第3話:見えないけれど(前編)

 気がつくとみなとは自宅のあるマンションのエレベーターに乗っていた。ゴンドラ内に低く響き渡る駆動音に自分の心音と乱れた呼吸音が混じるのは、駄菓子屋からマンションの前まで走ったからではない。


(なんで逃げちゃったんだろう……)


 ランプが自分の部屋のある階を示す。階数を読み上げる無機質な声と地獄の門のようにドアがゆっくりと開くと、そんな後悔の念が押し寄せる。しかし今更戻ったところでどうしようもない。


 そもそもあの駄菓子屋の女性に幽霊が見える確証なんてどこにもない。それこそクラスメイトが言っていたように猫を追いかけまわしていた光景を裕太が早とちりしてしまっただけかもしれない。


 そして仮に見えていたとしても、自分を助けてくれるとは限らない。みなとは唇をぎゅっと嚙んだ。


「ただいまー……」


 音を立てないように玄関のドアをゆっくり開けて、恐る恐る中を覗き込む。誰もまだ帰ってきていないらしい。


 誰もいないことを確認するとそろりそろりと中に入り、布が擦れる音にも気を遣いながらゆっくりと靴を脱ぎはじめる。


(なんで自分の家に帰ってきただけなのに、こんなに怯えなきゃいけないんだろう)


 靴を脱いでいる間にも心臓はばくばくと早鐘を打ち、手には汗が滲む。二分以上かけてやっと脱ぎ終わると靴をゆっくりとそろえ、再び忍び足で自分の部屋へと向かう。


――遅い! 今まで何してたの!


部屋に入ってドアを閉めたそのとき、キンキンとした女性の声が脳内に響く。しかしその姿はどこにも見えない。


ああ、今日も始まった、とみなとは効果がないと分かっていながらもその場にしゃがみこんで耳をふさぐ。


「……普通に帰ってきただけだよ、“お母さん”」


――そんなわけないでしょう、どうしてまっすぐに帰ってこないの!


 みなとの反論に「お母さん」と呼ばれたその声は、さらにヒステリック頭の中で怒鳴り散らす。


「ごめん、とも――」


友達と一緒に帰っていた――。そう言おうとした瞬間、口に手を当てて言葉を取り消す。「友達」なんて言葉を聞かれたら、また親しいクラスメイトに不幸が訪れてしまう。


――何、なんなの!?


「……近道しようとしたら、迷っちゃって」


――はあ。とにかく、「課題」をクリアできなかった訳だから、これは「没収」ね。


かたり、とストライプのカットソーがかけられたハンガーが揺れた。二月の誕生日に買ってもらったばかりのお気に入りである。


「待って! 今日は「課題」なんて――」


 みなとは咄嗟にハンガーからカットソーを外して胸に抱きかかえた。ぴりり、と小さな音とともに裾の部分が裂けはじめる。それに呼応するようにビリビリ、バリバリと袖や襟からも裂け目が広がる。


――一度言いつけられた時間に帰ってくるぐらい、小学四年生なら出来るでしょう?


「やめて、お願い! 次は絶対遅れないから!」


必死の懇願も空しく、無慈悲に部屋中に響きわたる布を引き裂く音とともに、みなとのカットソーは腕の中で無数の布切れと化した。


 電気もつけていない薄暗い部屋の中、みなとはカットソーだったものを抱きながらその場にへたり込んだ。頬を熱いものが流れ落ちて、布切れにぽたぽたと水滴のあとをつけた。


 涙でかすんだ視界で改めて部屋の中を見回す。本棚にはカバーからページまでセロハンテープで補修された漫画が並び、その横には胴体から真っ二つにへし折られたロボットのプラモデルが鎮座している。


 机に目をやれば画面をめちゃめちゃに割られた前のスマートフォンが置かれ、細切れになるまで引きちぎられたステンレスのネックレスが散乱していた。


 どれもこれも、声の主――「お母さん」を名乗る存在に罰として壊されたものばかりだ。


(あの時神社で、あんなお願いをしていなければ……)


「ただいまー。どうしたんだい、電気もつけないで」


 ふと、後ろから安心感のある声がみなとに優しく語りかけてきた。振り返ると、いつの間にか帰宅していた父親が部屋の入り口で佇んでいた。


「あ、パパ……、これは……」


「大丈夫だよ、ゆっくり治していこうな」


みなとは見られまいと必死で細切れになったカットソーをかばうが、細かい布がポロポロと腕から零れ落ちる。それを見た父親はそれ以上何も言わず、自分の部屋に荷物を置くために立ち去って行った。


