第4話 別れ
私は、恵美子を旅行に誘う手紙をしたためた。
私は、初夏に思い切って、石垣島への旅行を計画した。
恵美子と初めてデートをしたのも梅雨明けの初夏の光の中だった。
私は、おそらく、二人にとって最後になる旅を、ゴージャスなものにしようと思った。
恵美子にすがるように誘った旅行は、私が恵美子を招待する旅だった。
恵美子は、私との旅行に同意した。
返事の手紙には、
『私も、お姉さんに言わなくてはいけないことがあります』
と、書いてあった。
私は、それが、私へ対する別れであろうことを予期した。
私たちは、羽田で落ち会い、旅客機で沖縄に行き、そこから、また、飛行機を乗り継いで石垣島へ向かう経路をとることにした。
国内線空港ターミナルで恵美子と再会した。
恵美子は、笑顔で走って来た。恵美子らしい可愛らしさは、変わらなかったが、幼さが無くなり女らしくなった印象を受けた。
「お姉さん。久しぶりっ。会いたかったわ」
「エミちゃん。元気だった? 私も会いたかった」
「お姉さん。お仕事忙しいのに、ありがとう。私を旅行に誘ってくれて」
私は、恵美子の言葉を素直に受け入れられなかったが、笑顔を絶やさないようにした。
もしかすると、この旅行により、恵美子の心が、私のもとへ帰ってきてくれるかもしれないという期待もあった。
晴天に恵まれ、機体は揺れることも無く、フライトは安定したものだった。
恵美子は、雲の下に見える海岸線や山々を見て、はしゃいでいた。
それは、出会った当時の恵美子の無邪気さだった。
そして、私たちは、南の島にある石垣空港に着いた。
それから、予約しておいたレンタカーで目的のリゾートに向かった。
海岸を走るとき、私は、豊橋でのことを思い浮かべた。
それは、寂しい一人のドライブであったが、今、私の横には、恵美子がいた。
恵美子は、ハンドルを握る私の横顔を見つめていた。
「お姉さん。運転が上手ね。とってもかっこいいわ」
「私ね。車買ったの。中古車だけど、休みの日は、よくドライブするんだ」
「へーぇ。知らなかった。私は、運転免許無いから乗せてもらうだけなの。羨ましいな」
私は、恵美子が、男と夜のドライブをしたことを思い出した。
「自分で運転するより、乗せてもらうほうが楽でいいなって思うことがあるけどね」と私が言うと、恵美子はしばらく沈黙したが、前方を指差して、
「わーっ。あれ。マングローブって言うんでしょ!」
と、声を上げて感動した。
川平を通過するとき、私たちは、マングローブを目の当たりにした。
それは、南国の象徴ともいえる自然の造形の美しさを私たちに教えてくれるようだった。
「素晴らしいね」
私は、恵美子の方をちらっと見た。
恵美子は、流れる景色を一生懸命に目で追っていた。
私が、夜のドライブのことについて触れないでいることを、恵美子は、感づいているようだった。
逆に恵美子は、私が女性らしく努力することで彼氏の一人でも出来たのかという質問を飲み込んでいるようでもあった。
リゾートに到着すると、すぐにチェックインを済ませた。
私は、今までのように『松本千里・恵美子』とサインした。
フロントで恵美子は、私がサインするのを覗き込むことはしなかったし、何も言わなかった。
私たちの宿泊するコテージ型の客室は、ビーチに一番近いところにあった。
夏休みに入る前だったので、宿泊客は、そんなに多く無く、ビーチでも、ゆっくりとくつろげる感じがした。
私たちは、早速、水着に着替えてビーチに行くことにした。
恵美子は、ピンクのビキニ、私は、紺のビキニだった。
私たちは、お互いにビキニ姿を披露し合った。
私の身体は、相変わらずマッチ棒のようだったが、恵美子は、はちきれんばかりの白い肉体をビキニで包んでいた。
私は、思わず恵美子を、抱き寄せた。
「だめ」
と、恵美子は呟いたが、私の身体と恵美子の身体は触れ合った。
