第8話 八九七五年十一月二十九日 ⑤

 ガラップは、「つまり、物理的に存在しているアトリエの内部に、同じ大きさの仮想空間を貼り付けている、と?」

「だいたいは、そう」クルルは六本脚をうごめかせ、真球の曲面から曲面へとジャンプすると、ガラップの真上に立った。「今の重力方向はこっちだよ」


 アトリエは自由気ままにくるくると回っている。もちろん、内部もそれに合わせて動く。テーブルに熱いコーヒーでも置けば、次の瞬間には火傷する羽目になるだろう。


「なるほど」頷くと、部屋全体が滑るように回転し、ガラップはクルルの隣に並ぶ。「だから、アトリエは真球だったのか。どのように内部の仮想空間を回転させても、必ずぴたりと一致するように」

「あとは構造的な安定性も加味しているんだろうね。深海の水圧を分散させて、ぺしゃんこに潰れるのを避ける効果がある。一石二鳥だ」クルルは素直に賞賛を送る。「そして、仮想空間を貼り付けたことにも意味がある。彼にとっては芸術のための装置だったんだろうけど、それは偶然にも、私たちにとってのウルトラCだった」

 ガラップはその真意を汲み取れず、「そろそろ、詳細を語ってくれよ。これまでのことと、これからどうするのかを。杖はどうなった? 教会は?」

「ああ、そうだね。でもまあ、せっかくだから歩きながらでも」


 二人は曲面に沿って歩き出すと、別の絵画の前で足を止めた。タイトルは、『文明海化』


「杖を追い始めた日から数えて、三六七五年と三ヶ月か」クルルはなんでもない調子で言った。「最初に私がしたことは、自分の肉体を用意することだった」


 絵画に描かれているのは、夜の摩天楼。厚い雲の層を抜けて、成層圏に飛び出すコンクリートのビル群の窓には疎に灯りがつき、そこに住む人々の営みを思わせる。一つの窓を覗いてみると、多事多端なホワイトカラーが数人、猫の手を借りながらパソコンと睨めっこをしていた。別の窓を覗いてみれば、一つのベッドに二人の男女。また別の窓には弾痕と血飛沫が。さらに別の窓を覗けば、ピンと張ったバイオリンの弦の上を、馬のしっぽの毛が躍る。摩天楼の中には、文明があった。


 クルルは、「結節点は、物理的に存在する物流基地だからね。まずは現実で活動可能な肉体を用意して、結節点行きのチケットを手に入れた」

「チケット?」

「回収機のことだよ。私のバックアップををボックスに詰め込んで、それを回収させた。結節点に荷物がついた頃合いに私が自決すれば──目を開くとそこは結節点って寸法だ。もちろん、結節点は複数あるから、それなりの数のバックアップを送り込んだけれどね」

「今の肉体もバックアップの一つ?」ガラップはクルルの身体を見て言った。「蜘蛛の頭から、人の体が生えてる機械の身体?」

「いや、これはこのアトリエの中にあったものだ。きっとエンドライトのものだろう」クルルは首をまわして自らを観察すると、「私の趣味じゃない」

 ガラップは、「……雨が降ってきた」

「え?」

「ああ、いや、絵画のはなし」


 全天が俄かに回転し、時間の移りを表す。その間、ビルの中層階で漂っていた雲は寄り集まり、その内側で雷鳴を轟かせた。そのうち、ぽつりぽつりと雨が降り出す。海面上昇が始まる。

 一分ほどで一階が沈んだ。叫び声と階段を駆け上がる足音。鳥は雲の上を目指して雷に打たれ、羊は口だけを海上に出して喘ぎながら、やがて沈んだ。雨音が強まると、さらに五階、十階、二十階と沈んでいく。灯りは消え、人は溺れ、泥めいた海上には文明の残骸が浮かぶ。海侵の災害だ。


「キミにはそう見えているんだね」

「……そうだ、それも聞かなきゃいけない、クルル。きみは──機械といえど──現実の肉体を持ってそこにある。一方で、僕は仮想空間に根差した立体映像だ。最初は絵画の見え方の違いもそれが影響していると思っていたんだけど……どうやら違うらしい。きみには僕が見えているようだし。僕が見えているなら、絵画が見えるのも道理だろ」

「そんなに難しい話じゃない」クルルは溜め息を吐いた。「絵画自体は私にも見えている。夜の摩天楼、だろう? でもそれだけだ。私に見えている絵画は動かない。そもそも、これは現実の油絵だ。動くはずがない。それでも動くのは、キミ自身の問題だ──恐らく、。深海恐怖症の克服と偽りでもしたんだろう。文化芸術に対する見え方、感じ方は人によって違う。ひとつの絵から一を知るか十を知るか。キミは百から二百ほどの、製作者の意向に沿うカタチでしている。絵画の動きは、キミの脳が作り出したものだ」

