第4話

 世間の人々がキスやセックスをした次の日に平然としていられるのは、恐らくそれに慣れているからなのだろう。行為に慣れ、それを日常の一部だと認識すれば、そういう行為も別段尾を引かなくなるのだろう。


 その感覚が、今の私には少しわかる。

 二度目のキスをした後も、私は特に気まずいとも思わず、それを思い出してドキドキするということもなかった。

 ……しかし。


「仲町」


 名前を呼ぶと、彼女はびくりと体を跳ねさせた。

 明らかに尋常ではない反応に、私は思わず小さく息を吐いた。


「な、なあに、春流ちゃん」


 声も震えていた。

 おいおい、と思う。


 二度目のキスから三日も経っているのに、まだ恥ずかしがっているのだろうか。確かにあの日は、色々なキスを試したけれど。


「五回目」

「え?」

「今日名前呼んで、ビクビクした回数。そんなに挙動不審だと、ちょっと困っちゃうな」

「あ……」


 彼女は気まずそうに目を逸らす。

 初めてでさえなければ平然としていられる私と違って、彼女は初めてでも二度目でも同じくらいのダメージを負っているようだった。


 こんな調子だと、将来誰かと付き合った時何かと大変そうだ。

 仲町が付き合う相手なら、根気強く彼女に接するかもしれないが。いや、どうだろう。仲町、人を見る目がないからなぁ。そのうち悪い女に引っ掛かるんじゃなかろうか。……悪い女になら、今もう引っかかっているか。


「そんなにキス、嫌だった?」

「そうじゃないよ! ただ、その……」

「ただ?」

「春流ちゃんに、見せてもらったのが、まだ頭に残ってて……」

「あー、なるほど」


 そういえば、キスした後に胸を見せたりもしたっけか。

 すっかり忘れていた。


 どうやら彼女にとって私の胸は頭を埋めるのには十分な存在感があるらしい。好きな人の体って、そんなに見たくなるものなのだろうか。人の体なんて、どれもそんなに変わらない気がするのだが。


 そう思うのは、私が人の体に興味がなさすぎるせいなのかもしれない。


「……じゃあ、あれだ。仲町が慣れるまで、私の体を見せ続けるとか」

「それは無理! 心臓が爆発する!」

「えー……」


 下着越しに胸を見ただけでこれだと、直接見せたらどうなってしまうのやら。


 私はもう人に体を見せるという初めてを捨てられたから、無理やり見せるつもりもない。そして、今日はそんなことよりも、重要なことがあるのだ。


「……ま、それならいいんだけど。今日はデートなんだから、いつも通りの仲町でいてよ」

「……うん」


 そう。

 今日は彼女との、初めてのデートなのだ。デートがしたいと言ったのは私で、プランを考えたのは彼女である。


 なんでもない、普通の土曜日。

 私たちは都内某所で待ち合わせをして、デートをすることになった。

 なった、のだが。


「ちょっと待ってね。深呼吸するから」

「はいはい。たくさん酸素を吸うんだよー」

「すぅ……はぁ……」


 何かと大袈裟だよな、と思う。そういうところ、嫌いではないけれど。


 私は規則正しく動く彼女の胸を見つめた。やはり、別段何を思うということもない。胸は胸だ。ただの体の一部で、それに対して何を思えばいいのか、私にはよくわからなかった。しかし、よく考えると、私は自分の体を見せるという初めては捨てたが、人の体を見せてもらうという初めてはまだ捨てていない。


 そのうち、そっちも捨てないとな、と思う。

 今後人の体を見せてもらう機会があるかは、わからないが。

 初めてはできるだけ捨てておきたい。


「……よし! ちょっと緊張ほぐれた!」

「それは何より。じゃ、早速——」

「待って! 手帳、見るから」


 彼女はポーチから手帳を取り出した。

 黒い革の手帳は、いつもの彼女とのギャップを少し感じさせる。しかし、意外に似合っている気がした。


 私物も可愛いもので揃えているとばかり思っていたが、そうではないようだ。よくよく見ればポーチも黒いものだし、私服も可愛いというよりはシルエットがすらっとしていて、スタイリッシュな感じだ。


