第7話 岬へ
私たちは、東名高速道路にのると、西に向かってひたすら走った。
私は、とにかく、アパートから離れたい一心でアクセルを踏んだ。
午後9時を回っていたが、富士川サービスエリアに寄り、遅い夕食をとることにした。恵美子は、突然の旅行に嬉しそうだった。
「エミちゃん、お腹が減ったでしょう」
私は、そう言いながら券売機で買った天ぷらうどんのチケットを2枚持ってテーブルに座った。
恵美子は、お冷を二つ用意して座っていた。
恵美子は笑顔で私に言った。
「お姉さん、夜のドライブって楽しいね。何故かうきうきしてくるの」
恵美子は、これからのことを考えることも無く、全く子供のようにはしゃいでいた。私を全面的に信頼し、私に頼って生きている恵美子をあらためて見ると、恵美子をこのようにしてしまった自分の責任を今更ながらに痛感した。
「さあ、おうどんが出来たみたいね。待っていてね。お姉さんが取りに行ってくるからね」
別に、恵美子が一人で何処かに行ってしまう訳でも無いのに、私は、恵美子にそう言った。
私が手を離すと何処かへ行ってしまうようないつかの恵美子を懐かしくも思った。
私たちは、束の間の休息をとると、再び本線に合流した。
梅雨時の断続的に降る雨と大型トラックの多さにより、私は運転にかなり気を使わなくてはならなかった。
それから、走行すること2時間余りで私たちは、浜名湖に達した。
そして、浜松西インターで降り、二川を抜け、渥美半島の伊良湖岬に向かった。
私にとって、他に行く当ては無かった。
二川から渥美半島に出るためには、山越えをしなくてはならなかった。
そして、山を下ったところに車のまま入れるラブホテルがあることを私は思い出した。
今夜は、そこに泊まろうと思った。
すると、助手席で寝ているとばかり思っていた恵美子の声がした。
「お姉さん……」
規則正しいワイパーの音が恵美子の声を遮った。
「どうしたの? エミちゃん起きていたんだ」
私は、前方のセンターラインに目を向けたまま恵美子に言った。
「お姉さん」
再び、恵美子は、私を呼んだ。
しかし、山道の運転のため恵美子の方を向くことが出来なかった。
「エミちゃん。疲れた? 安心してね。もうすぐ着くからね」
私がそう言うと、
「お姉さん。違うの。いつか、私は、お姉さんと夜のドライブをしたことがあるような気がするの」
恵美子は、呟くように言った。
私は、恵美子が、石垣島での夜のドライブを失った記憶の断片として呼び戻そうとしているように思った。
恵美子は更に続けた。
「綺麗な夜の海をお姉さんと見ていたような……」
私の耳には、波の音が聞こえてくるようであった。
あの夜に、恵美子が私を拒否したあの言葉と私の深い落胆が風の音に変わっていったことを私は忘れられない。
『私とお姉さんは、絶対に結ばれることは無い!』
と、私に言い放った恵美子にこのまま戻ってしまうのかもしれない。
しかし、私は、思い切って恵美子に、あの岬でのことを話そうと思った。
「そう。二人で夜のドライブをしたの。そして、海に行った…… エミちゃんと私はー」
と、そのとき、カーブでの対向車との擦れ違いざま、私はハンドル操作を誤った。
タイヤは激しくスリップし、ガードレールを乗り越え、私たちは崖下に車ごと転落した。
ほんとうに、一瞬の出来事であった。
急にハンドルが軽くなり、身体も軽くなった。
何故か、ゆっくりと休めるような感覚で、気持ちが楽になり、そして、意識を失った。
私たちは、病院へ運び込まれた。
幸い恵美子も私も命に別状は無く、軽い怪我で済んだのだった。
ただ、恵美子は、家族に引き取られていった。
私は、恵美子とはもう二度と会うことが出来無いと思った。
病院のベッドで私は、ただ一人だった。
そして、涙が頬を伝って止めど無く流れた。
もうこれで、私の持ち時間は、完全に無くなったのだと思った。
私は、一週間ほどで退院すると警察の取調べを受けた。
