せんぱいはただの人。

魚田羊/海鮮焼きそば

とくべつな人

 最近ずっと、もうずっと、わたしの心を吸い込んで離さない人。

 その人をわたしは、『せんぱい』とだけ呼ぶことにしている。


 この高校にいる二年生と三年生の数が、そのままそっくり先輩の数。だから一人ひとり、苗字か名前をくっつけてあげないと、その人はこっちに気づかない。誰を呼んでるかわからない。あたりまえすぎて、いちいち考えないようなこと。

 だけど、でろでろにとろけたひらがなで、伸ばして跳ねて、「せーんぱいっ」と呼びたくなるのは。

 あなただけだから。

 きっと、それでいい。


 ☆


「なぜいつもいつも僕を追いかけてくるんだ、君は。図書館で少し勉強してから帰るだけだぞ」


 昨日も、今日も。明日あさってはお休みだけど、その次の日も。放課後の帰り道は、せんぱいの背中を追いかける時間。言葉、態度、たまにちょっぴり動く表情。ぜんぶを見届けて、焼きつける時間。

 ほう、と、せんぱいはひとつ息をつく。そっけなく言うわりには、ひょろ長い身体を今だけは持て余してゆったり歩いてくれるので。いつもより8センチくらい歩幅狭いですよ、せんぱい。


「わたしの趣味、忘れちゃったんですかぁ~? 人間観察ですよぉ」

「ひとりの人間をしつこく追いかけるのは人間観察ではない」


 にたり。自信たっぷりに言う女の子、のポーズをとるわたし。

 決まったかなと思うより早く、せんぱいの否定がとんできた。

 せんぱいはいつもそうだ。ずばずばした言葉。やさしくない。

 歩幅と速度をまた戻して。すたり、すたたた、行っちゃった。制服姿が行っちゃった。

 せんぱいの長い脚が目いっぱい伸びて、木枯らしみたいにわたしを置いていく。誰も近寄るなって言っているみたいな早足が、いつ見てもさみしいのです。


「まってくださーい!」


 落ち葉をさくっと踏みながら、元気元気に張り上げる。そしたらきっと振り向いてくれる。ぴかぴかの白に磨かれた土壁と、時代のぶんだけ黒く染まった木目。城下町の香りがぷんぷんするこの町の、せまーい路地。

せんぱいは――あれ、まだ止まってくれてない。聞こえなかったのかな。

 路地の両脇に家がぎゅうっと並んでいるんだから。うっかりしてたらせんぱい、日陰に溶け込んで見えなくなっちゃう。


「まってくださいよー!」


 もう一度声上げて。そしたらやっと、振り向いてくれた。


「仕方ないな。どうせついてくるなら、気になる本のひとつも見つけてくれ」


 下から上までぴっちりボタンが留まってる制服の、もっと上。黒い角ぶちめがねの奥から張り詰めたかがやきがわたしを見てる。揺れない。媚びない。でも、やさしい。

 せんぱいはいつだってそう。わたしはまだまだついていく。


「はーい! 面白そうな本探しますっ。まあ、わたしがいちばん気になってるのはせんぱいですけどね」

「……まったく、君はなんなんだ。僕なんて追いかけてもつまらないだろうに。僕の放課後が家と図書館と勉学のみで構成されているのは、君がいちばん知っているはずだ。もっと面白い人間も、交友関係や行動範囲が広い人間も、世の中にはいくらでもいる」


 そもそもストーカーまがいの行為は誰にだってすべきでないと思うが。

 そうやって締めくくったあと、またサッと歩き出すせんぱいは、自分のことをわざと下げてるみたいに見えて、たぶん違う。


『僕はただの人間だ。誰かに目をかけられる要素もなければ、誰かに目をかけるつもりもない、ただのつまらん人間だ。もう独りでいるしかないんだよ、僕は』


 自分はそういうものだって言い張るせんぱい。

 それがわたしの深いとこを濁らせるなんて、知らないで。


「そんなことないです! いつも言ってるじゃないですか。わたしが追いかけてるのに、追いかけてたいと思ってるのに、ひとりぼっちなわけありますか」

「……いや」


 なにも言わせない。言わせてなんかあげない。


「それに! ――せんぱいはとくべつな人なんです。不思議な力だってあります」


 せんぱいは、人生で一度だけ、自分以外の時間を止められる。『時よ進め』って願うまで。


 生きてくのには便利かもしれないけど、直接誰かを傷つけるようなものじゃない。でも人間ひとのものでもない。そんな力を持ってる『とくべつな人』、たまーにいる。ケンキュウシャのえらい人たちも力のことを調べようとしてるとか、どこかで聞いた。

