嬉しいときも悲しいときも2
* * *
子供のころ結斗の家にはピアノがなかった。
「純の家みたいなピアノ欲しい」
「うちはダメ」
純の家が良くて結斗の家がダメな理由が分からなくて母に何度もねだった。
でもダメだった。
お金の問題じゃなく単純に住んでいる場所の問題があった。
マンションの三階。会社の社宅。小さな子供が好き勝手に楽器を演奏出来る環境じゃなかった。
それでも引き下がらなかった結斗へ母は最もらしい言葉を言い放った。
「お母さんもお父さんも、音楽やらないから無理よ」
当たり前でしょう? と真っ直ぐに目を見て言われた。確かにうちはダメかもしれないと思った。
純の家は純だけじゃなく両親ともに音楽をやる家だったから。
カエルの子はカエル。悲しいけど、将来、結斗もきっと親が好きなことを好きになるし、同じような道を進むんだと思った。
親が音楽をしていたら子供も音楽をする。親がしないなら子供もしない。音楽は選ばれた人間しか出来ない。自分には楽器をやる資格がないんだと思った。
極め付けに「弾きたいなら純くんの家で弾けばいいじゃない」と言われてしまい、ついにピアノを買う理由がなくなってしまった。
弾きたいなら純の家で弾く。
その提案は親としてどうかと思った。でも楽器が弾きたいだけなら、確かに純の家に遊びに行けば使わせてもらえた。
純の家には飛んでも跳ねても歌っても怒られない楽器の演奏が出来る部屋があった。結斗が遊びに行けば純は喜んで、いつもピアノを弾かせてくれた。
何か曲が弾けるわけでもないので音を鳴らすだけ。結斗は綺麗な音が鳴る純の家のピアノが大好きだった。
実はそのピアノは宝石の値段くらい高い代物だったのだが、その驚愕の事実を知ったのは、恥ずかしながら、つい最近。
――なぁ、そういえば昔、お前の家で遊んでたピアノってさ、どんくらいの値段だったの? 今使ってんのと違うだろ。
――今のはヤマハ。昔はスタインウェイ、あれは、いま知り合いの家にあるけど。
――何それ、ウェイ系?
――まぁ、値段聞いたら、お前、ウェイってなるかもな。
純は、楽しそうににやりと笑っただけで、もったいぶって詳細な値段は教えてくれなかった。
あとでネットで検索してウェイどころか、オエッって吐きそうになった。
子供がオモチャにしていい楽器ではない。
由美子さんが純に買い与えるのはいい。ただ、それを結斗に触らせていたのはどうかと思うし「純くんの家のピアノで遊べば?」とか言った親は、いくら音楽に興味がなくても事の重大さを認識した方がいい。
そもそも結斗がピアノを欲しがった理由は、純と一緒に遊びたかったからだ。
純はサッカーもドッヂボールもしない子だったし、結斗が好きなゲームにも興味がなかった。共通の話題が音楽だけだったので音楽が遊びになった。
小学校の音楽室の鍵は壊れていて、勝手に忍び込んで放課後自由に遊べた。もし先生に見つかったとしても純が一緒だと怒られなかったし「ピアノの練習」と言えば二人とも偉いわねと褒めてくれた。
結斗はピアノが弾けないから歌ってタンバリンとカスタネットを叩いていた。別に先生に褒められる要素は全然なかったと思う。
結斗が歌えば純は伴奏してくれたし、その時間が楽しかった。だから音楽を何も知らないのに歌うのが大好きだった。
結斗は単純だったから楽器を弾く資格は無くても歌なら良いんじゃないかと考えるようになった。
歌を習えば、純ともっと遊べるし、絶対に楽しい気がした。思ったら即行動していた。
母親もピアノを買うことは了承しなかったけれど、歌を習うことは渋々認めてくれた。
たまたま市の合唱団の子供の部で募集があり、入団テストにまぐれで受かった結斗は小学二年生から「音楽」を始めた。
テストでは「元気でよろしい」と先生に褒められて天狗になってた結斗も、習い続けるにつれて、周りの様子がおかしいことがわかった。
