第9話 八九七五年十一月二十九日 ⑥

 クルルは人差し指と親指の先をくっつけて輪っかを作ると、その内側を覗き込んだ。


「このアトリエ全体に比べて、励起状態のままでいられた肉体がちょうどこのくらいかな」

「そこに杖が? 奇跡だな」

「ここまでくると、むしろ必然を疑いたくなるよ。第三者による、いかにも優しげな軌道修正があった、とか」


 そう言われて、実際に疑ってみると、十分にありうることに気がつく。ライブラリを参照、


「てっきり、あの攻撃はきみがやったんだと思っていたよ、クルル」 

 クルルはかぶりを振って、「私はワープ機構の脆弱性をつけるコードを持っていないし、それを持ち得るような相手に協力を持ちかけてもいない。いや、正直なところ、あれが私を支援していたのか、もしくはこの杖だけを狙っていたのかは分からないのだけれど」


 その言葉の真意を、クルルは噛み砕いて説明し、ガラップは持ち前の知識と合わせて次のように理解した。


 結節点から、物理的に──個人・公共環境への精神体のジャンプではなく──移動するなら、方法は二つしかない。宇宙船でそらを航るか、ワープ機構で別の結節点に行くか。結節点にて仕事に従事する各員の協力が得られるのであれば、後者が易いだろう。そして、彼らの協力が得られずとも、なお後者が易い。宇宙船一隻を用意することが、中級市民程度には不可能に近いからだ。宇宙船を造る物理的な設備一式を、いったいこの狭量な宇宙のどこに作ろうか。各銀河の星の資源は、国家のプロセッサを──領土を増やすことに使われる。そこに横紙破りをいれるには、相応の資金マネー信用度クレジットが必要だ。クルルはそのどちらも必要量に達していない。

 なので、クルルが取り得る選択肢はひとつに限られる。しかし、こちらに好意的な結節点は数少なく、ワープした先の結節点で取り押さえられる可能性が高い。そこでクルルが目をつけたのが、個人所有のワープ機構だった。


 この選択は二重に功を奏した。そのことが分かったのはクルルがニブルに到着してから少ししてからだ。


 何者かによる、ワープ機構システムへの攻撃が実行された時刻は、ちょうどクルルがワープトンネル内部を通過している最中だった。トンネル内部の空間領域は常に存在する訳ではなく、時間経過に伴う自然の作用で閉じられてしまう。そのため、荷物を送ろうとする度に、時空間上の二点を繋ぐ穴を開ける装置──穿孔機と呼ばれる──を使用するのだが、この装置の特許権を教会が所有していることが、今回の攻撃の基点となった。

 何者かは、ほんの数時間、教会から特許権を掠め取ったのだ。

 その結果、閉口、そして崩壊。ワープトンネルを通過中だった荷物は、再びその場所を穿孔機で掘り出さなければ、この宇宙から永遠に独立したままになる。トンネルは、結節点から結節点、施設から施設へと、三次元ではないいずれかのレベルで常に真っ直ぐ穿たれるが、同じように開けたところで、そこに荷物がある保証はない。もしも、クルルが次の結節点に向けてワープトンネルを通行途中であったのなら、彼女は杖と共に超次元的な神隠しを噂されたことだろう。あるいは、結節点に向かった何れかの彼女は現実にそうなっているのかも知れない。

 クルルが杖と共に向かった先は、エンドライトの所有するアトリエだった。この施設に存在するワープ機構は、例外的に教会の権限から外れていたのだ。このおおよそイリーガルな状況は、何者かによるイリーガルな特許権行使をひらりと交わすのに十分な薄っぺらさだった。それどころか、教会所有の結節点を辿っていた追っ手を振り払うことすらしたのかもしれない。理由はどうあれ、この攻撃はクルルに有利に働いた。


 こうして妨害に屈せずニブルにたどり着いたクルルは、まずそこにあった公共環境の端っこに、この宇宙とは正反対のスケールの個人環境を用意し、そこに精神図面をそなえた。ニブル環境の高圧下では、杖を追うために用意した肉体では不十分な可能性があったからだ。そして、それは真実で、クルルの肉体は荷物の蓋を内側から蹴破ったと同時に、生物的な隙間はきれいさっぱり消え去った。

 精神体としてアトリエに立ったクルルは、まずそこにある肉体に目をつけた。酸素を必要としない機械仕掛けの肉体に、芸術を成すための精巧な腕と、関節部を三六〇度曲げられる球体関節に差し替えた六脚類のような足──エンドライトのアトリエ専用の肉体だ。

 なにせ、神の杖は物理的に存在している。その世話を買って出たクルルが精神体であっては、まさに鏡花水月といったところ。クルルは迷わず自らの精神図面を肉体に移植すると、ひとつまみの罪悪感を糧に、基底状態にあったエンドライトの精神図面を個人環境にコピーした。すべてが終わった後に再び入れ替えることができるように。こうした気遣いは生来の真面目さ故だろう。それでも、他人の肉体を奪うこと自体に躊躇しなかったのは、前人未到に挑む使命感と、上級市民への嫉妬心があったから。