 わたしにはわかる。不思議な力があるから。力を持ってる人は、ぼんやりと光って見えるから。自分を『とくべつな人』って言うのは、わーっとなるからしないけど。

 今だってそう。心の虫めがねでのぞいた先。夕方のひとつ手前の時間みたいな薄淡いオレンジ色が、せんぱいの細っこい身体の周りにぽわぽわひっついてる。

 その光を見たら、「この人は人生で一度だけ時間を止められるんだ」って、すうっと頭の中に入ってくる。


『あの! せんぱいって、時間を止められるんですよね?』

『誰だ君は。それに……なぜ知っている』

『えへ、気になります? 理由教えてもいいですけど、代わりにせんぱいをたくさん観察させてくださいね?』

「断る。怖いだろう、普通に考えて」

「うぅ……あっ、じゃあじゃあ、勝手に観察しておきますから気にしないでくださいねっ!」

「無茶を言うな……」


 高校に入ってすぐあった、上級生との交流会。ひとりでぽつんと立っていたせんぱいがなんとなく目に入って、心の虫めがねでのぞいたあと。

『こんなすっごく怖そうな、一匹狼さんみたいな人が、世界の運命まで変えちゃえそうな一度きりの力を使うの、どういうときなんだろう』

 気になる、だけで突っ走ってつい話しかけたあのときから、時間を止める力のことは知ってる。


 だからわかってますよ、って今、言ったけど。

 飛び出したその言葉、きっとせんぱいは要らないって言う。

 だってわかるもん。せんぱいのむすっとした顔がもっとむすっとして、今にも苦しそうな言葉を返そうとしてるのが。ほら、ちっちゃく息を吸い込む音がきこえる。

 ううん、間違えた。せんぱいがほしいのはそんな力があるとかないとかじゃなくて。あのもっと、ええっと、ふわふわしたなにか。……なにか。


「そんなもの、大した意味はない。君には『とくべつな人』にのだろうが、僕には要らない」


 せんぱいの言葉を止められない。その言葉にかぶさるみたいに、青いスポーツカーが前からやってきて。そろっと通り過ぎてくれたのに、運転手さんは会釈までしてくれたのに、そのぎらぎらな青光りがせんぱいの言葉までつめたくしたみたいに見えた。


「望む限り時を止められるなどという、あまりにも大きな『人生で一度』。誰かの運命すら変えられるかもしれないその一度を、いつ、どこで、誰のため、なんのために使うのか。仮に君が僕の立場なら、この選択に耐えられるのか? ……僕は、耐えられない」


 わたしの前を歩き続けてるのに。

 まっすぐ伸びた、ちょっぴり頼りなくて頼れる背中から、ぽつり。言葉がまっさかさまに落ちて止まった。そんな震えてるせんぱい、はじめて見る。


 せんぱいはまじめでがんばりやで、やさしくて、なのにだーれも寄せつけようとしない。ぜったい素直になってくれない。やさしさは、あふれているのに。

 ずっと気になってたことが、すこしわかったような。そっか。せんぱいは、そんな重たいものを抱えてたから。


 せんぱいは今、どんな顔をしてるんだろう。きっと、わたしよりもっと苦い。

 ……わたしだって。わたしだって耐えられるわけないですよ、せんぱい。


『使わなければよかった』『使っておけばよかった』『使ったのにうまくいかなかった』――どこで力を使ったところで、別のどこかで苦しむのはわかっている。ならばいっそ、なにも持たないかのように過ごしたほうがいい。ただの人間でいればいい。力はとっさのときにでも使うさ」

「たとえば、どんなときですか」

「大したことには使わない。自分のために、しれっと使う予定だ」

「答えになってないですっ」

「……そうだな。物を落としかけたときにでも使うか。飯時に食べ物を取り落として無駄にするよりは、俺はとっさに時を止めるほうを選ぶだろう。誰のため、なんのためなどと悩むくらいなら、最初から自分のため、息をするように使うと、もう決めたんだ」


