第9話

 目を丸くした。

 もしかして、これがしたくて私をここに連れてきたのだろうか。疑問に思ったけれど、別に断る必要もないと思い、口を開く。


 震えるスプーンの先が、私の唇に触れた。

 冷えた感触が、彼女の唇とはまた違って、少し面白かった。


 巨大だから味もそれなりかと思ったけれど、意外にちゃんと美味しい。人がたくさん来ているだけあって、ちゃんとした店なのだろう。


 パフェを咀嚼していると、彼女にじっと見つめられていることに気がついた。見つめ返すと、彼女は顔を赤くして、パフェにスプーンを突っ込んだ。相変わらず、忙しそうだ。


「ん、美味しい。さすが仲町、いい店知ってるね」

「よかった! どんどん食べてね!」


 仲町は顔を真っ赤にしたまま、にこにこ笑う。

 器用というか、なんというか。


 私は次々と仲町から運ばれてくるパフェを食べ続けた。いつ終わるんだろうなぁ、と少し思う。ていうか、せっかく調べてきたんだろうに、仲町は食べなくていいのだろうか。


 人が食べているところを見るのって、そんなに面白いのかな。

 いつも以上に彼女はにこにこしていて、これ以上ないってくらい上機嫌だった。ペットがたくさん食べているのを見ると、元気だなぁって嬉しくなる人と同じ発想かな、これは。いや、私はペットではないのだが。


「仲町。今度は私が食べさせてあげるよ」

「え。そんな恐れ多い……」

「恋人同士でしょ? 全然恐れ多くなんてないよ」


 私は彼女の手をそっと握って、その手からスプーンを受け取った。


 思えばこれも、初めての経験だ。友達にしたりされたりすることはあっても、恋人にこういうことをしたことはない。


 順調に初めてを捨てられている。

 私は確かな満足感を抱きながら、パフェを彼女の口に運んだ。彼女は少し悩む様子を見せてから、やがて小さく口を開く。まるで、親鳥にでもなった気分だ。ちょうど仲町は、名前に雛が入っているし。


 彼女の唇が小さく動く様は、見ていて飽きない。

 確かにこれは、何度もしたくなってしまうかもしれない。

 初めてが不快じゃないのは、やはり相手が仲町だからなのだろう。


 興味深い。

 私は気づけば、彼女の唇に触れていた。


「……はるちゃん?」

「パフェ、美味しかった?」

「……うん」


 彼女は小さな声で言う。

 私はその唇を、親指で拭った。


「ほんとは?」

「ほ、ほんとに美味しかったよ!」


 仲町雛夏は素直で表裏のない人だと思われているが、私の前では割と嘘をつく気がする。別に嫌な嘘というわけではないのだが、せっかくなら本当の気持ちを知りたいと思うのが人情というやつだ。

 じっと茶色の瞳を見つめていると、観念したように彼女は言った。


「……味なんて、わかんないよ」

「どうして?」

「だって、春流ちゃんに食べさせてもらうなんて、緊張して」


 そういうものか。

 いや、一般的に好きな相手に何かをしてもらうのには、緊張が伴うものなのかもしれない。私が人を好きになったことがないから、わからないだけで。


 うーん、と思う。

 恋愛というものは、色々大変そうだ。なぜ皆、誰かに恋をするのだろう。仲町を見ていると、余計にわからなくなりそうだった。


「そっか。……じゃあ、慣れるまでやろっか」

「え。春流ちゃん?」

「ほら、あーんして」


 私は仲町の、緊張の先にある感情を知りたい。緊張がほぐれたら、彼女は私にものを食べさせてもらうことに対して何を思うのか。何を感じるのか。そして、どんな表情を浮かべるのか。


 知りたい。教えてほしい。私に見せてほしい。

 そんな気持ちで、彼女にパフェを食べさせ続ける。


 でも、好きな相手に対する緊張というものは、数回パフェを食べさせた程度で取り除けるものではないらしく。


 結局あんなに量があったパフェがなくなるまで食べさせ続けても、彼女は顔を真っ赤にさせたままだった。この様子を見るに、まだ味なんて感じられる段階ではないようだ。少し残念だが、仕方ない。

 私はスプーンを置いて、コーヒーカップに口をつけた。


「ご馳走様、だね」

「……ん」

「楽しかったよ。恋人に何か食べさせるとか食べさせてもらうとか、初めてだったから」

「それなら、よかった」


 彼女はふにゃりとした笑みを浮かべた。

 彼女が自然体で私に接してくれるようになるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。世間の恋人たちはこういうちょっと気まずい段階を、どう乗り越えているのやら。


