第7話:逢魔が時のあとには
鎮痛剤と湿布の入ったレジ袋を持ち直すと、腕の筋肉と関節がずきりと痛んだ。
「いだだだだ……! あのクソアマ、ようやってくれたわ」
夜の藍色が夕暮れ空をだいぶ西の方へ押しのけた頃。あや子は怪我の痛みに身を悶えさせ、そんな悪態をつきながら病院からの帰路についていた。突き落とされて転がり落ちているさなか咄嗟に受け身をとって石段の横の茂みに身を投げたのが幸いして、ねん挫と打撲で済んだ。
しかし怪我の痛みは確実に彼女の行動に支障をきたしていた。いつもなら十分前後でたどり着くところを倍の時間かけて駄菓子屋まで戻ると、出るとき締め切ったはずの雨戸からわずかに灯りとテレビの音らしき話し声が漏れていた。
「てまり! 開けっぱにすんなって何度言うたら分かんね……や……」
いつもの調子で店の中に怒鳴り込むが、真正面にいたのは今にも不安に押しつぶされそうな顔をしているみなとだった。その横ではてまりが売り物の菓子を持ってきて彼を慰めるようになにか話しかけていた。
「お、あや子。早かったな」
「……あや子、さん?」
怒鳴り声に驚いたのか、はっとした表情でみなとは彼女の顔を見る。涙のあとだろうか、そのくっきりとした二重の目の端は少し赤くなっていた。
「……み、みなと君? なにしてんの??」
「あや子さん、ごめんなさい……!」
包帯まみれのその姿を見るや否や、とうとう抑えていた感情が堰をきって涙が目からあふれ出したと思うと、みなとは大声で泣き始めた。
「え、なになに? どないしたん?」
いきなり泣き出した少年を前にあや子は訳も分からず混乱し、何か知っているようにその光景を眺めていたてまりに助けを求めるような視線を送る。
「この子、あんたのことえらい心配しとったで」
普段は見せないおろおろした彼女の表情にてまりは悪戯が成功した時のような、少し意地の悪い笑みを浮かべながら、彼がここに来た経緯を簡単に説明した。
「なんや、そういうことかいな。安心しや、私はまだ生きとるよ」
ことの顛末を聞くとあや子は笑って、まだ泣いているみなとの頭にそっと撫でるように掌を置いた。
「でも、でも……僕、あや子さんに怪我させちゃって……!」
一度引っ込みかけた涙が再び双眸からあふれ出す。
「あはは、こんなんじきに治らよ。これで涙拭き」
差し出されたポケットティッシュで涙を拭くみなとを見ながら、あや子は少しこそばゆいような、照れくさいような気持ちを押し殺すように少し呆れたような笑顔を浮かべた。
誰かに怪我の心配をしてもらったのはいつぶりだろうか。絆創膏を貼ってくれた祖母のしわだらけの手が触れる感触が、あや子の手に蘇る。
「ところで、そろそろ夕飯の時間とちゃう?」
「わ、ホントだ」
みなとが泣き止むタイミングを見計らってあや子が店の奥に掛かっている時計に視線を移すと、。
「送ってっちゃるさかい、今日は帰ろか。てまり、また留守番頼むで」
あや子は怪我をしていない左手でみなとの右手をとると、てまりにそう告げて再び店を後にした。
―――
「しっかし、えらい立派な家住んどるな」
「……そ、そうですか?」
あや子は仰け反るようにして眼前にそびえ立つマンションを見上げる。
夜に溶け込むような光沢のない黒くモダンな外壁に、きれいに磨かれたガラス窓から漏れ出る暖かい色みを帯びた生活の光。昼間に一度除霊のために一度訪れてはいるものの、改めて夜に見るとその迫力は一層増して彼女の目に映った。
かつて海坂市の景気が良かった時代、半ば勢い任せのように建てられたというが、十年以上経った今でも周囲の建物を圧倒する、ある種のランドマークのようなものになっていた。
「あれ、みなと?」
そうやってマンションの前に二人佇んでいると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ってみると、眼鏡をかけた痩身の男が怪訝な顔をしてあや子とみなとのほうを見ていた。
「あ、パパ!」
みなとはあや子の手を放して、パパと呼んだ男の元へと駆け寄っていった。
「どうしたんだい、こんな遅くまで」
「ごめんなさい、ちょっと色々あって……」
