S.S.No.7「遺された想い」
どんよりとした空、湿った風が吹きぬける薄暗い座敷。
蠟燭の火だけが揺れる室内には、仏壇に向かって語りかけている老人の姿があった。
「なんで、お前が先に逝くのかねえ。お前さえ居てくれたら、わしは、家事なぞせんでもよかった」
老人はそれに、と言葉を繋ぐ。
「お前は何でも知っていた。わしは何も知らんというのに。お前は立派な人だったよ」
くわあんと鐘を叩く音が部屋に響いた。
その直後、開いた窓から雨音が聞こえてくる。
老人は徐々に大きくなってくる雨音を聞きながら、窓を閉めるために立ち上がる。
そして、焦った様子も見せずに窓を閉めると、窓越しに空を見上げた。
薄くなった髪、眉間に寄った皺、だらしなく伸びた顎鬚、それぞれが今の老人を体言していた。
しかし、その双眸は昔と変わらず、今も彼特有の光を湛えている。
「わしは、生きとるぞ」
老人は呟く、空に向かって。
その昔、老人をまだ青年と呼べる時代、国は戦の最中だった。
強奪、略奪は当たり前、人通りの少ない裏道を通れば、道の端には死んでいるのかもさえ判らない、痩せ細った人達が座り込み、時に折り重なるようにして倒れていた。
時は夕暮れ。生きている人間も、死んでいる人間も、全ての物が赤く染まるそんな時間。
「今日の配給はまだか」
「ああ」
そんな道の真ん中を、二人の青年が腰に日本刀、背には銃を携え、言葉数少なく歩いていた。
二人とも眼光鋭く、周囲に注意を向けながら、青年らの所属する部隊の駐屯地へ向かっている。
もう間もなく駐屯地に到着しそうになった頃、彼らの背後から音もなく一人の人間が走ってきた。
一人の青年がそれに気づくと、後ろを振り向く。
その瞬間、彼の目に映ったのは、ぎらぎらとした目をした男が、包丁を隣にいる青年の背に突き立てた姿であった。
悲痛な呻き声をあげながら倒れる青年を横目に、彼は腰の日本刀を抜き、一刀のもとに男を切り捨てた。
「これも御国のためだ」
サッと、血が滴る日本刀を拭くと鞘に戻し、赤い水溜りの中、芋虫のようにのた打ち回る男を一瞥した後、隣にいた青年に声をかける。
「しっかりしろ」
痛みで声も出せない青年に肩を貸し、半ば引きずるような形で駐屯地まで担ぎ込んだ。
青年を救護室まで運んだ彼は、救護室から出ると、到着した配給に並ぶ人の行列を見てため息をつく。
配給の芋の僅かな量の違いで、殴り合いの喧嘩が起こる。
そんな、いつもと変わらない光景を横目に、配給を受け取ると、ただ黙々とそれを口に運んでいく。
味がない訳ではないが、かなり薄く、ただ空腹を満たすことだけを考えられて作られた配給。
しかし、「まずい」という一言を呟けば、それで今日の食事が終わってしまう。
それは、餓えている者が、そう呟いた者の食事を奪う事が、目に見えているためである。
人々は、極限に近い状況の中で、苦しみを耐え忍んで、生きていた。
小学校に赴いた際に、老人はこう言った。
「あの頃は辛かった。毎日毎日が死との隣り合わせ。食事も満足にありつけず、暖を取ろうにも、配給の木炭もなかなか回ってこない始末。しかし、わしらは懸命に生きようとしてきた。ようやく手に入れた平和の価値を、決して忘れないで欲しい」
子供達に伝わったのかは分からない。
しかし、老人は自分にできる事を、ただ為していくだけであった。
老人が青年だった頃、彼も人並みの恋愛をしていた。
相手の女性とは、生涯付き合っていくことになるのだが、その時の彼らに、そのことを知る由はなかった。
彼と彼女が会える時間は限られており、二人とも日々急かされる時間の中、時間を作り合う日々を送っていた。
彼は、彼女の生活の苦しさを知っている為、同じ職場の人々の目を盗んで持ってきた配給を、彼女に渡していた。
「いつもすいません」
彼に向かって頭を下げる彼女。
月夜、川原にいる彼らは、微妙な距離を開け二人並んで立っている。
「気にするな。わしが勝手にしてるだけだ」
ぶっきらぼうに言う彼。
しかし、彼女は微笑を浮かべていた。
「やはり貴方は、優しいですね」
そういうと彼は、照れ隠しの為か、うるさいと言い、川の流れに目を向ける。
「あの、これをどうぞ」
彼に不意に声をかけた彼女の手には、両手に納まる大きさの風呂敷袋が乗せられていた。
