第7話

 やっぱり、よくわからないと思う。

 私にはキスの適切なタイミングなんて知らないけれど、少なくとも今がそのタイミングでないことだけは確かだった。だが、別段嫌ではない。キスが好きってわけではないが、触れ合うと色々なことがわかるから。


 触れ合う時の力加減。呼吸の仕方。唇を離すタイミング。

 それらは全て、仲町雛夏で構成されている。これまでの生き方だとか、歩んできた道のりだとか、そういうもの全部が、今この時の行動に表れている。そんな気がするのだ。


 私のことが好きだと言う割には、舌は入れてこないんだな、と思う。


 私から入れるのもそれはそれで面白いと思うが、今回は彼女に全てを任せることにした。


 彼女は私に唇を押し付けたまま、ぎゅっと手を握ってくる。

 繋ぎ止めるように。縋るように。


「はる、ちゃん」


 唇が一旦離れたと思えば、名前を呼ばれる。

 名前を呼ばれたと思えば、また唇をくっつけられる。


 不思議な引力によって吸い寄せられているかのように、彼女は何度も、離してはくっつけてを繰り返していた。


 やがて彼女は、真っ赤な顔を私から離す。その瞳はひどく潤んでいて、驚くくらい色んな感情で満たされていた。


「……ごめん」

「……どうして謝るの?」


 私は握られたままの手を、さらに強く握った。

 彼女の指先が動く。


「いきなりキス、しちゃったから」

「別に気にしないって。いちお、恋人なんだし。……それに」


 私は彼女の耳元に唇を寄せた。


「必死になってキスする仲町は、可愛かったから」

「……っ」


 釣り上げられた魚みたいに、彼女がびくんと跳ねる。

 手を握っていなかったら、天井まで飛び跳ねてたんじゃないかってくらいだ。やっぱり仲町は、何かと大袈裟だと思う。ちょっと耳元で囁いたくらいで、ここまで驚かなくても。


「……春流ちゃんって、ほんとにキス初めてだったの?」


 少し睨むように、彼女は私を見つめてくる。

 おや、と思った。

 仲町のこういう顔を見るのは、初めてだ。


 初めては不快なものばかりだと思っていたけれど、こういう初めては不思議と嫌じゃなかった。興味深いと感じている相手が、初めて見せる表情。それは、スマホの壁紙にしたいってくらい、面白くて可愛らしいものだった。


 知らず、心臓が跳ねる。

 わからない。仲町雛夏という人間は、本当によくわからない。次はどんな行動をして、どんな表情を見せてくれるのだろう。気になって、知りたくて、わからなすぎるからこそ、その最奥に足を踏み入れたくなる。

 こんな気持ちは、初めてかもしれない。


「うーん……。まずは仲町がそうやって聞いてきた理由の方を聞きたいかな」

「……だって」


 彼女はもごもごと謎の音を発してから、言った。


「……慣れてる感じ、だから」

「うん?」

「キスも普通にするし、胸とか、触らせてくるし。……囁いてきたりもするし」


 仲町を見ていると、人間の血は赤いんだってよくわかる。

 怪我した時の血液を見ても何も思わないのに、仲町の真っ赤な顔を見ていると、なんだか満たされるのはどうしてだろう。その顔に触れて、体温を確かめたいと思うのは、なぜなのか。

 わからないけれど、私は笑った。


「残念だけど、ほんとに仲町以外とキスしたことないよ。恋人だって、いたことないし」

「え。……そうなの?」

「うん。仲町みたいにモテないからねー、私」

「私も、モテてはいないと思うけど……」


 わお。

 とんでもない自己評価である。仲町は男女問わず誰からも慕われているというのに、本人的には全然だったりするんだろうか。小さい頃から、数えきれないくらい告白とかされていそうなものだけど。


