呪いはすべて魔女の仕業ということで(結論)

 外の光をあえて遮り、人工的に暗くしている部屋は気分まで落ち込ませる。ヴァネッサは重い頭をゆっくりと持ち上げ、自室を見渡した。

 今、自分の身に起こっている状況が夢か現実なのかがわからない。


 あの悪魔が消えた今、自分に残っているのはライマーと婚約破棄をしたという事実だけだ。周りからは哀れみの目を向けられ誰ひとりヴァネッサを責める者はいない。

 スザンナはもちろんドミニクもだ。しかしすべての元凶は悪魔と契約を交わした自分にある。その事実を誰にも言えず、罪悪感で押し潰されそうになる。


『ヴァネッサさま、永遠の愛を叶えると噂の絵などライマーさまと見るべきではありません。あの絵は、ただの絵ではなく本当にカップルを強く結びつけてしまうと言われているそうです』

 スザンナはヴァネッサの侍女の前に幼馴染みであり、心許せる数少ない存在だった。

 ライマーとの結婚も表立って大きくは言わないが、ずっと反対していた。それはヴァネッサの本心を知っているからだ。


 ライマーと例の恋人同士の絵を見に行く予定になっていると話をしたらスザンナは怒って、ならば先に自分が買い取ってくるとまで言いだした。

 結局、売ってはもらえなかったようだが、自分のためにそこまでするスザンナにも事実は話せていない。


 私は、これからどうするべきなの?


「ヴァネッサさま」

 不意にドアの向こうから声がかかる。ドミニクだ。用件を尋ねると、彼はドア越しに話しだす。

「以前、その、ライマーさまと訪れた画廊から使いの少年が来ています。あなたがご覧になった絵についてお伝えしたいことがあるのだと」

 ドミニクの声には心配さが表れ、暗に断るべきかと尋ねているようにも思えた。一方、ヴァネッサの心臓は早鐘を打ち始める。


 ヨハンがやってきたのだ。彼はすべてを知っている。しかし、どういう意図なのかは、まったく読めない。


 彼は自分とライマーの結婚を信じて疑わなかった。そして自分が寝込んだせいでライマーがあの恋人同士の絵は呪われていると言いだし、画廊を訪れる人間はめっきり減ってしまったと聞いた。

 いわば彼も被害者だ。その件に関してもヴァネッサは後ろ暗さを感じていた。


 ヴァネッサはドミニクに通すよう命じ、しばらくして部屋には少年が現れた。彼は布が掛かった大きな絵を抱えている。

「ヴァネッサさま、お体の調子が優れないところを突然申し訳ありません。画廊の責任者のヨーゼフ・マーラーの孫ヨハン・マーラーです」


 ドミニクがいるからか、わざと初対面のようにヨハンは振る舞う。恭しく頭を下げる少年にヴァネッサは固い表情で尋ねた。

「お伝えしたいこととはなにかしら?」

「実はヴァネッサさまとライマーさまがご覧になった絵は呪われていたのです」


 呪いという言葉がヴァネッサの胸に突き刺さる。同席しているドミニクも驚きが隠せないでいた。なんの話かとしらばくれようにもヨハンの表情も声も真剣そのものだ。


「魔女に呪いをかけられていたと突き止めたんです。見た者の心の奥に秘めている欲望を引き出す力があるのだと」


「秘めている……欲望?」


 ヨハンの口から語られた内容は予想外のものだった。画廊で明らかになった真実とはまるで違う。しかしヨハンは確信を持って話を続けていく。


「それをさらけ出させて、こじれる人間関係を魔女は楽しんでいたんです。そんなもののために傷つく必要はありません」

 悔しそうに顔を歪めた後、ヨハンはヴァネッサをまっすぐに見据えた。


「ヴァネッサさまとライマーさまの間になにがあったのかは存じ上げませんし、差し出がましいのも重々承知しています。ですが、魔女の呪いに踊らされることはありません。どうかもう一度」