それを受け取った彼が、黙って包みを解くと、そこにはおむすびが二つ入っていた。
「これは、どうしたんだ」
「今まで貰ってばかりでしたから。気持ちばかりのお返しです」
微笑みを浮かべる彼女に、彼は眉間に皺を寄せて言う。
「最近、米は配給でもなかなか配られないのではないか」
彼女は驚いたような表情を浮かべて、少し困惑した表情を浮かべた。
「やはりばれてしまいましたか。でも、貴方にちゃんとした物を食べてもらいたくて」
彼はおむすびを一つ取ると、お前も食え、ともう一つを乱暴に彼女に押し付けた。
そして、おむすびを口に運ぶと小さくすまない、と呟く。
そんな彼に対して、彼女は微笑みを浮かべると、彼の腕に抱きついた。
「な、なんだ」
そう驚く彼に、彼女は何でもありません、と言って共に空に浮かぶ月を見上げる。
「早く平和な世の中になって欲しいですね」
「ああ、そうだな」
彼らはそんな世界を望みつつ、荒れた時代を生きていた。
老人は書斎で机に向かっていた。
自分にできる事は何か。
それを見つけることが出来なかった老人は、自身の記憶を頼りに、戦時中の様子を出来るだけ詳細に記録し始めた。
老いぼれた頭では、どこまで記録できるか分からないが、それでも忘れてしまう前に、少しでも多くのことを記録しておこうと考えたのだ。
老人が居なくなっても、この記録が次の世代の人に戦争の事を、語り続ける事を信じて。
ある日の夜中、突如警報が彼らの住む地域に鳴り響いた。
人々は防空壕に避難し、警報が解除されるまでの間、じっと恐怖に耐え待ち続けた。
警報が解除されても、一時間後には再度警報が鳴り響く。
人々が本当に心休まる時間は、この世の中にはほとんど存在していなかった。
そんな生活を送っていたある日、彼らの国は終戦の時を迎える。
人々戦争が終わった事を喜んだ。
しかし、彼らの国は負けた。
その後、人々の生活は本当の苦難の連続であった。
闇市に人々は群がり、苦しみから逃れる為に、酒や薬物に溺れる人は珍しくなく、時に工業用アルコールにまで手を伸ばし、失明するものも出る始末。
人々の中には、現実から目を逸らす者が確かに存在していた。
しかし、大多数の人々は現実に嫌でも向き合い、生きる事を選択した。
その頃、彼は所属している部隊の解散と共に、以前の生活の中に身を投じる事が決定していた。
戦争が生んだ悲しみを、彼は後に知ることになる。
「戦争が終わった時、私の家族はすでにおらず、私は一人で生きていくことを余儀なくされた」
老人はそう原稿用紙に書き綴った。
そして、握っていたペンを置くと、仏壇の前に向かい、妻の写真に向かって話しかけた。
「お前がおらんかったら、わしはあの時、野垂れ死にになっとっただろう。あの時、お前がわしと共に歩むという選択をしてくれた事。感謝している」
老人は少し恥ずかしそうに、そう言った。
お前が生きている間に言ってやれなくてすまないとも。
その時、壁掛け時計が鳴り響いた。
老人は時計に目をやると、よっこいしょ、と言う掛け声と共に立ち上がった。
「さて、そろそろ晩飯を作るとするか。今日はお前の好きだった栗飯を作ってやろう」
そう言うと老人は台所に立ち、妻との思い出を辿る様に、調理を始めた。
長年付き合ってきた老人だからこそ分かる。
彼の妻がどのような考えを持って生きてきたか、そして何を望んでいたか。
彼の妻は、何より平和を望んでいた。
そして、老人と生きる事を望んでいた。
彼女がいなくなった今、彼は、彼女の願いを後世に残す為に生きている。
これは彼なりの彼女へのお返しであり、そして彼が今を生きる希望となっていた。
老人はことり、とペンを置いた。
そして目を細めて、書いた文字に目を通していく。
「ようやく書きあがった」
書斎の机の上には、老人生きた時代の記録が、積み重ねられていた。
この記録が、息子や孫を通じて、平和を望む心を育んでくれる事、そして戦争のない世界を作る手助けになることを彼は祈る。
これが彼と彼女、そしてその時代を生きた人々の、遺された想いである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます