嬉しいときも悲しいときも1


 結斗が電車から降りたとき空はオレンジ色だった。冬は本当に日が短い。駅近くのスーパーで食材買い再び外に出た頃には川向こうの夕日は糸のように細くなっていた。結斗は買い物袋を手に純の家に向かった。

 今日は純と大学の講義が終わったら一緒に夕飯を食べる約束をしていた。正しくは「今日は」じゃなくて「今日も」だ。週の半分以上は純の家に入り浸っている。


 なだらかな坂の上。高級住宅街にある真四角の要塞みたいな家が純の家だ。子供の頃ゲームのダンジョンみたいって純に言った気がする。

 地上二階、地下一階(防音室兼、純の部屋)外観が灰色の一軒家。

 結斗は純の家の玄関の鍵を持っていたので、家主が帰っていない人様の家に勝手に上がって夕飯を作り始めた。

 結斗の母親と純の母親は中学からの友人同士。ずっと結斗と純は兄弟のように育ってきた。住んでいる世界が違う人なのに、ずっと仲が良かった。結斗の家は、ただの庶民だ。


 結斗の母と純の母が、なぜ友達になったのかは今も謎。共通点なんて少しも見つからない。母親いわく学生の頃の友達なんてそんなものらしい。

 言われてみれば結斗と純だって、ずっと一緒にいたから仲良くなった気がする。

 結斗は純の母親のことを「純のオバちゃん」なんて呼んだことがない。由美子さんだ。

 純の両親は純が大学に入学したのと同時に仕事で海外へ行った。そのとき由美子さんは結斗にこの家の玄関の鍵を預けて行った。


(つか、信用しすぎだよな。鍵まで渡す?)


 純の家についてから三十分くらい。夕飯の仕込みが終わたころ家主の純が帰ってきた。現在、純は、この広い一軒家に一人で暮らしている。


「ただいま」


 純は結斗の後ろに立ち鍋を覗きこむ。


「おかえり。台所借りてるよ」


 結斗の肩に純の顎が乗る。外気で冷えた肌と滑らかな黒髪が頬に触れた。


「おでん?」

「何だよ。文句あるなら食うなよ」

「無いよ。いい匂いだなぁって。今日は寒いし、いいね」


 ひたり、と悪戯に純の手が結斗の両頬に触れる。


「つめたい。氷みたい」


 長い指。今日、大学でピアノを弾いていた指だ。


「あっためてよ」

「ばーか。エアコンついてるだろ」

「はいはい。これ片付けていいの」

「あ、うん」


 上機嫌で今にも歌い出しそうな純は、結斗が片付けるつもりで流しに入れっぱなしだった調理器具を食洗機に入れていく。


(ちゃんと家事は出来るんだよなぁ、純)