今ならわかるが、おかしかったのは結斗の方だった。
世間知らず。
本当の音楽は、自由に歌って奏でて楽しいだけじゃないって気づき始めた。少しの狂いも許されない。正しい音程、正しいリズム。それを機械のように練習を重ね楽譜通り再現する。
元々、男の子で歌を習っている子が少なかった上に、数少ない同じ年の男の子は、ピアノやバイオリンをやっていて、結斗は周りと話が合わずに場違いだった。
同じようにピアノをやっていても、純は結斗のレベルに合わせて話をしてくれたけれど、そこにいる子たちは、当たり前にわかることが分からないと、結斗を笑ってバカにした。
何を言われたところで、歌うことが好きだった。だからそこで友達が出来なくても気にしていなかった。
徐々に積み重なっていく違和感を無視して、結斗は習い事を続けていた。
習い事で友達が出来なくても、結斗は純と共通の話題が増えることがすごく嬉しかった。
ただ、結果として話題は増えたのに、楽しかった音楽室での二人だけの時間は、純のピアノ教室の宿題が増えるにつれ残念ながら無くなってしまった。
小学校四年生になったころ。お互いの家に遊びに行く頻度は週一くらいになっていた。相変わらず仲は良かった。でも、低学年のころを思うと、前は、もっと一緒に遊べていたのになって思っていた。
その日は、久しぶりに一緒に遊ぶ約束をしていた。結斗は自分の家にランドセルを置いてから、純の家に続くなだらかな坂道を急いで駆け上がった。手提げカバンの中には、歌の宿題を入れていた。
純の家に着いてチャイムを鳴らすと玄関で由美子さんが出迎えてくれた。
「こんにちは、純いますか?」
「あらー結斗くん。いらっしゃい。あの子、いま宿題で地下に篭ってるのよ」
柔らかで優しい声。でも、いつも美術室の絵画みたいに微笑んでいる由美子さんが、その日は何故か困った顔をしていた。
「宿題?」
「あとで、ケーキ持っていくね」
結斗の母親はケーキなんて焼かないし、家ではコンビニのケーキくらいしか馴染みがなかった。大抵「ケーキ食べたい欲」みたいなものは純の家へ行けば満たされている。
由美子さんにケーキと言われた瞬間、結斗は玄関で感じた違和感が頭から消えていた。
階段を一段飛ばしで降り地下に着く。純のピアノ部屋だ。部屋の前についてドアの隙間から中を覗くと純はピアノの前に座ってじっと楽譜を眺めていた。
(宿題ってピアノか)
鉛筆で何かをメモしながら、確認するように弾いていく。
片手ずつ。ゆっくりとフレーズごとに。
階段を途中まで降りて、また最初から。
結斗も同じような練習を歌でよくやっていた。気持ちよく最初から最後まで一気に歌わせてもらえるのは、練習日に数回しかない。基礎基本の繰り返しばかり。
純が弾くピアノの音は、いつも楽しい、隣にいるだけでわくわくする音だった。
けれど今日の音は、どこか悲しかった。初めて見る真剣な純の眼差し。少し怖いと感じた。結斗は部屋の中に足を踏み入れたのに中々話しかけられなかった。
(遊び、誘わない方が良かったかな)
けれど結斗の不安をよそに純は結斗を見るなりキラキラとした笑顔になる。カードの裏表みたい。裏返してすぐに笑顔になる。
「結斗いらっしゃい」
「宿題、邪魔だったら帰るよ?」
「邪魔じゃないよ。遊ぼう遊ぼう、何する?」
「いーよ。俺も宿題するから、歌の。だから純もピアノの宿題終わってから遊ぼう」
「分かった」
笑ってくれた純にほっとした。
結斗は黒の革張りのソファーに寝転がり鉛筆を手に取る。純の真似をして楽譜とにらめっこする。けれど、純がピアノに向き合っていたときみたいに真剣にはなれない。
純は、と顔を上げると、さっきまで周りの空気がピリピリしていたのに、鼻歌なんて歌いながらピアノを弾いていた。
楽しい、キラキラした音に変わる。結斗が大好きなピアノの音だった。
あの怖い空気は勘違いだったのだろうか。
