第6話:逢魔が時の亡霊

 山昏神社はやまぐれ商店からほど近い位置にある、石段を上った先に建つ無人社である。元々あや子の祖母が管理していたのだが、彼女が亡くなるときに駄菓子屋とともに彼女が受け継いだ。


「しっかしおばあとの約束言うても、毎日上り下りすんのはキッツいなあ」


 その日もあや子は息を切らせながら神社へと続く石段を登っていた。段数こそそこまで多くはないものの、江戸時代以前に作られた石段は一段一段が高く、勾配もかなり急だ。


 これを年老いてからも毎日上り下りしていた祖母に、あや子は内心舌を巻く。


「いやー、疲れた。ちょっと休憩……」


 石段を登り終えると、あや子は誰に向けるでもなく大声でそんなことを言いながら近くにあった物置の扉を開け、草履も脱がずに式台に腰を掛けて一息ついた。この物置は元々社務所だった建物を再利用したものであり、あや子の祖母が若い頃までは巫女が常駐していたという。


 ――病気がよくなりますように、っていうおまじないなんだって。


 軽く張った足をぶらぶらさせながら、先ほどみなとが言っていたことをふと思い出す。彼があの時素直にてまりの存在(と悪戯)を受け止めていたのも、祖父母の藁にもすがるような信心のたまものなのだろうか。


 ――普通の人は見えんからな。でもな、おばあは知っとるで。


 自分にだけ見える存在が他人に理解されずに周りから白眼視されていたとき、あや子の祖母がかけてくれた言葉だ。その言葉だけを頼りに今まで生きてきたが、まさかこんな珍事に巻き込まれてしまうとは。


 五分ほど休んだあと、玄関に立てかけてあった竹ぼうきとちりとりをつかんで、石畳に散らばった緑色の落ち葉や塵を掃除する。クスノキやナラの雑木林に囲まれているから、春でもこまめな掃除が欠かせない。


 掃き掃除が終わったあとは賽銭の回収だ。古びた木の賽銭箱に似つかわしくない、ロボット玩具のようないかつい南京錠を開けて底の引き出しを確認すると、赤銅色の効果が数枚、夕陽を受けて鈍く輝く。


「なかなか賽銭も入れへんなぁ。こんなんジュースも買われへんやん」


 渋い顔をしながら雀の涙ほどの小銭をかき集めていると、石段の方からこつ、こつ、こつ、と誰かが石段を登ってくる足音があや子の耳に入った。賽銭箱の横から顔を出して足音のした方に目をやると、やや暗めの茶髪の女性がこちらへと向かってきている。


「お、こんにち――、」


 あや子は彼女に声をかけようとしたが、異様な気配を感じて言葉を引っ込めた。


 ビデオテープの映像から切り出してきたように、やや白飛びした色合いと、解像度が低く不明瞭な輪郭。足元には夕方にもかかわらず影がない。


 あや子の網膜には、いつもそんな風に幽霊が映っていた。


 年齢は二十代後半くらいだろうか。よく手入れされた長い茶髪に映える薄桃色のシャツワンピ―スは、ステレオタイプな幽霊らしくどこか儚げながら恐ろしい印象をあや子に与える。


 そしてその顔は、あや子のよく知る景山みなとと瓜二つだった。


(こいつが、みなとのオカンか……?)


  初めて見る「みなとの母親」に息をのんでいると、女はゆったりとした動作で鳥居に向かって一礼した。


(……まさかな。いや、まさか)


 その光景を見たあや子の背中にぞくりと冷たい感覚が走る。悪霊としての性質が強い幽霊は鳥居のような結界に阻まれてしまう。彼女がこれまでの人生で幾度となく見てきた光景だ。