その結果、あの岬での出来事も全て露呈された。
しかし、あの夜のことは、事件としては扱われず事故で決着がついた。
私は、罪を問われることも無く、あの岬での恵美子への殺意は、闇に葬られた。
しかし、私は、取調べで行われた精神分析により性同一性障害と判定された。
障害という言葉に私は閉口した。
自分の性に納得が出来ないということは無かった。
そして、私が、男性に成りたいと思ったことは一度も無い。
男性を恋愛対象にすることが出来ないだけだ。
ただそれだけなのだ。
女性を愛することが私にとっては自然な姿なのに、世間は、同性愛だとか、レズビアンなどと特殊なフィルターを通して私を見た。
しかし、恵美子と廻りあい、恵美子を愛した事実は、私の心の中の男が強く存在することの証明であった。
記憶を失くした恵美子と私との関係を、あの捜索番組を制作したテレビ局は追跡報道した。
その後、私はマスコミの餌食となり、世間から孤立した。
私にとっては、死刑判決が下されたようなものだった。
私は、何もかも失った。
私は、ただ一人、空虚な心で、恵美子と二人で過ごしたアパートの部屋に閉じこもる日々を送った。梅雨時のアパートの部屋は、薄暗かった。
私は、電灯を点けることも無く、何もせずに過ごした。
ドアをノックして恵美子が訪ねて来てくれるような期待を持つことが何回かあった。しかし、それは有り得ないことだった。
梅雨明けの日、私は、思い切ってアパートの部屋を出た。
それは、久しぶりの外出であった。
私は、目的も無く歩き、電車に乗った。
結局、私の向かった先は、恵美子といっしょに行くことが出来なかった岬であった。
路線バスの窓からは、夕陽に揺らめく波が、赤い帯を幾重にも水平線の彼方へと伸ばしていくのが見えた。
久しぶりに目にする渥美半島からの海であった。
私は、再び伊良湖岬にやって来た。
スニーカーにブルージーンズ、白のTシャツの私は、ほとんど空席の車内で海を見つめていた。
『エミちゃん。私は女性になれなかった。だって、心は男性だったのだから』
私は、一人、心の中で呟いた。海には、恵美子がいるような気がした。
『エミちゃんとの恋は成就出来なかった。それどころか、私たちは、お互いにもとの自分に戻れなくなってしまった』
私は、恵美子と出会うことが無かったら、男性と結婚し子供を産み、女性として生きていったのではないかと思った。
果たして、それが自分にとって幸せなのかどうかは、今となっては、想像しても意味の無いことだった。
恋路が浜を一望できるホテルのこの部屋で私はペンを置く。
せめて、私と恵美子のことを、何か形に残しておきたい。
原稿用紙に綴ったこの話は、誰かに読んでもらう訳でも無く、何処かに郵送する訳でも無く、窓際のテーブルの上にこのまま置いておこう。
私は、この岬のホテルから恋路が浜に歩いて行く。
あの岬、あの夜と同じ月夜だ。
『遠い南の島のあの岬まで二人で手をつないで流れていこうね』
私は、僕は、そこには、いない恵美子に向かって語り掛ける。
私は、僕は、一人で、恋路が浜を歩き出す。
『名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ……』
僕が歌うと、恵美子は、微笑んで僕を見つめる。
僕の視界は、涙で滲んで、押し寄せる波が霞んで見える。
僕の後を追って、恵美子の歌声が聞こえてくる。
波の音はだんだんと強くなり、僕たちの歌声は、波に飲み込まれていく。
『今までありがとう。エミちゃん』
『優しくしてくれてありがとう』
『ごめんね。幸せにしてあげられなくて』
『そんなこと無いわ。私は、とっても幸せでした』
僕には、恵美子の声が、はっきりと聞こえてくる。
了
あの岬に帰るとき がんぶり @ganburi
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