悪魔は人の姿で騙すのに長けているそうです
ヴァネッサは今日もほとんど食事に手をつけず、ベッドに身を沈めていた。カーテンを締め切っているので時間の感覚がよくわからないが、今が夜なのはわかる。
勝手にあれこれ思い巡らせる思考回路を強制的に遮断するため、目を強く瞑った。そのとき部屋に控えめなノックが響く。
リズムだけで相手が誰かわかり、ヴァネッサはゆっくりと目を開けてから体を起こした。
手櫛で髪を整えながら小さく返事をすると扉が開き、男が台車を押して入ってくる。
「ご加減いかがですか、ヴァネッサさま」
背が高く長い髪をうしろでひとつに束ね、給仕服を身に纏っている。やや浅黒い肌に吊り上がった瞳は一見すると無愛想な雰囲気だが、根は心優しい青年だ。
「……ドミニク」
名前を呼ぶヴァネッサの声にも顔にも安堵感が表れる。台車には紅茶のセットが乗せられ、ドミニクは慣れた手つきで支度を始めた。
幼い頃からこの館に仕える彼は、年の近いヴァネッサの身の回りの世話をしていた。しかし年頃になると、そういうわけにもいかない。
ふたりの接する機会は年を重ねるごとに減っていたが、ヴァネッサにとってドミニクは心許せる数少ない人間のひとりだ。
「ライマーさまとの件は非常に残念ですが、いつまでも気落ちしていたらお体を壊します」
ヴァネッサはシーツをぎゅっと握り、うつむき気味になった。
「わかっているわ。でも、こんなことになるなんて……」
肩を震わせるヴァネッサの感情は悲しんでいるのか、怒りなのか。
「スザンナは大丈夫?」
思い出したようにヴァネッサはドミニクに尋ねた。
スザンナはドミニクの妹でヴァネッサの侍女だ。快活でよく気がつきドミニクと共にヴァネッサに幼い頃から仕えている。両親を含めヴァネッサの家族に仕え、その信頼は厚い。
「まったく……スザンナよりあなたですよ。彼女もあなたを心配していました」
ドミニクは手際よく紅茶を淹れる準備をしていく。ヴァネッサの好きなカモミールティーだ。
「スザンナにはずいぶん迷惑をかけてしまったわ。……全部、私のせいで」
ぽつりと呟かれた言葉にドミニクは思わず手を止めた。
「あなたはなにも悪くありません」
すかさず否定すると、ヴァネッサは顔を歪めて首を横に振る。
「いいえ。私が……」
「ライマーさまに、会いに行かなければよかったと?」
ドミニクの問いかけに、ヴァネッサはびくりと反応する。知らなければ、会いに行かなければ、ふたりは婚約したままだった。
「ライマーさまには心配をかけたから……。ずっと会っていなかったし、調子も少しだけよかったから散歩がてら近くに寄ってみたの」
会う約束もしていないが、ヴァネッサは侍女のスザンナを連れてほぼ思いつきでライマーの館を訪れた。
「玄関のドアを小さくノックしたけれど反応がなかったから。せめて誰かに託けをお願いしようとドアを開けたら……」
婚約者が別の女性に迫っているところだった。慌てて弁明するライマーの言葉が耳を通り過ぎ、自分の身に起こっている出来事が信じられない。
一緒に行ったスザンナも目撃してしまい、彼女はショックで泣き出した。
義理堅いスザンナはすぐにこの件をヴァネッサの代わりに彼女の父親に報告した。あまり感情を顕わにしないヴァネッサに寄り添い、ライマーに腹を立て悲しんだ。
心優しいスザンナを巻き込んでしまい、それが逆に申し訳ない。
「ヴァネッサさまが責任を感じる必要はありません。スザンナは本当にあなたが大好きなんです」
ドミニクはそっと紅茶のカップをヴァネッサに差しだす。ヴァネッサは困惑気味に笑って受け取った。
「お父さまは憤慨なさって、さっさと婚約破棄を申しつけるし、こんなあっさりと世界が覆るとは思いもしなかったわ」
ライマーの手癖の悪さは、彼の父親も見て見ぬふりをしていた部分があった。
おかげでヴァネッサの父親からの婚約破棄の申し出に上手く取り繕えず、立場的にも彼女の父親の意思を優先せざるを得ない。
息子とはいえ下手に庇い立てをすれば次は自分の身分さえ危うくなるかもしれない。
紅茶の湯気の香りを楽しみ、ヴァネッサはほっと一息つく。
「私、とんでもないことをしてしまったのね」
「またあなたには相応しく素敵な男性が現れますよ」
ドミニクはポットとカップを残し、部屋を出る準備を整える。
「では、私はこれで失礼します」
「ドミニク!」
今日一番のヴァネッサの声量にドミニクは目を見開いた。ヴァネッサ自身も驚き、慌てた口を押さえる。
「どうされました?」
「あの、さっきスザンナが私のことを好きだと言ってくれたけれど……あなたは?」
ぎこちなくもヴァネッサの瞳は必死さが滲んでいる。突然の質問にドミニクは目を瞬かせたが、ややあって柔らかく微笑んだ。
「ええ、私もスザンナと同じ気持ちです」
それはどういう意味なのか。もっと詳しく尋ねたい。彼の本心がヴァネッサは知りたかった。
しかし言葉が続かず、唇を噛みしめる。ドミニクは深く追及せず、微かに口角を上げ、ヴァネッサの頭に自分の手のひらを乗せる。
「おやすみなさいませ、ヴァネッサさま」
「……おやすみなさい。スザンナにもよろしく伝えておいて」
短くやりとりを交わし、ドミニクは台車を押して部屋を出た。薄暗い廊下に今は人の気配はない。
ドミニクは手で顔を覆うと、ゆっくりと息を吐く。その瞳は燃えるように赤く、ドミニクのものではない。やがて彼の姿は黒い霧となり、次第に闇に溶ける。
どういうことなんだ?
これがシャルロッテの言っていた気持ち悪さなのか。なんとも妙なやりとりだったと振り返り、ヘレパンツァーはシャルロッテの元へと戻る姿勢をとった。
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