久しぶりに恵美子の体温を私は感じることができた。
でも、キスはしなかった。
「さあ、ビーチに行こうね」
私は、気分を変えるように自分にも言い聞かせた。
恵美子の手を取り、ビーチに歩いて行くと、真っ白な砂浜の先にエメラルドブルーの海が広がっていた。
「素敵!」
恵美子は、私の手を離すと海に向かって走って行った。
私は、立ち止まり、恵美子の走って行く後ろ姿を見ていた。
私は、ちょっとでも手を離せば恵美子は、一人でどこかへ行ってしまうような気がした。
「お姉さん。とってもきれいな海!」
恵美子は、私の方を振り返ると、とび上がって私を手招きした。
恵美子の豊かな胸が上下に揺れ動いた。
恵美子の後方、遥か水平線を境に真っ青な空が広がり、そして、遠くの空には、灰色の雲が見えた。
その雲の下は、スコールとなり銀色の雨粒がキラキラと美しく輝いていた。
私は、スコールの雲が、これから、私たちにやって来る悪魔のように思えてならなかった。
私たちは、透き通るような珊瑚礁の海で遊び、浜辺では、寄せては返す波の音を聞きながらお互いに日焼け止めクリームを塗り合った。
私は、恵美子の背中から腰にかけて、丹念にクリームをすり込んだ。
恵美子は、安産型であった。
私は、くすぐったがり、いやがる恵美子を無視して、水着の中に手を入れて、その丸いヒップにもクリームを塗り込んだ。
私は、うつ伏せで、くすぐったがっている恵美子を、なぜか哀れに思ったのだった。
しばらくして、ハイビスカスの花のトロピカル・ジュースが届けられた。
それは、私が、オーダーしておいたものだった。
恵美子は、ストローをピンクの唇にもっていった。
そして、一口飲むと、
「お姉さん。とっても美味しいわ」と言って、微笑んだ。
私は、グラスを軽く上げてから、
「お互いに、元気で会うことができて良かったね」と言った。
私たちは、ビーチパラソルの下で、しばらく海を見つめていた。
「お姉さん……」
と、海を見つめて恵美子が言った。
「何?」
私は、知らず知らずのうちに身構えていた。
「私、手紙にも書いたけど、今、お付き合いしている男の人がいるの」
恵美子の言葉は、私の胃に重く沈んだ。
「私、その人のこと、好きになりそうなの」
「うん。何と無く分かっていた」
私は、何とか発声することが出来た。
「私、お姉さんの気持ちは、分かっている。でも、お姉さんとは結婚できない。私たち女同士だし……」
「そう。充分に分かっている」
「だから、私とお姉さんの関係は、妹と姉。それもすごく仲の良い。そうでしょ? お姉さん」
「うん……」
「だから、もう私の身体を求めないで…… 身体の関係は、もう終わりにしたほうがいいと思う」
「……」
「お姉さん、女なんだから、女性らしく、男性を愛してほしい。私なんかじゃなくて……」
さっき遥か彼方に見えたスコールの雲が、私たちの上空に来た。
南国の夕立。
そして、大粒の雨が叩きつけるように降って来た。
辺りは、暗くなり滝のようなシャワーは、私たちを襲った。ビーチパラソルに隠れるように私と恵美子は、身を寄せ合った。
私は、恵美子の肩をそっと抱き寄せた。
恵美子は、胸の谷間とともにその寂しげな瞳で私を見上げた。
私は、スコールがビーチパラソルを叩きつける物凄い音の中で、恵美子の頭を私の胸にさらに抱き寄せていた。
その夜、私たちは、リゾートのバイキングディナーで八重山民謡ショーを観た。
ショーの間は楽しく過ごせたが、それは上辺だけのものだった。
もはや、私と恵美子の心は冷めていた。
二人の会話は少なくなっていた。
そして、コテージに戻ると、いっそう、お互いに気まずくなり、それぞれのベッドで荷物を整理したりした。二泊三日の予定だったから、このまま、こんな雰囲気では辛いと私は思った。