 しかしその女の幽霊は違った。彼女はこともなく鳥居をくぐると、あや子の方に視線を向けてどこか陰のある感じでほほ笑んだ。


「こんにちは」


「……こんにち、わ」


 幽霊特有のややくぐもった女の声を聴くと、手袋の内側にじめじめと汗がにじむ。幽霊相手に委縮したことなどなかったあや子は、自分の反応に少し混乱した。


「みなとがどうも、お世話になってます」


 女は柔らかな笑みを浮かべ、ぺこりと頭を下げる。


「……」


 あや子は恐怖と驚きのあまり女を凝視したまま、ただ黙ることしかできなかった。


「よく一緒にいるところをお見掛けしますので。ずいぶんと仲がよさそうですが……」


「常連やさかいな。数少ない大切な常連さんや」


 精一杯の気力を振り絞って、あや子は作り笑いを浮かべる。


「でも、あんまり遊びに熱中させるのも考え物ですね」


 女は笑ったまま、少し困ったように眉を寄せた。


「あんまりみなとをいじめたんなよ、せっかく向こうから戻ってきたんやから、もうちょっと優しくしたったらええのに」


「……せっかく戻ってきたからこそ、みなとを立派にしてあげたいんです」


 そう語った幽霊の表情を見ることもなく、あや子はほな、と言い残してそそくさと箒を片づけ、鳥居の方へ逃げるように駆けて行った。女の幽霊――、みなとの母親を自称する幽霊からは、彼女が今まで遭遇してきた幽霊たちとは明らかに違うものを感じ取ったのだ。


 小学生の頃、遠足先の神社でご神木によじ登ってふざけていたクラスメイトを引きずり降ろそうとする無数の青白い手を見たときのことを思い出した。その手がクラスメイトをどうしたかまでは言うまでもない。


 その時の青白い手が今、自分を追いかけているような気がしてならない。


 礼もそこそこに鳥居をくぐって石段に足をかけたその時、どん、と背後から何かに突き飛ばされるような衝撃を覚えた。


(……え?)


 まさか、とあや子は視線を鳥居の方へ向けた。彼女の予想通り、女幽霊が手を突き出してほくそえんでいた。


 その悪意に満ちた不気味な笑みに恐怖を感じる間もなく、あや子は石段を転げ落ちていった。


 ―――


 あや子が階段から突き落とされて、およそ一時間後。


 東の空に藍色が差し込んだ夕焼け空の下。みなとはあや子の身の安全を確認しなければいけないという義務感に駆られ、駄菓子屋の方角に向かって全速力で走っていた。


 酸欠気味の脳裏に、これまで仲の良かった友人たちの顔が浮かぶ。みなとを気味悪がるような、縁起の悪いものを見るような視線を向けていた。


 ふと、その中にあや子の顔が混じる。頭を振って必死で脳裏から消し去る。


「あや子さん! あや子さん!」


 汗にまみれ、息を切せながら駄菓子屋の前に到着すると、締め切られた雨戸をガンガン叩く。わずかに中からテレビの音がするが人の気配はない。案の定あや子に何かあったのだと理解するまで、そう時間はかからなかった。


「やかましな、閉まってんのが分からんか!」


 みなとがしばらく店の前でそうやっていると、さっきまで閉まっていたはずの雨戸が勢いよく開いた。奥で一人テレビを見ていたてまりが出てきたのだ。


「て、てまりさん?」


 わずかに開いた雨戸の中をきょろきょろと見渡しながら、みなとはてまりのいそうな方向に向かって話しかける。


「なんや、この前のボンか。私はこっちやで」


 意外な人物の来訪にてまりは大きな目を丸くする。それから少し背伸びをして、自分とは真逆の方向を向いているみなとの頬をぺちぺちと軽く叩いた。


「てまりさん! あや子、あや子さんはどこ!?」


 頬を叩かれた方に向き直り、食いつくように彼女にそう問いかける。


「あや子は留守――、」


「てまりさん……!」


 ぼろぼろと零れる大粒の涙を流し、パニックのような状態になっているみなとを見て、てまりは彼に自分の存在が見えないことを思い出した。


「……そうか。声、聞こえへんねんな」


 てまりはさっと店の奥まで走り、卓上メモに、


『あや子は病院。じき帰ってくるさかいここで待っとき』


 と書き込んでみなとに渡し、彼の手を引いて店の中に案内した。

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