―――


 その日の夕食時、みなとはふと仏壇に置かれた写真と目が合った。さらさらと長い栗色の髪をなびかせて、どこか知らない海を背景に屈託なく笑う女性。みなとの母親である。


「ねえ、パパ」


「ん、どした?」


 みなとの問いかけに、父親は厚揚げ豆腐を切り崩していた箸を止める。


「お母さ……、ママってどんな人だったの?」


「どうしたんだよ、藪から棒に」


 少し困ったように笑う。その顔はどことなく嬉しそうだとみなとは思った。


「……いや、なんとなく」


 視線を右下にそむけ、ぽそぽそとそう言う。


「うーん、まあいいか。ママは美人で優しかったんだぞ、怒るとちょっぴり怖いけどな。どこから話そうかな……出会ったのはそう、僕がいくつの頃だったかな。あれは僕が29歳の頃だったかな。マッチングアプリっていう結婚相手を探すためのアプリがあってな。そこで写真を見て一目ぼれしたのがすべての始まりだった……」


 いつになく嬉しそうに、そして饒舌に語りだす父親の顔を見て、みなとはぎゅっと口を切り結ぶ。


「母親を名乗る声に虐待されている」なんて、口が裂けても言える雰囲気ではなかった。


―――


 ひなびた商店街の外れに重い鉄の雨戸が軋む音が響く。いつもより暖かい日差しを浴びながら、あや子は「やまぐれ商店」の開店準備を進めていた。しかしその表情は春らしく麗らかな天気とは裏腹にどんより曇っている。


「おはよう、あや子」


 店先の掃き掃除やら開店準備やらが終わっていつものレジ奥の事務椅子に腰かけていると、てまりが家の奥からそう言いながら、彼女の方に歩み寄ってきた。


 あや子の方は聞こえていないのか、はたまた無視しているのか、彼女からの返事はない。


「……あの、ごめんな。昨日は」


 無視されていると思ったのか、てまりは手を後ろで組んでもじもじさせながら改めて謝罪の言葉を述べる。


「何度も言わんでええよ、よう考えたらあんなん事故やったしな」


 あや子は力なく笑う。


 最近の小学生は自分がそうだった時よりも大人びているから、面と向かって馬鹿にされるようなことはない――。そう自分に言い聞かせるも、やっぱり肚の中で奇人扱いされるのは堪える。


 あや子が独り悶々とそんなことを考えていると、店の引き戸ががらりと開く音が耳に入った。


「はーい! いらっしゃ……い」


 直ぐに接客モードに切り替えてにこやかに挨拶をするが、その客が先日来たボブカットの少年だと分かった瞬間無意識に笑顔が引きつった。


「……こんにちは」


 少年――、もといみなとの方も昨日のことを思い出して、やや緊張気味に頭を下げて店内を物色する。


目を引く色とりどり珍しい駄菓子の棚から、長いこと陳列されて色あせてしまったおもちゃのパッケージが並ぶ棚、それからあや子が陣取るカウンターの前面に整然と並べられたタバコのサンプルパッケージの順に目を移す。


特に欲しいものはない。ただ、あや子との会話のきっかけをつかむためだけに買うものを探す。


「……今日は学校休みなん?」


 しん、と通夜のように静まり返った空気に耐えきれず、先に声を発したのはあや子の方だった。本当なら声をかけることすらためらうだろう。しかしこの少年が退転するまで静まり返った


「……いえ。ちょっと気持ちが沈んじゃって……」


 みなとは小さくかぶりを振る。「お母さん」の声に悩まされるようになってから、度々学校を休むようになっていた。


「そうかぁ。お姉ちゃんも昔そういう時あったよ」


 ふと昔いじめられていた日々のことを思い出し、色白な眉間にしわを寄せて渋い顔をする。


「そうなんですね……」


 みなとは少し言葉に詰まる。普段あまり人見知りをするタイプではないのだが、カラーレンズの眼鏡が少し威圧的に映るのか、それとも先日のことが引っかかっていたのか、ぎこちなくなってしまう。


「えらい堅っ苦しいな。タメ口でええんやで」


「あ、はい……じゃなくて、わかった、よ」


「あはは、なんやそれ」


 あや子が歯を見せると、みなとの強張っていた表情も少し柔らいだ。少なくとも重苦しい空気だけは取り除けたと、あや子は胸をなでおろす。


「じゃ、これ下さい」


 手ごろな位置にあったうまい棒を三本取って、あや子のいるカウンターまで足を運ぶ。


「まいど。三十円やな。袋はただやで」


 手元にあった電卓を適当に叩き、金額を提示して商品を店名が印字された小さなビニール袋に入れる。


「あれ、確か値上げしたんじゃ……」


「新規顧客様にはサービスせんとな。その代わりまた来てや」


 みなとから受け取った三十円をレジに仕舞い、袋を手渡しながらあや子はにかっと笑う。


「ありがとう、また来るね。ところで、お姉ちゃん」


 袋を受け取ると、みなとは先ほどの柔らかくなった表情から一転、真剣な面持ちで彼女に問いかける。その大きな二重の目は、カラーレンズに遮られたあや子の切れ長の目を見据えていた。


「ん? どした?」


 そのまなざしにあや子は少したじろぐ。


「お姉ちゃんって、「幽霊」見えるの?」

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