 ここまでは概して順調だった。突発的だった杜撰ずさんな計画は偶然に支えられ、ようやく身を休めるところまで来た。果たして、そのような無茶が最後まで続くはずもない。

 暫くして、何者かによるワープ機構への攻撃を知ったクルルは、この出口のない球体に穴を開ける決心をした。唯一の正常な通路は攻撃によって絶たれ、杖をより安全な場所に移動するための効果的な方法を、他に思いつかなかったからだ。

 あるいは、エンドライトの肉体を奪わずに、協力関係を築いていれば。

 、高熱の海水にさらされ、にっちもさっちもいかなくなったクルルには、そんなもしもを考えてしまうだけの後悔の時間はいくらでもあった。穴の空いた空間で、むざむざ杖を放置するわけにもいかず、彼女は哀れな灯台守として、この水の惑星で救いの手を延々と待つ羽目になった。


 クルルはふんと鼻を鳴らして「とはいえ、そこまで悲観的な気分にはなっていなかったよ。行き先をニブルに決めた時点で、そのことをキミにメールしておいたし。なにより、この肉体に元々刻まれていたエンドライトの精神を、。エンドライトの魂は、キミをここに連れてくると予言していたんだ、ガラップ」

 ガラップは、アトリエの端のほうでひっそりとしているボックスを一瞥した。「あの中に個人環境が?」

 クルルは素っ気なく、「そのとおり。このアトリエの環境は拡張現実として側面もあるから、新しく個人環境を作るには物理的な区切りをつける必要があった」


 その箱の内側で起きている作用について、ガラップが事の全てを知り得ることはない。クルルの言葉を真に受けるならば、アトリエと肉体を失った芸術家が、どのような行動をとるかというシミュレート。それも、アイデンティティの変更に伴った数百から数千のネガティブなパターンを、数百から数千倍に加速された主観時間で。略奪の憂き目にあった被害者の悲嘆を繰り返したその行いに、ガラップは嫌な気分にさせられる。恐らく、実際のエンドライトと仕事をしたからだろう。それは彼の悲劇に心を痛ませるには十分な距離感だ。


 ガラップは少しためらってから、「あの中では、今も?」

「もちろん、そんなことはない。既に仮想シナリオ上で答えは得たし、現実の結果もこうして現れた。リソースを割いておく理由はないよ」クルルはそう言ってから、ガラップの陰鬱な表情に気づいたようで、「言っておくけれど、あれはバックアップですらないよ」

「分かってる」


 本当に? ガラップは自らにそう問いかけて、すぐに無駄な考察であることに気が付いた。ハズレの結節点に向かったクルルの行方を、今ここにいるクルルは心を痛めただろうか? サルベージ用の疑似メンダコに宿ったクリップキャットが死んだ時、潜水艇にいたクリップキャットは自らを追悼しただろうか? 数千年前に地球に基底状態で置いて行かれた自分自身に、ガラップはどのくらいの感情を割いたのだったか。瞬く間に大量死したエンドライトも同じことだ。エンドライトがそれを気にすることはないだろう。宇宙のスケールで眺めれば、数百、数千程度の死の体験は、一般的な市民と比べてもほとんど差はない。そんなことは、深い思考に至るまでもない、常識の範疇で語ることができる。


 それでも、ガラップの魂に爪を立てる何かがあった。


 ガラップは多くの下級市民と同じく、特定の主義を持っていない、交換可能な個人だ。それは仕事上有利だから持っていないのではなく、『私』を『私』と決める、あるいは『私』と『あなた』を区別する、を自覚することなく人生を過ごしていたからだ。

 もしかすれば、これこそが──そんな思考は、浅瀬を漂うばかりで、形にならない。何かが足りないことは明白だった。自らの空白を埋めるような、何かが。


「ガラップ?」


 クルルの問いかけにハッとして、アトリエをきちんと視界にとらえる。また少し全体が回転したようで、クルルは三十度ほど傾いた位置から、心配そうにガラップの顔を覗き込んでいた。


 ガラップは努めて平静に、「何でもない」

 クルルはそっけない様子で、「なら、いいけど。それよりも──」そして、ぱんっ! と手を叩くと「これからの話をしよう」

 エンドライトの肉体で行われたその仕草に、ガラップは思わず笑みを零した。言うことを聞かない口の端を手で覆いながら、「それは、ここからどう脱出するか、ということ?」

「それもあるけれど」クルルはガラップとは対照的な真剣な調子で答えた。「一番は、この杖をどうするか。これはいったい何なのか、誰が造り、どうして地球にあったのか。そして、。この辺りの謎を解明する必要がある。多分、未知の解析をするなら、最大手は教会。だけど、既に対立済みだし、今更協力はできない」

「確かに、その通りだ。となると、本命は二番手──か」

 クルルは慇懃いんぎんに頷いた。「そう、ここから物理的に連れ出してもらうにしても、解析にしても、協力が得られるのなら、彼が最適だと私も思う」

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