 顔が見えなくても、声だけでわかる。

 せんぱいじゃないみたいにおどけた声。ぼんやりひっつけてる『とくべつな人』の光より、もっともーっと明るくて軽い声。けれど、真っ赤に痛いのを隠してる。


「そうなんですか」


 自信たっぷりでかわいくて、ちょっぴりわがままな女の子。それが、いつもせんぱいに見せるおめかし。ブレザーとスカートの上から、とびっきりきれいに着飾ってみせてる。

 だけど今は、むりだった。おめかしも温度も乗ってない、空っぽの「そうなんですか」だった。

 もうすぐ角っこ。ここを左に曲がったら、すぐに図書館が見えてくる。まだ着きたくない。着く前に、いつものわたしとせんぱいでいたい。


 このままじゃだめなんだ。

 だから。


「えいっ」


 わたしは飛び出す。背中をずいずい追い抜いたらひと思いに振り返って、せんぱいの前に立ちふさがる。

 ちゃんと目を見て話さなきゃ――


「危ない!」


 必死な声。せんぱいだ。

 なんですか――あっ、くるま、


 ☆


 曲がり角のすこし手前に、せんぱいとふたり向かい合ってる。なんともない。ぴっかぴかのわたしが立ってる。

 あれはぜったい、車だった。色もよくわからなかったけど。きっとわたしは、わたしとせんぱいのことだけ考えたまま、曲がり角に飛び出してたんだ。

 なのにぴっかぴか。

 理由はひとつ。せんぱいです。目を合わせてくれない、目の前のひとです。


「せんぱい」

「……なんだね」

「ありがとうございます。わたしをたすけてくれて」


 逃がしてなんてあげない。この気持ちはまっすぐに伝えるんだ。

 おじぎして。ゆっくり顔上げて。せんぱいは一瞬、びっくりしたみたいにまばたきしたけど、またすぐに張りつめた。


「気持ちは受け取りたいところだが、僕は何もしていない。運よくぶつからなかっただけだ。周りに気をつけたほうがいいぞ、君」

「ほんとですかぁ~?」

「本当だとも。別にいいだろう、そんなこと。君の無事に比べればささいな問題だ」

「え、ふぁ、」


 なんでもないみたいに言うけれど。そんな正面からやさしい言葉をかけるせんぱいは、見たことがなくて。せんぱいのやさしさはいつもぐにゃぐにゃねじれてて、素直じゃなくて。まるではずかしがってるみたいだったじゃないですか。

それに、せんぱいは一生に一度を――


「もう一度言おう。君が無事でよかった」

「……はい」


 追い打ちしましたね。わかってやってませんか、せんぱい?

 かーっとなる頭も身体も、心臓も、ちょうどよくなるまで一生懸命に冷まして。まだ残ってるどきどきはもうしょうがないけど。大事にしたいけど。

 ちょっと落ち着いたと思ったら、今度のせんぱいは――


「これで少しは懲りたか……いや、君に限ってそんなことはないだろうな。目でわかる」


 からかおうとしてやめたみたい。今日ははじめてのせんぱいがいっぱい見れる日だ。

 ええ、もちろんです。これでへこたれたりしません。


「とーぜんですよ! せんぱいの観察は続けますから」

「……好きにしろ。そんなに僕が力を使う瞬間が気になるのなら、気が済むまで続ければいい」

「やったぁ!」


 呆れたみたいな言葉が、どこかやさしい。

 そのやさしさに甘えさせてくれませんか。わたしの秘密を、もうすこしだけ秘密にさせてくれませんか。

 せんぱいがそんなこと言えるのは、わたしの力をぜんぶ知らないからです。知ってしまったら、きっと。


 ……あのですね、せんぱい。かしこいせんぱいなら、そのうち気づくかもしれませんけど。

 不思議な力を持っている人がわかるってことは、力を持ってない人もわかるってことです。


 ――また歩き出したせんぱいはもう、ぼんやりした光をまとってはいません。力を使いきって、『とくべつな人』じゃなくなった。


 わたしにはわかってます。わかってる上で言わせてください。


「せんぱいがいつどんなときに、一度きりの力を使うのか。それ以外の言葉も、いろんなしぐさも。これからも、できるだけ観察させてくださいねっ?」

「……仕方ないな、君は」


 隣に並んで見た横顔は、いつもよりほんのすこしだけゆるんでいて、あったかい。

 ――やっぱり。特別な力があってもなくても、せんぱいはわたしのとくべつな人。最初はたしかに、せんぱいがいつどんな風に力を使うのかが気になって観察してたけど。『一度きり』の瞬間を見ることはできなかったけど。そんなの関係なくわたしは、あなたのそばにいたくなったんです。

 出会ったときよりちょっぴり素直になったせんぱいみたいに、わたしもいつか、この気持ちを素直に伝えるので。せんぱいが許すなら、あとすこし。もうすこしだけ、時間をください。


「着いたぞ。通り過ぎそうになっていなかったか、君」

「すみません。考え事しちゃってました。……あっ、でもでも、もう切り替えましたから心配ご無用ですよっ! 楽しい図書館デートにしましょうね、せーんぱいっ♡」

「……車に轢かれかけたところだというのに、君は変わらないな」


 わたしの口はまだからかってしまうけど。いつも通りで、いつもより心地いいふたりの時間を、今は過ごしたくて。

 やさしい苦笑いで返してくれるせんぱいが、なんだかとっても光かがやいて見えた。

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せんぱいはただの人。 魚田羊/海鮮焼きそば @tabun_menrui

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