 由美子さんは家を出て行くとき、純は結斗がいないと何も出来ないから助けてあげてと言っていた。

 だから結斗は純の家で夕飯を作るのが習慣になっていた。


 けど結斗が手伝わなくても純は家事全般なんでも出来ると思う。お手伝いさんでも雇えるような家なのに洗濯も掃除もきちんとするし、料理も多分結斗よりも上手い。

 だから実際のところ純の家へ家事手伝いに来ているというよりは、遊びに来たついでに広い台所を自由に使わせてもらっているだけだった。


 結斗の家は父親が単身赴任。母親も家でじっとしているのが性に合わないと働いている。料理はいつも結斗が担当していた。


「ねぇ、結斗。今日さ、ピアノ聴きに来てくれたのに、なんで途中で帰ったの?」


 純の言葉にびくりと肩を震わせる。

 なんで、ピアノ弾いているのに気づいてんだって内心焦っていた。別にやましいことなんて何もないのに。


 ――いや、あるわ。めっちゃ、やましいこと。


 誤作動した自分の下半身のことを思いだした。

 結斗は恐る恐る純を見る。


「ッ、よ、用事!」


 前振りもなしに聞かれたく無いことを聞かれて、結斗は言葉に詰まった。


「ふぅん。それって走って行かないといけない感じだったの? 俺の演奏途中に」


 純は背中に目でもあるんだろうか。


「腹痛かったんだよ!」


 恥ずかしくて自然と声が大きくなっていた。純のピアノを聴いて勃起しましたとか墓まで持っていく秘密だ。


「週三で、あのこってりラーメンやめた方がいいんじゃない、結斗、油っぽいもの食べたらすぐ腹壊すし」

「よくご存知で!」

「多分、なんでも知ってるんじゃないかな。結斗のことなら」

「な、なんでも?」

「なんでも」


 さらりと笑顔で口にした自信。純の口が綺麗な弧を描く。


「こ、怖いこというなよ、俺の何知ってんだよ」

「結斗も俺のことなんでも知ってるじゃん」

「それは」


 今日の昼までは、なんでも知ってると思っていた。でも、今は知らないと思っている。


「――なんでもは知らないよ」


 普通にしようと思っていたのに、おでん鍋の灰汁をすくいながら、結斗の声は次第に萎んでいった。


「大丈夫? まだお腹痛いの?」


 頭の上に、ぽんと純の手が乗った。癖がかった茶色の髪を指で弄ばれる。その手の重さの分気が重くなる。


「なぁ、純いつからピアノやってんの」

「え、頭でも打った? 四歳から」


 結斗の顔を覗き込んでいる純は、目を瞬かせた。

 結斗は純がピアノを始めた日も、通っていたピアノ教室をやめた日も知っている。

 知らなかったのは、純が、いつ、どうして、ピアノの動画配信を始めたのか、だ。


「そうじゃなくて。ずっと、人前でピアノ弾いてなかったのに、今日、弾いてたから」

「人前って、結斗の前ではずっと弾いてるよ?」

「俺じゃない人!」

「あー。確かに、それは最近」


 人の気も知らないで返事は酷くあっさりしたものだった。


「だから、純さ、プロになるんだろ?」


 真剣な目で結斗は純の目を見た。

 けれど次の瞬間、純は弾けるように笑いだした。目に涙まで浮かべているけれど、決して変なことを言ったつもりはない。


「え、俺が、プロ? ないない。あのな、結斗は知らないと思うけど、プロの演奏家っていうのは子供の頃から毎日練習続けて、コンクールとかにも出ないといけないよ?」

「それは、知ってる、けど、他にも方法なら」


 今の時代、聴いてもらう人がいてお金が貰えたらそれはもうプロだ。どんな形でも。


「あと、そもそも俺、音高も音大行ってないじゃん。英文学科の俺がなんでピアニスト?」


 昔とは違う。厳しい教室に通って言われた通りに弾いて、点数をつけて、上に行くだけがプロじゃない。


「……俺の友達、動画でお前のこと知ってたし、俺は知らなかったけど」

「うん」

「純は、その界隈では有名人なんだろ? 純の演奏聴きたいって人がいるなら、それってもうプロのピアニストじゃん」


 だから、とまとまらない気持ちを目で訴える。澄んだ純の瞳を見た。


「ゆーい」


 先の言葉を制するように名前を呼ばれた。抑揚がないけれど、すごく甘く響く声。


「な、何だよ」


 純がピアニストになる。これで、もう安心だと思った。


「どうしたの? 何か嫌な事でもあった? 俺のピアノでなんか言われたとか」

「嫌なことじゃなくて、何か、俺お前のピアノをたくさんの人が聴けるの嬉しいのに、こう、なんか変っていうか……なぁ、お前、俺の気持ち分からない?」


 喋りながら自分の頭は大丈夫か、と我ながら心配になってくる。

 五歳児だってもっとまともに自分のこと説明出来るだろう。


「結斗の気持ちねぇ」


 結斗はハッと我に返った。大学生なのに純の前だと、いつも思考回路が幼稚になる。


「あ、ごめ、別に、お前のこと責めたいとかじゃなくて、今日の演奏すげー良かったし、大学のピアノあんな音出せるんだな、知らなかった。いつも変な音だったから」

「変?」

「うん、音が、純のピアノと違う」


 いつまでたってもゴール出来ないショパンのエチュードとか、階段を途中で滑り落ちるトルコ行進曲とか。毎日あの建物の前を通るたび聴いていた。

 上手でも下手でもピアノの楽しい音が結斗は好きだ。

 けれど日常的に上手な純のピアノを聴いているからなのか、大学のピアノの音は聴くたびに背中がぞわぞわして落ち着かない気分になっていた。


「あー。あのピアノすごく古くてピッチ440Hzなんだけど、少し前までは、さらに低くて、お前わかったの?」

「なんとなく?」


「あいかわらず耳いいね、今日調律してたから、昨日よりはいい音だったと思うけど」

「……ふーん」


 ただの違和感程度のものだ。今は大学のピアノの良し悪しよりも、もっと気になっていることがあった。

 純が近いうちに、どこか遠くに行くんじゃないかって思ってる。

 こんな恥ずかしい思考回路が筒抜けになっているのか、純はニヤリと笑った。


「ねぇ、結斗」

「な、なんだよ」

「とりあえず、俺は昔から何も変わってないし、別にプロになるつもりもない」

「なんでだよ!」


 どこへでも好きなところにいって、プロとして羽ばたけばいいと思った。


「なんでって、俺、お前と遊びたいからピアノ弾いているしなぁ」

「遊ぶって、俺とやるのは、ただのカラオケだろ」

「それが、楽しいの。そうだ今度、一緒に京都駅行く? ストリートピアノ一週間だけ置くらしいよ」


 そんな情報をどこから手に入れるのか、衆人環視のなかピアノを弾きたがるような男じゃなかったのに。なぜ? いつそんな動画配信みたいな趣味を持った? 疑問ばかりが増えていく。


 結斗は気になって仕方がない。けど、どういう聞き方をしたところで、純を責めるようで言葉にならなかった。

 遊ぶのが楽しいだけなら、今までと同じで良くない?


「俺と行ってどうすんの?」

「隣で歌ってくれたら、もっと楽しいかな」

「俺のは人に聴かせるような歌じゃない、界隈から出禁になっても知らねーぞ」

「そんなことないのに、昔から結斗は、自己評価低いよね」

「俺は、別にいいんだよ。人前で歌なんて子供のときに辞めたんだから」

「飽きずに毎週毎週楽しそうにカラオケ行ってるのに? 俺と変わらないって」


 全然違うだろって、心の中で盛大にツッコミを入れておいた。

 結斗はやっぱり、急に純のことが分からなくなった。

 おでんが出来たあと、純がいる地下室に行く気になれなくて、結斗はリビングのソファーでテレビをつけ横になった。

 眠かったというよりは、ふて寝。

 気づいたら、テレビの音が頭の中から消えて、遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。

 いま純の家にあるピアノより、記憶の中の音は、もっとキラキラしていた。

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