第7話 八九七五年十一月二十九日 ④
深層の海流はゆったりと、そこにあるものを優しく先へと運ぶ。アトリエも、探索者も、そして氷塊も。
海底には高温で分厚い氷の層があり、地球型惑星におけるマントルの役割を果たしている。温度は一七〇〇度から二五〇〇度、非常に高圧な環境によって生み出された、液体と個体の中間の振る舞いをする氷だ。
氷層の対流の働きによって、時折りその氷の一部分が海中に放たれることがある。コーヒーとミルクをかき混ぜ過ぎて、カップから液体が溢れるように。
「こっちに、クリップキャット」
ガラップはクリップキャットの手を取ると、バックパックの後方から、一度取り込んだ海水を噴射した。一メートル級のゴツゴツとした氷塊が、流星群のように乱れる最中を縫って進む。
遥か下の海底から泳いできた氷は、上昇につれ圧力が低下すると融解し、温度が下がることで再び凝固する。二〇〇〇メートル辺りは温度と圧力のバランスが絶妙で、流水と流氷が同居するエリアとなっている。
当然、宇宙よりも暗いこの場所では、その様子を直接見ることはできない。二人がひょいひょいと氷を避けることができるのは、機械的なソナーと、生物的な感覚器官によるものだ。
ここに光があれば。ガラップがそう思わずにいられないのは、精神が正常な証だった。それはエンドライトの作戦が完璧に機能していることを示している。もしも心の底から深海生物になっていたのなら、光など求めるはずもない。
飢餓感。不満足。欠乏。蛆のように湧き上がる負の感情は、けれど日常で苛まれる程度を超越してガラップを襲うことはない。結局のところ、ガラップが思うのは、早く仕事を終わらせたいという、なんとも正常な勤労精神だった。
水深四○○○メートル。氷塊は大きく、少なくなる。海流はより穏やかになり、
クリップキャットは、『もうすぐ着きそうっすけど、ガラップはこのままアトリエに直行でいいんすか?』
『ここまで来て降りるのか?』
『不安なんすよ。もしエンドライトが何か企んでいるとしたら? 私はびんぼーだから、バックアップをあんまり持ってない。この肉体は要らないけど、潜水艇の肉体は惜しいっす』
『気持ちは分かるけど……なら、なおさら報酬が必要じゃないか?』
エンドライトは、「もうそろそろだ。あと二百メートルほど真っ直ぐに」
『……そうっすね。分かってはいるんすけど、考えれば考えるほど、エンドライトが胡散臭いんすよー』
『何かあったら、契約不履行で訴えてやればいい』そして、ガラップは個人通信から切り替えて、「ありがとう、エンドライト。予定よりも早く着いたか?」
「この星の基準で半日ほど」
「それは僥倖っすね」『その時は私の味方になるっすよね?』「そろそろメンダコのカラダも飽きたっすから」
ガラップは、そうだな、と答えた。
『いやー、ガラップが』数秒の断絶「味方についてくれるなら大丈夫っす……ね?」
「どうしてこっちにいるんだ!? クリップキャット!」エンドライトが叫んだ。
ガラップはいったい何が起きたのか分からず、ほとんど反射的に手を振った。あるはずのものを確認するために。手のひらは海中を切り、何に当たることもない。嫌な予感がした。すぐに感覚器官を研ぎ澄ませる。
やはり、クリップキャットの身体が消えている。
「いや、私にもわかんないっす」クリップキャットはパニック気味に、「なんか、目を開けたら潜水艇の中にいて……!」
つまり、バックアップが起動した。
ガラップはソナーを使って辺り一体を精査すると、彼の遥か後方にクリップキャットの残骸が漂っているのを認めた。脚は四本千切れ、バックパックは上部から凹まされ、体は中程まで裂けている。そして、そんなクリップキャットの死体から、一直線にガラップへと近づく影がある。そうか。クリップキャットは、あれに轢かれたのか。
直後に、衝撃が走る。
身体が強力な推進力を得て制御できなくなる。何者かに運ばれている。何か少しでも情報を得ようと、正体不明に運ばれながらソナーを起動すると、どうやらアトリエに運ばれているようだった。
「……あれは、穴?」
アトリエは直径十メートルほどの真球である。音響測深でも確認したそれは、確かに真球を保っているが、完璧ではない。アトリエには、ここまで近づいてようやく分かる程度の穴があった。ぎざついた穴は槍に貫かれた盾のようで、外側にひしゃげている。