結斗が楽譜を前にして、うんうん唸っていると、純がピアノから顔を上げて結斗を見た。
「ねー終わったけど。結斗の宿題は?」
「まーだ」
「歌、次なに歌うの? 練習するなら弾いてあげよっか」
宿題が終わったらしい純は、前に結斗が教えたアニソンを陽気に弾き出した。さっきまでと同じピアノなのに全然違う響きになる。
「メンデルスゾーン」
「え?」
急に純のピアノを弾く手が止まる。BGMが突然とまってムッとなった。いい曲が途中で終わると、なんだか痒いところに手が届かないみたい。
「だーかーら! メンデルスゾーン」
「結斗が? ちなみにそれは曲名じゃなくて作曲家の名前だけど」
「知ってる! 俺がメンデルスゾーンやってたら悪いか」
「悪くないけど、去年までアニメソングばっかりだったのに?」
「純だって、ショパンとかベートーヴェンやってるじゃん!」
「ふぅーん、じゃ、これだ」
突然、部屋のなかに結斗が知っている華やかな音が鳴り響いた。
「だれか結婚すんの?」
結婚行進曲。ジャジャジャジャーンって有名なメロディ。
ピアノ以外の楽器があるわけじゃないのに、純が弾くと他の楽器の音まで聴こえてくるようで不思議だった。
「結斗がメンデルスゾーンっていうから、あと春の歌が弾ける」
「それどうやって歌うんだよ。てか、それもメンデルスゾーンなの」
「そう。だって俺、合唱曲知らないし、何歌うの?」
「賛美歌? とかいってた。ら……うなんとかかんとか?」
「それ楽譜?」
純は、結斗が寝転んでいるソファーのところまでくると隣に座って結斗の手元を覗き込んだ。楽譜は、結斗が教室で聴き取れた階名だけが書いている歯抜けの状態だ。絶賛解読中。
「純は読めるの?」
「うん」
音がなければ楽譜をみたところで五線譜の下の歌詞しか読めない。それもカタカナで書いているから暗号文書だ。
次の練習までに楽譜に階名を書いて歌える状態にしなければいけない。一人で出来る気がしなかった。
この宿題が結斗にとってストレスだった。毎週、半端に終わらせて、周りの音を聴きながらその場で書き込んで乗り切っている。
そして宿題が出来なかった結斗を周りの生徒たちは白い目で見てくる。
こんな暗号みたいな楽譜を読まなくても、一度聴けば歌えるのにと思っていた。難しい勉強は嫌いだ。歌は好きなのに勉強すればするほど嫌いなりそう。
「なー、純、移動ド分かる?」
「結斗の口から、移動ド。固定ドじゃなくて」
「だから、それ教えて、楽譜にドレミ書くのが俺の宿題なの」
「ソルフェージュ習うの?」
「ソル? 何?」
「楽譜のお勉強。移動ドは、長調の場合には主音をドにして、短調の場合は主音をラにするんだけど」
「純、日本語しゃべって」
「日本語だけどなぁ。じゃあ、いっぱいシャープがあったら一番右にあるやつをシにする、いっぱいフラットがあったら、一番右のフラットをファにする」
「ふーん」
純は結斗が言った通り「日本語」で話してくれた。
合唱団のみんな最初からそう言えばいいのにって思った。別に楽譜の勉強がしたいわけじゃなかった。歌うために必要だったから、仕方なくしている。
もっと、いっぱい歌いたい。音楽を勉強すればするほど、楽しいが遠くなっている気がした。
「俺は楽しく歌えたらいいや、勉強とかしたくない」
「まぁ、結斗は、そうだよね」
「なんだよ、それ、俺、すげー頑張ってんだけど!」
拗ねて口を尖らせる。合唱団では、こんなふうに本音は言えない。純だから弱音を吐ける。
楽譜が正しく読めず周りからは「お前なんでいるの?」って嫌味言われて、ムカムカする。でも歌が好きだから諦めたくなくて習い事を続けている。
「うん。ちゃんと頑張ってるよ」
「……純」
頑張ってるって言われて急に目の奥がジンってなった。涙が出そうになる前の感覚。
「楽譜読めなくても、聴き取れた音は書けてるし、書いているとこはちゃんとあってたよ」
