落ち葉

阿賀沢 周子

第1話

 二人は『アベニューエイト』というマンションの自転車置き場にいた。目的の大通り公園八丁目に着いた途端小雨が降り始め、ここへ駆け込んだのだ。自転車置き場を覆うように、黄葉した大木のイチョウとスズカケの樹があった。

「兄ちゃん、手が出てきた」

 妹の祐が指差す方を見ると、マンションの三階の窓から雨の中、手のひらを上に向けて腕が出ていた。

「ママはここの三階にいるのでしょ。ママの手かな」

「違うよ」

 信は祐にそうは言ったものの、母の可奈子がここの三階に住んでいるのは、父とおばあちゃんの話を盗み聞きしたのだから、間違いはない。

「兄ちゃん、ママは雨が好きだったよね」

 母は雨が好きだった。雨が降ると僕たちを引き連れて、長靴を履き長い髪を靡かせて、選んで水たまりを歩いた。僕たちがベチャベチャになっても叱らなかった。ベランダから、ずうっと雨の庭を眺めていることもあった。

「ママかな」

 祐は僕より五つ下の四歳だから、僕よりママに会いたいだろう。その願いを叶えるために、ここまで二人できたのだ。手のひらの人は、すくうような手つきで雨を受け続けている。冷たい雫が溢れそうになっているかもしれない。

「祐、ここにいるんだよ。兄ちゃん、ママの部屋を探してくるからね」

「どうやって探すの」

「郵便受けの名前を見てくる」

 近頃は、用心のために名前を書かない人が多いのは知っていた。友だちの幸太の、マンションの郵便受けにも名前が少なかった。祐に、あの窓を見ているように言いつけて、信は一番近くの玄関へ走った。

 ズラッと並んだ郵便受けは部屋番号だけで、やはり表記した名前が少なかった。

 6月の末、なぜかは知らないが、母は父と離婚して三井可奈子になった。その名前がなかった。信は玄関を出て祐の姿を確認し、次の玄関へ向かった。あの窓のあるところだ。はみ出たチラシを避けながら、特に三階を丁寧に見た。名前のない箱ばかりが並んでいる。

 建物に四つある全部の玄関を探したが、名前は見つからなかった。

 祐のところへ戻って座り込んだ。逢えるかもしれないという期待が小さくなり、祐の顔が見られなかった。濡れた肩が冷たかった。

「ママの部屋見つかった?」

「分からなかった。名前のないのが多くて」

 見上げるとあの手のひらはもうなくなっていた。

「いつ手を引っ込めたの?」

「兄ちゃんが行ってすぐ」

 父はおばあちゃんに『アベニューエイトの三階にいる。残りの荷物を送ってくれと言っていた』と話していた。円山の自宅から、二人で歩いて一時間近くかかった。祐はよく歩いたと思う。これでママに会えなかったら、祐は帰り道を歩き通せないかもしれない。

「お腹すいたな。チョコ食べようか」

「兄ちゃん持ってきたの?」

「前に、ママが山で遭難した人が、チョコで生き延びたって話をしてくれた。祐も聞いただろ。だからこういう時はあったほうがいいかなと思って持ってきた」

「憶えていないけど。祐は遭難するの?」

 板チョコを半分ずつ分けた。

 いつの間にか小雨は霧雨に変わっていた。風がないのにハラハラと葉が落ちてくる。二人は鮮やかに黄色いイチョウの落ち葉を眺めた。時々、スズカケが茶色くゆがんだ枯葉を落とす。

「もう一回玄関へ行ってみるよ」

「祐も行く」

「雨に濡れるよ」

「祐も行くの」

 二人は小走りで、そばの玄関へ入った。祐には一番下の郵便受けしか見えなかったし、名前も読めなかった。それでも、ひとつずつ、指で確認するように、名札を見ていった。

「可奈子っていう字、書けないけど読めるよ」

「やっぱり、名前がない。次行くよ」

 外へ出ると、陽が射していた。次の玄関に入る前に、二人は同時に、さっきの窓を見上げた。窓が開いたままになっていた。

「ママーッ」

 祐が突然両手で口を囲み大きな声で、叫んだ。

「ママーッ、祐と信ちゃんが来たよー」

「祐、駄目だよ。廻りの迷惑になるから」

 それでも祐はあの窓に向って、もう一度叫んだ。

 窓から髪の長い女の人が顔を出した。その顔は二人を認めるとすぐに引っ込んだ。

 二人は口を開けたまま、窓を見上げ続けていた。スズカケの葉から雫が散り、二人の顔を濡らした。

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落ち葉 阿賀沢 周子 @asoh

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