 私たちは飲み物がなくなるまで世間話をして、やがて店を出た。

 最近日が伸びてきた気がするけれど、さすがにもうほとんど夜になっている。群青色の空が、どこか遠かった。


 頬を撫でる風に、夏の気配を感じた。さらさらとしているようで、湿っているような。そろそろ見上げる空に、入道雲が混ざる時季が来るのかも。


 流れる髪を手で押さえていると、見られていることに気がついた。

 私は、笑う。


「どうしたの、仲町」

「あ……」


 無くしたと思っていた宝物を見つけたみたいな瞳だった。

 太陽が見えなくなった時間でも輝くその瞳が、ひどく眩しい。

 綺麗だ、と思った。


 遠い昔に家族旅行で見た雄大な自然より、去年眞耶と見に行った初日の出より。今まで見た無数の綺麗なものより、もっと、ずっと、一番綺麗な瞳が、私を映している。


「……綺麗」


 それは、私ではなく、彼女の口から出た言葉だった。

 思わず後ろを振り返る。日が沈もうと関係なく明るい街は、見様によっては確かに綺麗かもしれない。当たり前の日常だから、今まであんまりそう思ったことはないけれど。


「そうだね。明るいところって、綺麗に見えるかも。人類の叡智ってやつかな」


 仲町に目を戻す。

 彼女はかぶりを振った。


「ううん、そうじゃないの。風の中にいる春流ちゃんが。春流ちゃんの、声が。表情が……すごく、綺麗だったから」

「私が? ……ふふ、そっか」


 こんなことを言うのは、仲町だけだ。

 そうか。私は、綺麗に見えているのか。


 でもそれは、私を映す仲町の瞳が綺麗だからなんだと思う。綺麗なフィルターを通せば、どんなものでもきっと綺麗に見える。

 ……しかし。


「嬉しいよ。仲町に、そう思ってもらえて」


 これは、嘘偽りのない本心だ。

 どうあれ仲町に褒められるのは、嬉しい。どんな理由があるにせよ、なんにせよ。


「でも仲町が、一番綺麗だよ」

「え」

「仲町は私が見てきた中で、一番綺麗」


 にこり、と笑う。

 彼女は、そっぽを向いた。


「仲町?」

「ちょ、ちょっとあっち向いてて」

「どうして?」

「……今私、すごい気持ち悪い顔してるから」


 気持ち悪い顔。

 仲町がそんな顔をしているのだとしたら、ぜひ見てみたいものだけど。


 無理やり見るのも可哀想かと思って、私はただ空を見上げた。そろそろ、本格的に夜が来る。


「そっか。じゃ、元に戻ったら声かけてよ。仲町自身が納得できる表情になるまで、ずっと待ってる」

「……ぁ、ありがと」

「ん」


 そうしてしばらく、何をするわけでもなくぼんやりと二人で立っていた。


 一分ほどした頃、ようやく元に戻ったらしい仲町が声をかけてきて、二人で駅まで歩いた。途中まで電車で一緒に帰って、やがて彼女の最寄り駅まで辿り着く。


 電車の扉が開いた。

 この駅ではほとんど人が降りないらしく、開いた扉はもの寂しげだった。


「じゃあ、ここで。今日はその、楽しかったよ」

「私も楽しかった。また明日」

「うん、また……」


 彼女はゆっくりと歩き始める。

 私が立っているのとは反対にある扉は、後少しで閉まる感じだった。


 また明日、か。

 自分で言っておきながら、なんとも奇妙な響きだ。今日と同じ明日が来るなんて誰も保証してくれないのに、私はその言葉を平然と口にした。仲町となら、明日も変わらずいられると思っているのだろうか。


 わからない。

 別に、この関係が明日突然終わって、仲町と関わることがなくなったとしても、私は平然と生きていけるだろう。これまでも、ずっとそうだったように。


 恋人と別れるという初めても、そのうち捨てることになるのだ。

 その日がいつ来るか、わからないけれど。


 初めては、全部捨てなければならない。これからも私が、私でいるために。

 ……なのに。


「……はるちゃん?」


 電車の扉が、閉まる。

 驚いたように、仲町は私を見つめていた。


 そこで、彼女の腕を掴んだと気づく。

 私は一体、何をしているのか。

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