすると、私らしくない私が顔を出す。彼女の新しい顔を見るために、時に変なことをして、意地の悪いことをして。


 よく愛想を尽かさないものだと思う。

 とはいえ、人の感情はその場その場で変わるものと、積み重ねで変わるものがある。


 人の好き嫌いはどちらかというと、後者だろう。

 だから、そのうち嫌いと言われてもおかしくはない。


 そう言われた時、私が果たしてどう思うのかも、非常に興味深いけれど。


「そっか。じゃあ、仲町が言われて嬉しい言葉を教えてよ。言うから」

「え? それは、その……可愛い、とか」


 それでいいんだ。

 仲町は「可愛い」より、もっと好きな言葉があると思っていたけれど。


 まあ、彼女がそれを求めているのなら、いい。

 私は徐々に指を足から上げていく。脛をなぞって、膝をくるくると指で撫でて、やがて大腿に辿り着く。

 指で彼女を辿る一方で、私はそっと彼女の耳元に唇を寄せた。


「可愛いよ、仲町」

「……っ」

「恥ずかしがりなとこも、変なとこ積極的なところも、色々。仲町は世界で一番、可愛い」


 囁きながら、指を上げていく。

 やがてスカートに辿り着くと、彼女の手が私の手に重なる。

 自然と、目が合った。


 何かを期待するような、それでいて、何かを恐れるような。初めて見る瞳の色に、指の動きを静止させられる。

 私は小さく息を吐いて、彼女と指を絡ませた。


「……はるちゃん」


 くい、と手を引かれる。

 幼い子供が、親におねだりする時みたいに。


「春流ちゃんは、私に興味があるから、付き合ってくれたんだよね?」

「うん? まあ、そうだね。それだけではないけど」

「じゃあ……」


 彼女はぎゅっと、強く私の手を握った。


「私に興味がなくなったら、別れちゃうの?」

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