大人の階段 第二話

 翌朝、締切が来週かと思っていたレポートの提出期限が実はこの日だと知り、慌てて昨日の続きを書いていたら、チャイムが鳴った。扉を開けてみると、神谷が立っていた。

「誕生日おめでとう」

「は?」

 思わず声が裏返った。

「俺の誕生日は昨日だぞ」

「そうだ、もちろん昨日はお前の誕生日だった」

 神谷は首肯しつつも、俺が昨日被っていたバースデーケーキのハットを俺に押し付けた。

「だが、今日もお前の誕生日だ。だから、パーティーの再開だ!」

「馬鹿じゃないの?」

 俺はあきれてハットを神谷に押し返した。

「俺の誕生日は昨日で終わり。パーティーも昨日で終わりだ」

 すると神谷は、いかにも不思議そうな目で俺を見た。「お前、今更何を言っているんだ? 昨日言っていたこと、忘れたとは言わせないぜ?」

「昨日言っていたこと?」

 何のことか分からず、オウム返しした。すると神谷は首を横に振った。

「全く、昨日のことを忘れるなんて、お前も物覚えが悪いな。毎日が誕生日だったら良いのにって言ったのはお前だぞ?」

 それは確かに言った記憶がある。あれは現実に戻されたくないという趣旨の発言であり、毎日が誕生日ならずっと非日常の世界に逃げられると思っての言葉であった。しかし、いくら現実から逃げたくても、実際に逃げ続けることなんてできないことくらい俺には分かっていた。

「そんなこと言われても、俺、今日は大学に行かなきゃいけないんだよ」

 眉を少し動かした神谷をまっすぐに見つめて正直に言う。「だから今日はパーティーはやめておくよ」

 そう言って、俺は辞退しようとした。しかし、神谷は首を横に振った。

「そんなの休めば良いんだよ」

 いともあっさりと言うが、休みたいからと言って休めるわけではないのである。

「そんなことできないよ。今日がレポートの締切なんだから」

「出さなきゃ良いだけじゃん」

「そんなこと言っても、出さなかったら単位落とすんだよ」

「別に単位落としたって死なないだろ」

「そうじゃなくて、俺は留年するかもしれないんだ」

「え、留年して何が悪い?」

 なんなのだ、この男は。ああ言えばこう言う。俺はそういう議論をしたいわけではないのだ。思わず大声が出た。

「もう! とにかく落とすわけにはいかないんだ。大学に行かせてくれよ」

 俺のあまりの剣幕に、神谷の肩が一瞬だけ跳ねた。それから、納得いかないような表情ながらも、神谷はしぶしぶうなずいた。

「全く、しょうがないなあ。そこまで言うのなら、今日はやめておこう」

 そう言って神谷は不服そうにハットを自分のかばんにしまい始めたので、俺はほっとした。まあまあでかいハットを押し込み鞄のチャックをしめると、神谷はまた俺に向き直った。

「んで、今日は何の授業があるんだ?」

 神谷が何故そんなことを聞くのかが分からなかった。とは言え、今日は授業が一コマしかないので、とりあえずその授業のことを教えた。

「三時間目の基礎演習だよ。相馬そうま先生の」

「なんだ、あのつまらん授業か。お前も可哀そうにな」   

 すると神谷はしばらく何か考えるような素振りを見せ、はたと手を打った。

「よし、いつもは休むが、お前が行くのなら久しぶりに出席してやろう。楽しみにしていてくれよな!」

 この言葉を残して神谷は扉を閉めた。一緒の授業に出るだけなのに楽しみもくそもないだろうと思いながらも、とりあえず神谷を追い返せたことに安堵した。これでようやく、部屋の隅に追いやられたレポートに取り組める。とは言えもう残された時間は少ない。仕方なく、参考文献を細かく読み込むのを諦め、テーマについて深く考察をせず、何が問題点なのかをざっとまとめただけの簡単なレポートを書くことにした。あまり良い評価は期待できないだろうが、出さないよりもマシだと思い、なんとか書き上げた。そのできたてのレポートを鞄にしまい、俺は急いで大学に向かった。


 電車から降りた後に走った甲斐があって、なんとか授業開始一分前に大学に着くことができた。そして授業が行われる教室に行くと、何やら騒がしい。見ると、教壇の上で相馬先生と神谷が何か言い合っていた。

「何がパーティーですか! そんなことは断固として認めませんからね!」

「お前、教授ともあろう人間が、学生の自由を奪おうってか? そうはさせねえ、パーティーをやらせろ!」

 俺は神谷の正気を疑った。こいつ、公共の場でパーティーをやろうとしているのか。普通の人間が考えることではない。

「あなた分かっています? ここは大学ですよ。学問の場なんですよ。そんなところでパーティーなどしてみなさい、単位をもらえなくなりますよ!」

 相馬先生はこめかみに青筋を立てている。言葉を一つ一つ選んではいるようだが、いつ激昂してもおかしくはない。

「ふん、この俺様が大学のエライセンセーごときを恐れるとでも思うか? いつも研究室に閉じこもってばかりの引きこもり風情が、俺様に意見するんじゃねえ!」

 仁王立ちして一歩も譲る気のない神谷の態度に、もう相馬先生は我慢できなくなったようだ。

「あなた! これ以上授業を妨害するような発言をするのであれば、ここから出て行ってもらいますよ!」

「上等だ! お前がその気なら、もう俺様も手加減してやらねえぞ!」

 そう言って、神谷は両手を大きく横に広げた。一体何をするつもりなのか分からず俺は固唾かたずを飲む。次の瞬間、神谷は開いた両手を思いきり閉じ、力強く手をたたいた。と同時に、相馬先生の周りの空気が波打ち、相馬先生が歪んだ。堪忍袋の緒が切れたような表情を保ちながら、ぐにゃぐにゃとうねる相馬先生。二度、三度と振動し、もはや体は原型をとどめていなかった。と、その時、相馬先生が急激に細くなり、一本の波線となった。その波線も細くなり続け、やがて俺の目には見えなくなった。辺りを見回しても、先生の姿は見当たらない。一瞬で、その場からいなくなってしまったのである。

