脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入る。毎日繰り返している動作なのに、緊張が抜けきらない。ドアを開けると、ホカホカと温かな空気が私を迎える。蛇口をひねってシャワーを出す。まだあたたかい。そりゃそうだ。先客が入ってから五分も経っていない。

 温かなお湯が肌を流れる。雨に降られて冷えた体が、少しずつ温まっていく。

 ...雪乃は今、何をしているのだろうか。こまめに片付けをしているから見苦しくはないと思う。が、最近掃除ができてない。埃っぽくないだろうか。

 ...ヘンなコトを、してないだろうか。

 それを思考した瞬間、体温が何度か上がった気がした。顔が熱くなっているのを感じる。なんてことを考えているんだ私は。雪乃のことを何だと思っている。色んなところに失礼だ。

 やめだやめ。頭の使わない作業をしていると変なことを考えてしまう。さっさと上がろう。







「あ、お帰り、優。予報見る感じ、あと二時間ぐらいでやむらしいから、その時間までいていい?」


「わかった」


 しばらくは居座るつもりらしい。言われなくともそうしていたが、向こうから言い出してくれて助かった。...私は、彼女と話さねば、いや、彼女に言いたいことがある。だから時間があることは望ましい。うまく言えるか分からないけど、最悪の場合は流れを切って直接言おう。そうしよう。


「こっち、来て。髪乾かしてあげる」


「あ、うん」


 ...うん?今なんて言ったコイツ。髪を、乾かす?つまりそれは、かなり近づかないといけないのでは?それは、いろいろと不味いのでは?


「ほら早く」


「う、うん?」


 うんじゃないが私、きちんと断れ私。ほら言え。やっぱりいいよって。去年何度も言っただろう。「私はいいや」って。考えてたら悲しくなってきた。まあいい。断れ私、今すぐに。








「こうするのも、なんだか久しぶり。髪を乾かすのは初めてだけど」


「う、うん」


 駄目だった。昔からこうだ。雪乃に関しては、断れたためしがない。


「前はこんなかんじで、髪を結ったりしたよね」


 そうだね。と半ば諦めながら言葉を返す。自分から言い出すだけはあって、その手つきはなれたものだ...やったことがあるのだろう...誰に?少し気になる。

 雪乃はこうやって髪を触るのが好きだった。自分が短めだから、長い私の髪を触るのが楽しいのだろう。嫌いではなかった。...それは、今でも。


「優の髪ってサラサラだよね。羨ましい」


 乾かし終えた髪をいじりながら、会話を続ける。指が少し首にかすったりして。少しくすぐったい。


「それはそうと、さ」


 気付けば。

 髪を触っていたその手は私の体を掴んでいて、


「私に何されたか、覚えてないわけないよね」


 私の貧弱な筋力では、抜け出すことがかなわないほどの力で拘束されていた。


「うん」


 忘れるわけがない。あの日、春休み最後の日に、私は、


「キスされた」


 今、どんな表情をしているのだろう。顔は見えない。でも、あんまり楽しい顔はしてないように思う。


「始めたのは、私から、だよね」


「うん。春休みに入ったその時に」


 確かその時は、何とかとかいう芸能人が、同性との交際を発表したニュースが話題になっていた。そのニュースを見ていた時に、彼女は言った。


『私たちも付き合おうよ』


 と。

 その時の私は、特に深く考えもしなかった。日ごろから、「恋人がほしい」という話はよくしていたから。

 私は。「いいよ」と二つ返事で承諾した。恋人ごっこのつもりだった。向こうもそうだと思っていた。あの人気者の雪乃が私にその相手役を頼んだ。というのに優越感を覚えもした。

 それが間違いだったと気付いたのは、少ししてからだった。

 初めは、ただの友達の延長のようだった。しいて言えば手を繋ぐようになったぐらいで、存分に恋人ごっこを楽しんでいた。でも、


「私がキスしてから、私を避けるようになった」


 怖かった。性欲を向けられるのが


 だから


「あんたの、せいで」


 文句が、ある。いくつもある。

 冷静になろうとしても、フィルターをかける前に口は言葉を紡ぐ。


「私がどうなったと思っているんだ!」


 返事は、無い。まず私に全部言わせようとしているのだろう。ならば遠慮なくいこう。


「女の子に会うたびに、思い出す。あの日の感触を、あの日の恐怖を!忘れようとしてもできなくて、会うたびに動悸が激しくなる!呼吸が浅くなる!人が怖くて、一人になって!寂しかったんだよ!」


 ずっと誰にも言えなかったことを、吐き出す。


「どうしてくれるのさ。あんたのせいで、私は普通だったのに!」


 普通、だったのだろうか。私は。あんな感情を生み出す時点で、いや、やめよう。


「責任取ってよ」


 考えてもいなかったその言葉が、私の口からこぼれ出た。

 一度出ると、驚くほどにストンと納得できた。ああ、なんだ。私は、責任を取ってほしかったのか。


「私を、こんなにした、責任を、取ってよ!」





「わかった」


 私の放った言葉の余韻が消え去った後、雪乃はそう口にした。

 抑えられていた四肢が解放され、自由を取り戻す。


「...ごめんね」


 ...は?

 なんでよ。何でこんな簡単に受け入れられるんだ。私に断られるだなんて微塵も思っていないような顔をしていたくせに。いつもわがまま言って私に言うこと聞かせてきたくせに、何で今日は受け入れるんだ。


「じゃあね」


 体温が背中から離れていく。そうじゃないだろう。笹原雪乃は。そんなんじゃ、



 ガチャリ。と扉が閉まる音がする。

 数秒遅れて彼女が雨の中出て行ったことに思い当たり、体を浮かせる、が。


「なにを」


 別にしなくてもいいじゃないか、そんなこと。私は親切心で家に招いたのに。それを台無しにしたのは雪乃じゃないか。


「くそ...」


 首を振った時に広がった髪の毛は、心なしかいつもより綺麗だった気がした。

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