魔女として貴重な見せ場がやってきました
ライマーが自宅でヴァネッサに浮気現場を目撃されたときの流れにシャルロッテは引っかかりを覚えたのだ。
「どうして彼女は鐘を鳴らさなかったのかってね」
シャルロッテが初めてライマーの館を訪ねたときには、来訪を告げ家の者を呼び出すための立派な鐘があるのを確認している。しかしヴァネッサはそれを使わなかったのだ。
会う約束していたのならまだ理解できる。しかしヴァネッサ自身も思いつきで訪問したと言っていた。
体調の悪いライマーを気遣ったのかもしれないが、それなら控えめに鳴らせばいい話だ。あえて玄関のドアを小さくノックしたのは、どういう意味があったのか。
「彼女は自分の訪問を気づかれるわけにいかなかったのよ。悪魔に指示されたあのタイミングでライマーに悟られることなく現場を目撃する必要かあったから……違う?」
フィオンとのやりとりで気づき、ヘレパンツァーからの報告を受け、ますます確信を強めた。話を振られたヴァネッサはどこかすっきりした表情をしている。
「あなたの言うとおりです。鐘は鳴らすな、と指示されていたので」
ヴァネッサは始まりを思い出しながら静かに答えた。
ライマーとこの恋人同士絵を見に行った日の夜、黒く恐ろしい存在が目の前に突然現れた。
叫びたくても叫べない。そんなヴァネッサに悪魔は直接脳に働きかけるようにしてぶっきらぼうに事情を説明しはじめた。
その口調や声色が外見に反し、温かみがあったのでヴァネッサはなんとか気を失わずに話を聞けた。
なんでもある男との契約に失敗した代償として額縁に封印されてしまい、絵を見た者を魅力する役割を負わされ長い間過ごしてきたのだと話す。
そんな折、ヴァネッサが絵ではなく額縁を褒めたため、ようやく中から出て来られたと説明され、さらには封印を解いた者の願いを叶えることが完全な自由を得るための対価になっているから早く願い事を口にしろと迫ってきた。
事情を聞いているうちにヴァネッサは少しずつ悪魔の外見に慣れ、話が終わる頃にはそこまで恐怖を感じなくなっていた。
悪魔が淡々と語る中で、わずかにヴァネッサへの感謝を滲ませているのも伝わり、警戒心が徐々に溶けていく。
半信半疑で、起こっている出来事が夢にも思えた。だから思わぬ本音が口を衝いて出たのだ。
『穏便に……ライマーさまとの婚約を解消したい』
ライマーは自分になど興味もないし愛してもいない。すべては己の地位と家のために結婚するのだ。
それはヴァネッサも同じだった。覚悟は決めている。けれどずっと傍で自分を見守り励ましてきたドミニクの存在がどうしても決意を鈍らせる。
憧れにも似た恋心はけっして実りはしない。わかっているのに、願いを口にしてヴァネッサは激しく後悔した。
しかし訂正しようにも悪魔の姿はそこにはなく、改めて自分の本心が恐ろしくなる。
夢ならそれでいい。寝込んだヴァネッサをライマーからも心配する声が届いたが、とても会う気にはなれなかった。
「この絵が呪われているからではなく、逆に呪いを解くきっかけとなった女性の望みを叶えて今回の件が起こった。これがおそらく真相よ」
シャルロッテの説明を聞いたヨハンは愕然とする。この絵に関する問題を解決すればどうにかなると望みを託していた。
呪いなど存在しないと証明できれば、またみんなが幸せになるのだと。ライマーやヴァネッサの仲でさえ……。
「そう悲観的な顔をしなくてもいいでしょ。結局、あなたはなにも失っていないんだから」
項垂れるヨハンにシャルロッテが声をかけた。そこにヴァネッサが口を挟む。
「絵を、いえ。額縁を処分しないとならないんです。そういう話だって……」
慌てた口調で訴えかける。すべての事情が明らかになった今、下手に取り繕う必要もないのだろう。
「真に解放されるためには封印されていたものを破壊するっていうのは定番よね」
シャルロッテがヨハンに確認を取る。シャルロッテの指示でこの絵を飾ると噂を流したが、本当のところもうこの絵を画廊に飾るつもりはなかった。
「では、最後に魔女の腕の見せ所。今回の元凶となった黒き存在をここに呼びだしましょうか」
「呼べるのか?」
尋ねたのはヘレパンツァーだ。封印は解かれ額縁にもほぼ気配はない。シャルロッテは両手の指と指を交互に絡め、軽く動かして調子を整える。
「まだ完全に解放されていないから額縁の破棄を指示したんでしょう。召喚者であるヴァネッサもここにいるし。それに念のため画廊の周りに魔法陣を描いておいたの!」
ウインクひとつ投げかけ得意げに胸を張る。フィオンとこの近くで再会したときだ。画廊の周りをうろうろしていたのはこのためだった。
シャルロッテは深呼吸をした後、ゆるやかに右手を上げ低い声で唱えだす。
「【勝者すなわち宣誓者。パスカルの賭けに挑みし青年。彷徨さまよいしビュリダンのロバ。誰も彼もが今こそ叡智の刃に誘われよ】」
わずかに空気が振動したのが伝わる。一瞬、すべての音が消えたかと思えば、絵の前に異形の姿をした黒き存在が現れだす。
蜥蜴のような体つきにぎょろりとした大きな瞳、鶏の嘴に似たものを持ち、全身が浅黒く燃えていた。
明らかにこの世のものではない外貌に圧倒され、ヨハンはその場にへたり込んでしまう。
「心配しなくても見た目ほど悪いものじゃないわ。私は紫水晶の魔女シャルロッテ。あなたが欲しいのはこれでしょ?」
シャルロッテは飾られている絵に遠慮なく手を伸ばした。ヨハンをちらりと見るも、彼は悪魔の恐ろしさに震えている。
額縁は重厚で、想像以上の重さが手のひらにずっしりと伝わる。その場で落とさないようシャルロッテは慎重に絵の向きを変えた。そのとき色のついていない裏側を初めて目にする。
“
続けて右下にある作者のサインを確認した途端、紫色の目が大きく見開かれ、手を滑らしそうになる。反射的に力を入れ直し難は免れたが、シャルロッテは内心で肩をすくめた。
これも縁なのか。この絵に対する既視感にも似たぼんやりとした靄の正体がようやく判明した。しかし今、それは重要ではない。シャルロッテは両手で額縁の端を持ち、絵ごと悪魔の方に放り投げた。
「ほらっ。もう下手なことをして封じられないようにね」
次の瞬間、闇が画廊を包み込み爆発を思わすほどの強い風が舞い上がった。そして静まり返った画廊は、なんの変哲のない空気に包まれる。
異形の者の姿は当然なく、ずっとギャラリーの一番いい位置に飾ってあったあの恋人同士の絵は今度こそ綺麗に消えていた。
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