「うん」
「音を正しく聴けるのって、誰でも出来ることじゃないよ」
周りからは楽譜は読めて当たり前だって言われる。両親は音楽が分からないから、結斗の習い事には無関心だ。
それは最初から薄々分かっていた。自分の家は音楽をやる家じゃない。それに反発するように一人で音楽をする子になろうとした。
純と一緒に遊びたかったから。
純は音楽を出来て当たり前だって言わない。同じ目線で話をしてくれるから、いつだって一緒にいて居心地がいい。
純が一緒に音楽を楽しんでくれるのが嬉しかった。
どれくらい苦労して目の前の課題と向き合っているのか純は分かってくれた。純がいつもやっているように正確に譜読みするように。
ふいに涙がこぼれそうになって慌てて服の袖で目を擦った。
「どうしたの」
「目にゴミ入った」
「だったら、こすったらダメだよ」
手首を掴まれる。
「うるさいなぁ」
「目、赤いよ」
「すぐ治る!」
「そう? 結斗、とりあえず早く宿題やって遊ぼう」
「え」
純は結斗の手を弾いてピアノの前に座る。左によって隣に結斗を座らせる。
「俺、弾くから、右手が結斗の宿題の音。楽譜開いたままにしてね」
「うん」
――魔法だと思った。
結斗が知りたかった音が鳴りだす。
ピアノなのに、この前、発表会で歌いに行った教会のオルガンのような音みたい。キラキラしている。
一人で音楽をしているときはどんどん暗く淀んでいく心が、純が隣でピアノを弾くと不思議と澄んでいく。
ずっと、ざわざわとして落ち着かなかったのに、知りたい音だけが正しく聴こえた。
「出来た!」
ピアノの伴奏で歌いながら、楽譜の上に鉛筆を走らせて、純に見せると正解といって笑ってくれた。
「俺は結斗の声、好きだよ」
突然褒められて慣れていない結斗は一瞬で顔が赤くなった。合唱団の入団テストのときに「元気でよろしい」と言われたときよりもはるかに舞い上がっていた。
それを知られたくなくて子供のくせに「ケンソン」をした。
「歌が上手いやつなら、団にもっといっぱいいるよ」
「もっと自信持ったらいいのに、結斗は将来は歌手かなぁ」
そんな、ありえないバカみたいなことをいって純は綺麗に微笑んだ。その笑顔を見て結斗は心がふわふわと浮かれてしまう。
自分が歌手なら、きっと純は将来ピアニストになるのだと思った。
それがどんな大変な仕事か知りもしないのに、漠然と純の未来を想像していた。
その日は、お互いの宿題が終わったら、音楽に関係ない話をして笑いあっていた。
一年くらい前はゲームの話ばかりする結斗に純は、いつも首を傾げていた。いつの間にか結斗の好きなことも知るようになっていた。
最初は一緒にいるとき音楽くらいしか話すことがなかった。けれど本棚に新しい本をさしていくように、お互いの好きなことをたくさん知るようになった。
ある意味音楽バカだった純が人並みに子供らしい娯楽を知るようになった。
それが、結斗と一緒にいることで得られた効果なのか、正常な子供の成長なのかは分からない。けれど自分と一緒にいるときに純の笑顔が増えることが結斗は嬉しかった。
夕方になって、結斗が家に帰るとき由美子さんが玄関まで見送ってくれた。そのとき何故か「今日は、ありがとうね」と言っていた。
お礼を言われた理由は分からなかった。
結斗が家に行くまでに、由美子さんと純の間で何があったのかは知らない。
ただ、険しい顔でピアノに向き合わなければいけなかった純が、結斗が会いにいったことで元気になったのなら良かったと思う。
純はあの部屋に一人で寂しかったのだろうか。
相手もなく一人で奏でる音楽は寂しくて、どんなに好きでも、時々誰かに隣で聴いて欲しくなるから。
その日は、何となく純の家から自分の家に続く長い坂道をスキップして帰った。
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