「ヨハン」

 小さくも凛とした声が響く。つい先ほどまで、なにかに怯えていたヴァネッサは人が変わったように、迷いのない表情をしていた。


「他者に言えないような欲望を抱くのは、自分ではどうしようもなかったりするのよ。でも、それは悪いことなのかしら?」

 問いかけというよりヴァネッサは自分に言い聞かせていた。

 なにかを壊してしまった罪悪感にずっと押し潰されそうだった。けれどそれは自分を偽ったうえに成り立っているまがいものだ。


 すべて受け入れていると思っていて、本当は逃げていたのだ。ライマーは他の女性に手を出すのをきっとやめない、やめられない。おそらく結婚したとしても。

 だから見て見ぬ振りをするのが一番だと思っていた。ドミニクを想う気持ちも蓋をして隠し通そうとしていた。けれど、けっしてなくなったりはしない。消えたりしない。


「呪いはきっかけだった。人々に同情されている不幸は、長い目で見れば幸せのはじまりなのかもしれない」

 必死で取り繕った先になにがあるのか。小さな綻びは、どこかで大きな歪みになる。どちらにしてもライマーとの結末は変わらなかったのだ。

 それが今か、もう少し遅かったかだけ。


 そしてスザンナやドミニクと接して思った。他者を気遣う気持ちは大事だが、なによりも自分の心を一番大切にしなければ。偽ってばかりでは、自分を思ってくれている人たちに対しても失礼だ。


 その結論に至り、憑きものが落ちた気分でヴァネッサは、やっと今の状況を受け入れられた。すると少しだけ余裕が生まれる。ヨハンの持っている絵を気にするほどに。


「その絵はどうしたのかしら?」


 突然の質問にヨハンは慌てた。その仕草は年相応の少年らしく、ヴァネッサの気が緩む。ヨハンはたどたどしく持ってきた絵の布を払い、ヴァネッサに中身を見せた。


「例の絵は処分しました。これはお詫びと言ってはなんですが、僕がヴァネッサさまのために選んだ絵です」

 持ち運びできるほどの大きさの絵には、やはり男女が描かれている。十才くらいの少年と少女だ。

 少年は後ろ手に花を持っていて、今から目の前の少女に渡そうとしている。少女は期待に満ちた笑顔だ。

 少年の目論見に気付いているのか、それとも純粋に彼の次の行動を楽しみにしているのかは定かではない。


「素敵ね」

 見ているだけで心が和む。自然と漏れた感想にヨハンが嬉しそうに頷いた。

「ありがとうございます。作者は身分や家柄など関係ない子どもの純粋な愛を描いたそうです」

「……そうなの」

 説明を聞いて、ヴァネッサはちらりとそばで控えていたドミニクに視線を送る。同じように絵を眺めていた彼がこちらを向き、ふと目が合った。


「あなたが好きそうな絵ですね」

 ドミニクが感想を漏らし、ヴァネッサは目をぱちくりとさせる。

「……わかるの?」

「ええ。なんとなくですが、あなたのことはだいたい。ずっとそばにいますから」

 にこりと微笑まれヴァネッサはなんだか泣き出しそうになった。ならば絵のモデルたちに幼い頃の自分とドミニクを重ねていると彼は気づいているのだろうか。ヴァネッサの気持ちも。


 もし気づいていたとしてもドミニクからはけっしてなにも言ってはこない。彼の立場もある。ならこちらから動かないと。

 ヴァネッサはヨハンに視線を移した。


「この絵、売ってくださる?」

「いえ、これは」

 元々、ヴァネッサのために祖父が目利きした絵の中からヨハンが選んだものだ。献上するつもりで売買するつもりはない。しかしヴァネッサは強く言い切る。

「正規の値段を仰って。この絵のためにも。そしてせっかくならしばらく画廊で飾ってくださるかしら? ひとりでも多くの方に見ていただきたいから」


 ヴァネッサの心を慰め、気に入った成約済みの絵だと謳って飾れば、それを見ようと訪れる者もいるだろう。客足を取り戻すチャンスにもなる。

「わかりました。ありがとうございます、ヴァネッサさま」

 深々と頭を下げる少年にヴァネッサは微笑む。


「お礼を言うのはこちらの方よ。それに……こんなことを言ったらあなたは気を悪くするかもしれないけれど、少しだけ感謝してるの。その絵に呪いをかけた魔女さんに」

 ヨハンはなにも言わず曖昧に笑う。当然の反応だ。


 ところがヴァネッサの予想に反し、ヨハンは『実は僕もなんです』と答えそうになるのをすんでのところで飲み込んでいた。

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