 何が起きたのか分からず呆然としていると、神谷が俺に気付いて手を振ってきた。

「お、いつの間にか主役のお出ましか。これでパーティーを始められるな!」

「あの……神谷」

 俺は恐る恐る尋ねた。

「先生はどうなったんだ……?」

「あ? 消したけど、なんか問題でもあった?」

 あたかも当たり前かのように返答する神谷に、俺はぞっとした。人が波打ち、線のように細くなって消える。普通に考えたら意味の分からない所業である。この現象を理屈で説明できるわけがない。現実世界ではあり得ないことが起きているのである。俺の本能が、この男に逆らってはいけないと告げていた。俺も神谷に手向かったら、こうなるのだぞ、と。

「あんな奴はいなくなってしまえば良いのさ」

 神谷はそう呟くと、教室の前の席で待機していた自分の仲間に命令した。

「よし、お前たち、待たせたな。これで邪魔者はいなくなった! 鞄から料理を出せ。パーティーの始まりだ!」

 歓声が上がり、連中は馬鹿騒ぎの準備を始める。どうやら彼らは、神谷が今やったことを当然だと思っているようだ。連中も連中で異常な奴らだと思った。

「え、何? あんたたち今からパーティーやんの?」

 教室の後ろの席にいたモヒカンの男子が身を乗り出した。彼はいつも授業には出るものの、毎度のように机に突っ伏して寝ているため、立ち上がったところを見るのは非常に珍しかった。

「おう! どうだ、折角ならお前も参加してくれよ! 人数が多い方が楽しいからさ!」

 神谷の言葉に、モヒカンが目を輝かせる。そのまま一も二もなく「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」と言って教室の前の方に行った。それを皮切りに、同じく授業を受けにきた他の連中も、我も我もと神谷の方へ集まって行った。彼らも先生が消えた時は何が何だか分からずざわめいていたが、いざ神谷がパーティーを始めようとしたらそれに賛同して乗っかろうというのだから、学生がどれだけ授業をサボりたかったのかが分かるだろう。あるいは、サボる気はなくても、神谷に逆らってはいけないと直感的に思ってパーティーに参加する人もいるのかもしれない。もちろん、俺もその一人であった。

「ちょっと待った!」

 教室の後ろの方から鋭い声が聞こえた。その場にいた全員が一斉に振り向くと、そこには一人の学生が立っていた。彼もまた、普通に授業を受けにきただけの人のようである。が、他の連中とは違って眉間みけんしわが寄っているところを見るに、神谷の行動に異を唱えようとしているのだろうと推測できた。そんなことなどやらなければ良いのに、と思ってしまう。

「パーティーってどういうことだ? 今日はレポート発表の日だったはずだぞ?」

 彼が発した正論は、しかし、この場にいた連中に笑われた。こんな真面目な話が、異常な連中に通用するわけがなかった。

「レポート発表? そんなつまらんことはやらねえよ」神谷が教壇を降りて彼のもとへ歩いて行く。「それよりパーティーをやろう。授業よりももっと面白いぞ」

「そ、そんな」学生は自分の書いたレポートを両手で握りしめて神谷に詰め寄った。「じゃ、じゃあ僕が今までしてきた努力は何だったんだ。レポートのために、何日徹夜したと思っているんだ」

「さあ? レポートなんて、そんなの最初からやらなければ良いじゃないか」神谷が冷淡に返す。

「ひ、ひどい」そう言うと、学生はレポートを神谷の顔の前に持って行って見せつけた。

「これはな、僕の努力の結晶なんだ。こいつのために、僕は睡眠時間を削った。見ろ、このくまを。ここまで寝ずに頑張った証拠だ。なのに、それが全部無駄になるなんて、そんなこと……!」

 すると神谷は、再び手を叩いた。途端に今度は学生の持っていたレポートが波打ち、やがて消えた。あ――と一言発して動かなくなった学生に対し、神谷は笑顔でウインクした。

「そんなつまらんものなんて、世の中にはいらないぜ。本当に必要なのは、楽しむことだ。さ、パーティーを楽しめ!」

 魂が抜けたかのように膝から崩れ落ち、涙を流す学生。それを不思議そうに眺めて、「ん、パーティーに参加しないの? なら邪魔だからここから消えてくれよ」と言い放って無情に手を叩く神谷。それを見た俺は、神谷の恐ろしさを実感するとともに、この男に反逆する勇気を完全に失った。その日は神谷に言われるままに踊り、食い、そして飲んだ。途中で教室に注意をしに来た人々は、全員神谷に消された。そしてそのまま昨日と同じくパーティーは夜まで続き、その日俺は二十三時まで大学から出られなかった。

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