「錯視や、暗示の類いを、エンドライトが僕に仕込んだと?」

「そういうこと」


 ガラップはクリップキャットとの会話を思い出した。彼女がエンドライトに感じた違和感の正体がこれだったのか。エンドライトはこの事実を伏せて、二人をサルベージに向かわせた。たとえアトリエがひしゃげて仮想空間の貼り付けが上手くいかなくても、絵画さえ無事ならば、この動きは起きる。

 絵画は厚いアクリル板で保護されており、アトリエの壁に埋め込まれている。これならば、アトリエ内部が海水で満たされても絵画としての機能を失うことはない。しかし、その厳重さゆえに、サルベージも一苦労だ。一見した限りでは、取り外しが可能には見えない。


「エンドライトは」ガラップは、ついに屋上付近まで海に沈んだ摩天楼を見ながら、「これを見せたかっただけだと? サルベージをするつもりは、初めからなかった?」

「私は芸術家じゃないから分からないけれど」クルルはそう言いながらも、分かったふうな口調で、「せっかく作った作品を、誰かに見せたかっただけなのかもしれない。不幸にも、アトリエに入ることが難しくなり、作品の手法もアイデンティティの変更を強いるものだった。誰かに絵を見てもらう、ということの難易度が高くなっていた。ハードルが高いほど、望みも高くなるからね」


 屋上にまで逃げ込んだ人々は、一つのビルにつき二、三人。彼らは星に向かって手を伸ばす。方舟よ、どうかあの星まで連れて行ってくれ! そんな願いが叶うはずもなく、暗闇のまま一日が過ぎる。どうやらこの絵画の惑星を照らす恒星は近くにないようで──自由浮遊惑星かもしれない──いつまで経っても朝と昼は来ない。残りわずかな文明の灯火は、ひとつまたひとつと消えていく。最後に残ったもじゃもじゃ頭の少年は、飢えて腹を空かし、死期を悟ると海に飛び込んだ。

 空気を押し除け、肺が水で満たされる。身体を巡った酸素は間も無く底をつき、あまりの苦しさに手足をバタバタとさせたが、それもすぐにおさまった。意識を失いながら、静々と海底に沈んでいく。

 そんな少年の手を、少女がとった。少女には足がなく、代わりに魚のようなヒレと鱗、尻尾がついていた──恐らく、人魚だ。

 人魚の少女は少年を自らの棲家に運んだ。摩天楼の一階。誰もが上を見上げる文明の象徴、その一番底で、人魚たちはひっそりと、新たな文明を築いている。

 絵画の再生はそこで終わる。


 ガラップはひとつ息を吐くと、「少し見入ってた、そろそろ話を戻そう」

 クルルは、「そうだね、それじゃあ、私が結節点に着いたところから」




 現在の国家において、オートメーション化のメリットは無いに等しいだろう。理由は幾つかある。まず、効率化の必要が無いこと。膨大な単純作業を終えるのに費やされる時間が、数世紀増減したところで気にするような時間間隔で生きていないからだ。二つ目に、人為的ミスがほとんど起きないこと。ケアレスミスを呼びやすい、錯覚、勘違い、疲労、といった要素は、アイデンティティの変更によって排除できるから。それでもなお起きるミスは、機械化していてもなお起きていたものだ。仕方のないことで、責められるべきじゃない。

 少なくとも、教会はそういう価値観を持っていた。当然、その教会が運営する結節点でも。

 目覚めた私が最初に行ったことは、ボックスの内側を力強く叩くことだった。何の目的で? もちろん、ヘルプサインだ。私は、偶然、機械化してもなお起きていたミスによって、ボックスの中に入ってしまったかわいそうな被害者になったんだ。


 仕分け作業員が、「どうして、この中に?」

それに答えて、「それはもう、悲劇的な偶然の結果で。私にもよくわかっていないのだけれど」


 こんな感じの会話が既に数千ほどの結節点で交わされたことだろう。場所によっては、これから。それぞれでアイデンティティの変更なんて、私の主義に則ってする筈もないから、私の回答は常にこれだ。まあ、兎も角、物理的侵入は容易だった。


「実はもうひとつ悲劇が起きていてね。これは友人のだけれど」


 この言葉は良くなかった。これで私のバックアップの四割が脱落した。実際、肉体はどうなったのかは分からないけれど、私のアイデンティティにおいて、連続する個人でなくなったのは確かだ。


 続けて言った、「芸術家サマに渡す予定だった残骸の中に、誤って自分のコレクションを。せっかくの偶然だ。偶然ついでに、ここにそのコレクションがあったりしないかな?」では、さらに全体の二割が脱落。次に一割、次にまた一割。それでも、アタリは残った。

 とある結節点の作業員は微笑みを湛えて、「少し探してみようか」

「ありがとう。探索者の名前はガラップ、地球発、アトリエ行きだ」




 ガラップは呆れ顔で、「そうして、杖を見つけたわけか。随分と運だよりだ」

「思いつく限りのどの方法も、成功確率は一様に低かった。一番平和的なやり方で成功して良かったよ」

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