「ねぇ。夜のドライブしない? 月夜の珊瑚の海は、きっときれいだよ」
私は、元気を振り絞って明るく恵美子に声を掛けた。
「ええ。ロマンチックね。行ってみたいわ」
恵美子は、少し微笑んで言った。
私たちは、島の反対側の玉取崎展望台に向けて車を走らせた。
他に車は、全然走っていなかったので、私たちのための道のようであった。
私は、アクセルを踏み込み、快走した。
私は、一人ドライブのときのテーマ曲にしている、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』のテープをセットした。
私たちは、その曲を聴きながら窓から吹き込む風に身を委ねていた。
恵美子は、何もしゃべらなかったが、私は、次第に気持ちの整理が出来るような気がしていた。
私たちは、車を降りて岬の先端の平久保灯台まで歩いた。
岬の最先端に立ち、夜空を仰ぐと、輝く星で天空は埋め尽くされ、見下ろせば、月の光に照らし出された青い珊瑚礁の海が見渡すことが出来た。
誰もいない岬は、波の音が聞こえてくるだけであった。
「なんて、きれいな眺め」
私が言うと、恵美子は、
「私、今度の旅も一生忘れない」と、海を見つめて言った。
「私は、エミちゃんのことを、忘れられない」
私は、そう言って、恵美子の肩を抱き寄せた。
すると、恵美子は、俯いた。
「エミちゃん。私とキスして…… 私の最後のお願い」
恵美子は、俯いたまま首を左右に振った。
私は、無理やり恵美子の唇を奪おうとした。
すると、恵美子は、私を突き放し、私を睨み付けた。
そして、恵美子が一瞬、私を嘲笑ったように見えた。
私は、恵美子を許せなかった。
「そんなにその人がいいの? 私は…… 私は、どうなるの! 私だけのエミでいて欲しい!」
強い口調で恵美子に対してものを言ったのは、初めてだった。
「だめよ。お姉さんは、女性よ。私とお姉さんは、絶対に結ばれることは無い!」
そうだ。恵美子の言う通りだ。
私には、恵美子を妊娠させる能力は無い。
でも、男に負けないくらい恵美子を愛することが出来るんだ。
「私のものになって! 永遠にッ」
私は、そう叫びながら恵美子の細い首に両手をもっていった。
恵美子の首に私の指は食い込んでいった。
恵美子は、その瞳に涙をいっぱい貯めて私を見つめていた。
私の耳から波の音は消え、ゴーッと風の音だけが聞こえてきた。
恵美子の苦しむ表情は、私の欲情を掻きたてた。
私は、恵美子をその場に押し倒し、その肉体を貪ろうとする獣のような衝動により、理性を無くしていた。
そして、気が付いたとき、恵美子は、岬から珊瑚の海へ落下していった。
私のしびれた両手には、恵美子の細い首の温もりだけが残った。
私は、その両手で顔を覆い号泣した。
恵美子を私のものにしたのに、私は、二度と恵美子の声を聞くことも、触れることも出来なくなってしまったのだった。
恵美子の白い身体が、珊瑚礁の海の中に漂う。
髪の毛が、海草のように水中に広がり、大きな瞳は、寂しそうに海底を見つめる。
恵美子の周りには、カラフルな色をした熱帯魚達が、何匹も集まっていた。
私は、コテージのベッドで夢を見た。
頭は冴え渡っていたのに、ふっと睡魔に襲われて一瞬の眠りにつく。
その眠りは、浅く短かった。
起き上がると、隣のベッドには、恵美子の荷物が見えた。
持ち主のいなく無くなった荷物。
私は、バッグから、恵美子の脱いだ衣類を取り出し頬擦りをした。
恵美子の香りがした。
再び、私は泣いた。
恵美子の下着に涙が染み込んでいった。
翌日、私は一日中、コテージで過ごした。恵美子の水死体が発見されるのは時間の問題だと思っていた私は、ローカルテレビニュースを見たり、リゾート内で何か警察の動きが起きていないか、神経を研ぎ澄ませていた。
しかし、何事も無く一日は過ぎた。