 いや、でも、きっと恋人はできたことないんだろうな。

 色んな人と付き合ってきたなら、何を間違えても私を好きにはなっていないはずだから。ほんと、いつも思うけどもったいない。

 私から別れよう、とか言うつもりは今のところないけれど。


「それ、本気で言ってる?」

「……うん。私も、恋人できたことないから」


 少し沈んだ面持ちで、彼女は言う。

 何か、悩み事がある様子だ。悩んでいる仲町には悪いが、私としては今の彼女の方が好ましく思う。


 人並みに悩み、好きな相手に触れたいという欲求を持ち、いつも顔を真っ赤にさせている仲町は、綺麗だ。


 物語の主人公とかじゃなくて、ちゃんと血の通った人間なんだって感じがする。


「……ふふ。わかる気がする。仲町って、あんま人見る目ないし。将来悪い女に引っかからないか、私は心配だよ」

「引っかからないよ」


 いつもどもったり必死だったりするのに、こういう時の仲町の言葉は、力強くて淀みがない。


 そして、その瞳も。

 全く揺らがずに、私を見つめている。


「だって、春流ちゃんが私の恋人だもん」

「高校卒業するまでには別れてるかもなのに?」

「そんなの、わかんないよ。でも、少なくとも私は別れるつもりで告白したわけじゃないから」

「それはそうだ。別れを前提にして付き合ってください、なんて聞いたことないもんなー」


 人の心は一秒ごとに形を変えるから、よくわからない。

 しかし、仲町は何かと私のことをよく褒めてくれる。綺麗とかなんとか。そうやって言っている仲町の方が、よっぽど綺麗だと思うけれど。


「それに私、見る目には自信あるから」


 私は目を丸くした。

 見る目がある人間は私を好きになっていないと思います。

 思わず笑うが、彼女はくすりともしなかった。


「私、悪い女だよ?」

「どこが?」

「ここが」


 私はそっと、彼女にキスをした。

 彼女は驚いたように目を見開いた後、どうしてか笑った。


「……春流ちゃんは、悪い女じゃなくて。いいひとだよ」


 真面目な顔で断言されると、もう駄目だった。

 私は吹き出した。


「ぷっ……あはは! そんなこと本気で言うの、仲町だけだよ。……気づいてないかもだけど、それすっごい口説き文句だからね?」

「え。あっ……やっ、そういうわけじゃなくて! とにかく春流ちゃんは魅力的な人だよってことを言いたかったわけで! 今は下心とか別になくて!」

「今は、ってことはいつもは下心あるってこと?」

「……ないよ?」

「仲町さーん」

「ほんとはある……」


 素直すぎる。

 そこは最後まで隠してほしかったけれど。まあ、下心があっても別にいいのだ。そういうところも、可愛いと思うし。したいならしたいで、いいと思う。できればそういう初めてもさっさと捨て去りたいってのもある。


 いつか直球で、私としたいからしてほしいと言ってくることはあるのかな。


 その時仲町は、どんな顔をしているんだろう。今から少し、楽しみだった。


「あはは、そっか。仲町のそういうとこ、いいと思う。可愛いよ」

「……はるちゃんの、ばか」


 初めて言われた。

 私はくすくす笑った。仲町と一緒にいると、退屈しないなぁ。人をこんなに可愛いと思うのも、こんなにも知りたいと思うのも、初めてすぎて。日頃何気なく関わっている人間という生き物は、実は驚くほど複雑怪奇だ。


 それぞれ歩んできた人生があって、誰も知らない思いがあって。

 その全てを解き明かそうとしたら、いくら時間があっても足りないと思う。


 一人の人を全部知るのには、きっと。

 一生かかるんだと思う。それなのに、私は。仲町の全てを、知りたいと願っている。馬鹿げている、とは自分でも思うのだが。


「そうだね。……私は、お馬鹿さんだ」

「……う」


 私が笑うと、彼女はやはり、顔を真っ赤にする。

 その後、私たちは二人でマカロンを食べて、感想を言い合った。


 満足しなくてもお仕置きなんてするつもりは最初からなかったけれど、彼女が美味しいと言うだけあって、マカロンは普通に美味しかった。


 でも、マカロンの味なんて割とどうでもよくて。

 それを食べてにこにこしている彼女の方が、私にとっては興味深いものだった。

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