 興味深い、と思う。

 仲町の知らない一面を見て、私は少しワクワクしていた。

 いいじゃないか。


 私の中で仲町雛夏という存在の輪郭が、くっきりしていくのを感じる。


「……? 春流ちゃん、どうしたの?」

「ううん。なんでも……」


 いや。

 なんでもないで終わらせるのも、もったいない。

 私の言葉に、彼女がどんな反応を示すのか。それが気になる。


「……その服とかって、仲町の趣味?」

「うん。……似合わないかな?」

「いや? すごい似合ってる。いつもの仲町の可愛い感じじゃなくて、なんていうかな……。んー、かっこいいってか、綺麗? そんな感じ」

「あ、ぇ。あ、りがとう」

「どういたしまして? いや、服がいいって言っただけだけど」


 私が言うと、仲町は手帳に目を落としながら言った。


「……らしくないって、よく言われるから」

「うん?」

「もっと可愛い感じの服の方が似合いそうとか、雛夏っぽさがないとかね。結構言われるんだ。……私はこういう服、好きなんだけど」

「ふーん」


 仲町らしさってものについて、私は全く知らないけれど。

 確かにそんな私でも、ギャップは感じた。


 仲町雛夏は、可愛い存在である。そういう前提のようなものがあったから。

 しかし。


「人が思うらしさとか、知らんけど。仲町が好きなものを選ぶのが、仲町らしさってやつなんじゃない?」


 私が言うと、彼女は目をぱちくりさせた。

 そして、ふっと笑う。


「やっぱり、春流ちゃんは春流ちゃんだ」


 私の名前よりも、彼女が私の名前を呼ぶ声の方が、ずっと春って感じがする。ふわふわした温かさがあるというか、優しい感じがするというか。


 残念だが私は、はるという名前の割に全く春っぽくはない。冷たいと言われることの方が多いし。


 果たして母とお父さんは、何を思ってこの名前を私につけたのやら。


 いや、別にはるって名前だからって、春っぽい人じゃなきゃいけないってわけではないのだけど。そもそも、なんちゃらっぽいとか、そういうのはナンセンスな気がする。つい、そうやって思ってしまうことはあるけれど。


「いかにも私が春流ちゃんですよ」

「ふふ。……春流ちゃんのその服は、可愛いね。趣味なの?」

「ま、ぼちぼちね。私、可愛いものは嫌いじゃないから」

「そっか。春流ちゃんも、可愛いよ」


 彼女は、言う。

 私は目を丸くした。


「あ、ごめん。可愛いって言われるの、嫌だった?」

「ううん、全然。褒め言葉ならなんでも嬉しいよ。……ただ」


 黒い手帳に、茶色の髪。

 無垢で天真爛漫な仲町雛夏像が、崩れていく。それが心地いい。崩れたイメージのその先に、きっと本当の仲町がいるはずだから。


「自然と褒めてくれるの、いいなって思って」

「え」

「仲町って私の前だといつも、挙動不審じゃん? 今のは自然でよかったよ。百点満点あげちゃう」


 私が言うと、彼女はちょっと困ったように笑った。


「……ごめん。春流ちゃんの前だと、いつも色々考えちゃって」

「いいよ。いつもの仲町だって、割といいと思ってるから」

「……ぉ、あ、ありがとう」

「そういうとこね。可愛くていいと思うよ。可愛いって言われるの、嫌かもだけど」

「……ううん。春流ちゃんに言われるのは、嫌じゃない。もっと言ってもいいよ」


 私に言われるのは、ってことは、他の人に言われるのは嫌ってこと?


 いつも皆から可愛いって言われているのに。

 どうなんだろう、と思いつつも、私は口を開いた。


「……可愛い。かわいい、可愛い。仲町は、世界で一番可愛いよ」


 その瞳をじっと見つめながら、言う。

 これは嘘偽りのない私の本心だ。仲町雛夏は、どうあれ私が知る中で一番可愛くて、綺麗だ。この世で一番と言ってもいい。


「……ぁ」


 火山が噴火したみたいに、彼女の顔が真っ赤になる。

 もっと言ってもいいって、自分で言ったのに。仲町は、相変わらずだ。私は思わず、くすくす笑った。


「ほら、照れるのは後にして、デートしようよ。こういう時間も嫌いじゃないけど、今日はデートする約束でしょ?」

「……そ、そうだね! デート! デートね! 待って! まずスケジュール確認するから!」


 秘書にでもなるのだろうか。

 彼女はパラパラと手帳をめくって、用意したらしいプランを必死に確認している。


 やっぱりこういうところは可愛くて、興味深いと思う。見ていて飽きないというか、なんというか。

 仲町雛夏は本当に、不思議な女の子だ。

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