哀れな恵美子は、珊瑚礁に引っ掛かるかして海面に浮かんでこないのかも知れないと思った。
私は、髪の毛が海草のように広がって、エメラルドブルーの海中で漂う恵美子の白い身体を思い浮かべていた。
一人の人間が、忽然と、この世から姿を消した。
そして、私は、恵美子を殺した殺人者として、この世に生きている。
私は、取り返しのつかないことをした。
脱力感と放心状態の私の心は、寝ても覚めても永遠に続くのだろうと思った。
私は、恵美子を石垣の海に残し、石垣島を後にした。
豊橋に帰ってからも、テレビニュースや新聞が気になった。
いつ私のもとへ、刑事が尋ねてくるか知れなかった。
しかし、私は、犯罪者として裁かれることが怖い訳では無かった。
そのときが来れば、それが私の持ち時間の終わるときぐらいにしか考えなかった。
そして、半ば、なげやりになっていた私は、恵美子は、あのまま生きていたとしても、私にとっては、死んだのも同然なのだと自分に思い込ませた。
私から心が離れてしまった恵美子は、私の恵美子では無いのだから、この世に存在しなくても良いのだと。
しかし、恵美子への未練はあった。
最後の旅行先である石垣島で、恵美子の気持ちが再び私に戻ってくれることを期待していたのは偽りの無い事実だった。
こうなった今、もう、恵美子はいないのだから、そんな淡い期待をも持つことは許されない。
それこそが、私の後悔だった。
半年が過ぎた。
恵美子は、私と石垣島に行くことを誰にも話していなかったのだろう。
そして、私とのことも秘密にしていたに違いない。
私の手紙も全て始末していたのだ。
それは、私にとって辛い想像だったが、恵美子の失踪による捜査が行われたのなら、私の存在が浮上しないはずが無かった。
私は、恵美子とのことを、このまま、私、ただ一人の思い出にしてしまおうと考えるようになっていた。
私は、恵美子の手紙を全て集めると、小さな箱に入れた。
そして、白い猫の縫ぐるみもいっしょに入れた。その縫ぐるみは、恵美子が私にくれたものだった。
『お姉さん。寂しいときは、この縫ぐるみを私だと思って抱いてあげてね』
恵美子が微笑みながら言った言葉が思い出された。
私は、車を恋路が浜の海岸に走らせた。
伊良湖岬に来る度に私は、島崎藤村の『椰子の実』を思い出した。
『名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ』
遠い南の島から椰子の実がこの伊良湖岬まで流れてきたのか。
そして、恵美子の魂のいる遠い遠い石垣島とこの海が繋がっているような気がした。
箱は、波にさらわれて、沖の方にもっていかれた。
私は、波間に見え隠れする箱と、遥か遠く水平線上を蜃気楼の中でゆっくりと進む貨物船とをいつまでも眺め続けた。
そして、さらに半年が過ぎた。
人事異動が発表された。
私には、本社勤務の辞令が出た。
同期で本社勤務の辞令が出たのは私がただ一人であった。
私は、羨ましがられたが、本社のある恵美子のいない街は、辛い思い出の街であり、もはや、私にとっては帰るべき所では無かった。
まったく、運命とは皮肉なものだ。
しかし、この転勤こそが私の運命を変えることになったのだった。
私は、荷物をまとめた。
車は、廃車にして、豊橋でのことも全て整理した。
私は、全てをリセットして、やり直しができるような気がした。
恵美子が最後まで言っていた、
『お姉さん。女性になって……』
という言葉どおりに私は、生まれ変わることができるだろうか。
人を殺した人間が、生まれ変わる資格なんて無い。
私は、恵美子の死を一生背負って、心の中にそれを封じ込めて生きていく人間なのだと思った。
それも、いつ無くなるか知れない持ち時間を使って。
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