正体不明はそこに向けて、ガラップを持ったまま落ちていく。
一瞬の断絶の後、ガラップの視界が開けた。
×
「大丈夫っすか? ガラップ」
潜水艇で目を覚ましたガラップに向けて、クリップキャットは心配そうに言った。
「気分はそんなに良くないかな」
クリップキャットは口が聞けることに安心して、「それならよかったっす」
死と精神の関係は、国家の中でもいまだに議論の的だ。本来の生物界では、死の恐怖の行方は、死そのものによる恐怖からの解放か、生還による高揚で相殺されるかの二つしか存在しない。死を味わって、なお生きている。これがどれほど精神に影響するのかは、結局のところ、個人差と、直前の精神状況によるところが大きい。
「……今回は失敗だな」エンドライトはまいった様子で、「基礎報酬はもちろん払おう。あんなのが居るとわかっただけでも功績だ。あれの対策はこれから練るが……次、仕事を頼むのはいつになるか」ポリポリと頬をかくと、「まあ、一千年紀後に」
「一千年紀か……」
ガラップには、それが妥当な期間なのか判断が付かない。果たして、それの正体を明かすことから始めるのか。それとも、正体が分かっているからこそ攻略に時間を要すると知っているのか。
二人はエンドライトから四万ハオずつ受け取ると、ぐったりとした様子で床に寝転んだ。疲れが溜まっている。疲労回復用のアイデンティティを充ててもよかったが、どことなく原始的に発散したい気分だった。
「にしても、なんだったんすかねぇ、あれは。深海生物?」
「いや、生物が住めるような環境じゃない。あれは機械の肉体じゃないかな」
「でも、なんでそんなものがこの星の深海にあるんすか?」
「さあ、そこまでは。持ち主が知らないらしいからね」
うんうんと唸っているエンドライトを、寝転んだまま見上げながら、ガラップは思った。
仕事が失敗した。久しぶりの大きな失敗だ。反省すべきことはいくつかあるが、まず先に聞かなくてはならないことがある。
個人通信の申請に許可を出す。
『作戦は?』先に喋りかけたのはガラップだ。
クルルが意気揚々と答える。『成功した』
その返事に安堵して、ガラップは残りの作戦事項をアトリエにいる自分自身に一任した。
緊張の糸が解けると、途端に欠伸をしたくなり、品もなく豪快に息を吐く。クリップキャットはそれを指差して笑っていた。
×
開けた視界に飛び込んできたのは、歪な絵画だった。
全体的に灰色の印象が強い。曇り空の下の水銀の湖。その中心で、鮮やかな緑の頭をしている雄鴨と、地味な配色の雌鴨が、互いの頭を押し付けている。一見、愛し合っているように思える二羽は、しかし押しつけ過ぎてピンク色の脳みそが飛び出していた。垂れた肉片が水面に落ちて、銀のクラウンを作っている。
雌鴨は言った。貴方に似合いそうな冠ですこと。
雄鴨は答えた。ならば貴女に似合いそうなティアラも作ろう。
鴨は真実、愛し合っている。二羽はより密接に、より強く身体を押し付け合う。
ぐちゃぐちゃと。べちゃべちゃと。水銀の湖は赤く染まり、それに合わせて雲も晴れる。けれど、すでに夕方で、今度は全体の配色がオレンジに転じていた。
日が強まり、湖が干上がると、そこには肉片のティアラが一つ。雌鴨は首から先が無くなり、身一つに。雄鴨も同様。
声にならない声で雄鴨が語る。ほうら、できた。
甲高い金切り声で雌鴨が答える。ほんと、素敵ね。
じゃあ、次は何を作ろうか。何を作ろうかしら。
そんな風に言い合って、また
絵画の再生はそこで終わった。
「これが『割けた水鳥』?」ガラップはクルルに聞いた。「あんまり好みじゃないな」
「私には見えないから、絵の評価はなんとも」クルルは肩をすくめて、「キミに見えるのならそうなんだろう」
ガラップはかぶりを振った。「ここはアトリエの中なんだろう?」
「正確には」数十年ほど早くアトリエに訪れていたクルルは、自信たっぷりに言った。「アトリエ兼、公共環境だ。言い換えるなら、拡張現実、かな」
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