みなとの父親は彼の顔を見た後、ちらりとあや子の方に目を移す。日本人としては平均的な身長の彼と同程度のすらりとした背格好、着物姿でところどころに巻かれた包帯、そして本性を覆い隠すような色付き眼鏡と長手袋。
志村あや子の第一印象は、みなとの父親からすれば少し信頼しがたいものであった。
「あ、すみません。今までうちで遊ばせてたもんで……」
そんな父親の心中を察したように、彼女は愛想笑いを浮かべてぺこりと頭を下げる。
「……あ、ど、どうも」
その笑みに内心の非礼を悟られたのではないかと不安になりつつ、彼女に合わせて頭を下げる。
「最近よく行く駄菓子屋のお姉さん。すごく仲良くしてくれるんだ」
ぎくしゃくした空気を察知したのか、二人の間に割って入るようにみなとは父親にあや子のことを紹介する。
「そうだったんですか。みなとがいつもお世話になっております」
「いいえ、こちらこそ仲良うしていただいてて。ええお客さんですよ」
それが効いたのか二人の貼り付けたような、大人特有の愛想笑いが少しだけ柔らかくなった。
「じゃ、みなと。そろそろ中に入ろうか」
腕時計を確認すると、父親はみなとの背中を軽く押してそう促した。
「あ……うん。それじゃ、また遊ぼうね」
みなとは名残惜しそうにあや子の方を見て手を振った。その視線にはどこか、彼女との離別への不安が混じっているようにも感じられる。
「うん、また遊びに来てな」
黒い御影石とガラスで彩られたマンションのエントランスに向かっていく二人の背中に、あや子も名残惜しそうに別れの言葉をかけた。
―――
「みなと」
エントランスに入ってすぐ、父親はふとみなとに話しかけた。
「なに?」
「来週の日曜日、どこか遊びに行くか?」
「え、ホント!?」
その言葉を聞いて目を輝かせるみなとを見て、彼は内心意外に感じた。
前回みなとと遊んだのは、確か三月の頭に大阪の科学館に連れて行ってやった時以来だろうか。最近仕事が多忙であるためあまり構ってやれていないように思えたが、まだひと月半ほどしか経っていない。
しかし小学五年生になったばかりのみなと本人にとっては、そのひと月半がどれだけ長いものなのか。子供を持って久しい、所謂「大人」であるみなとの父親にとっては、理解するのが難しい感覚になりつつあった。
―――
「おう、早かったな」
あや子が締め切られた雨戸に手をかけようとしたそのとき、内側から雨戸ががらりと開いて、てまりがひょっこりとその丸い顔をのぞかせた。
「うわぁびっくりしたぁ!」
某サイコホラー映画を思わせる登場の仕方に、あや子は思わず腰を抜かす。てまりの顔が明かりの少ない田舎の暗闇に真っ白く浮かんでいるため、元のシーンよりも余計に恐ろしい。
「そんな驚かんでもええやろ。飯は作ってあるで」
驚かせるつもりがなかったのか、少し不満げな表情を浮かべるてまりを尻目に中に入ると、ほのかにカップラーメン特有のジャンクな匂いがかすかに彼女の鼻をくすぐった。
「カップ麺を飯て言うな。ま、今日は私が作っても同いようなモンになるやろうけど……いだだ!」
雨戸を閉じて店の奥にある茶の間に上がろうと縁側に腰をつくと、先ほどまであまり感じなかった痛みにあや子は思わず顔をしかめる。
「あんた、あの子のためにえらい身体張っとったんちゃうん?」
そこまですることあらへんやん、とやや素っ気ない態度でてまりはそう言った。
「さあ、無理してるつもりはないけど……」
病院でもらってきた鎮痛剤を水も飲まずに丸飲みしながら反論する。
「言うてあの子にいっつもかかりっきりやん」
「なんや、なんか可笑しいんかい」
いつも以上に執拗に聞いてくるてまりにあや子は苛立ちを覚える。子供とはいえ、自分を認めてくれた人物が困っているのを放ってはおけない。志村あや子とはそういう人間なのだ。
「いや、あん時のあや子とは変わったなぁ、って。『てまりみたいになりたい~』言うて泣いてた頃が懐かしわ」
「恥ずかしこと言わんといて!」
昔の話を掘り起こされたあや子は耳まで真っ赤になりながら、少し伸び始めたカップ麺をずるずるとすすった。
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