第6話 八九七五年十一月二十九日 ③

 ガラップは自分の肉体が明日と昨日で変わる筈もないという、根拠のない永遠に苛まれたまま、八本脚をうねうねと動かした。

 脚は放射状に広がっており、それぞれが薄い膜で繋がっている。全体は扁平な形状で、深海性のタコを思わせるが、背にはサルベージを行うためのバックパックを背負い、左右からは精巧な操作が可能な機械の腕が飛び出す。

 手のひらを開き、閉じ、また開く。一連の動作は違和感なく行われ、その身体は確かにガラップのものだった。


 潜水艇で待機し、オペレーターを勤めるエンドライトは、最初の仕事を果たした。「調子は?」

「問題ないっす」

「特には」


 二人の身体は、すでに海中にある。潜水艇の尾翼側の左右に引っ付いて、潜水の合図をいまかいまかと待ち詫びている。

 最初の音響測深で、アトリエのおおよその位置は特定した。潜水艇で牽引したまま北上し、北極点を東から西に周回する海流に乗って、スパイラルを描きながら深海に潜る。


「海流に乗ってれば勝手に着くんすよね?」

「ああ、なんなら主観時間を減速させてもいいかもしれない」

 クリップキャットは脚を延ばして、反対側に居るガラップの身体を突く。「それじゃあ、私が暇じゃないっすか」

「どうしてだ? 三人とも同じだけ減速させれば……」ガラップの疑問をエンドライトが先に口にした。

 クリップキャットは、「私は等速主義者なんすよ」

「等速主義者?」エンドライトは知らない様子だったが、少し考えると、「つまり、宇宙の時間と同じ速度で生きると?」


 等速主義は近年になって、下級市民の小さなコミュニティーで生まれたものだ。それを上級市民のエンドライトが知らないのも無理はない。下級市民はその職業上、自らのアイデンティティを多様に変容させる必要がある。昨日は好きだったものが、明日には嫌いになる。今日まで理解できていたものが、明後日から理解できなくなる。逆もまた然り。自己同一性を変容させることは、宇宙レベルの多様かつ重厚な仕事を請け負うのには便利だった。変更に伴う精神への負担は、精神を変更するという方法で取り除かれる。一見するとおかしなこの治療法は、少なくとも現在に至るまで、何の問題もなく運用されていた。

 そして、数百から数千ミレニアムが過ぎたとき、一つの小さな主義が立ち上がった。国家の発進から続く当たり前を疑ったのは、無名の下級市民だった。


『アイデンティティとは本当にアイデンティティの中にあるのか。自己は自分自身で完結しているのか』


 古くから続く自分自身との対峙の中で、その疑問に「ある」と答えたのが不変漸近主義者だ。そして、「ない」と答えて生まれた多くの主義の中でも、時間に自己の定義を置いたのが『等速主義者』だ。


「宇宙の時間は重力でそれぞれ変化するから、正確には産まれの速度のまま、だよね?」

 クリップキャットは驚いて、「ガラップは知ってるんすね」

「まあ、僕も下級市民だからね」

「あー、そういえばそうっすね」飄々とした態度のままだったが、その声色はほのかに弾んでいた。

 エンドライトは、「それじゃあ、通常の時間流で降りるか。ちょうど、そろそろダイビングスポットだ。覚悟決めろよ」


 潜水艇は一度取り込んだ海水を、バランスを取る為に六方向へそれぞれ調整して噴出すると、仄かにゆらゆらと揺れながらも停止した。

 ガラップは腕を伸ばしてクリップキャットに見える形で親指を立てると、それを下方向にぐるりと回転させる。それを見たクリップキャットも同様に手を動かし、二人は潜水艇から離れた。潜降開始だ。


 俄かに潜水艇が遠のき、斜め方向に下降していく。脚を開くと伸びた膜が海流を捉え、速度が増す。すぐにコツを掴んだガラップは、やや遅れて潜降を開始したクリップキャットを待つために、一旦脚をすぼませることにした。


 すぐに追いついたクリップキャットは、ガラップの腕を絡めとって、「まだこの辺りは海流が不安定っすから、離れないようにしないとダメっすよ」


 下へ降りていくほど、暗闇はその艶やかさを失っていく。そもそも分厚い水蒸気に覆われたこの惑星の海に、恒星の光はあまり届かない。潜水艇から放たれていた光が二人を照らす唯一のものだった。二人が安定した海流に乗ると、やがてそれもひっそりとした。

 水深五〇メートル、地球であればまだ光の帯が見えた深さでも、ニブルでは闇として完成している。もちろん、何が見えるわけもない。何がいるわけでもない。この星では生物は栄えなかった。


「これだけ水があったら、単細胞生物の一つや二ついそうなもんっすけどねぇ。小さくて見えないだけじゃないんすか?」

 エンドライトは、「地表があれば可能性もあったんだろうけどな」


 生命のいる星の代表といえば地球だろう。地球では、生命は海からやってきたとされている。カビが地表に上がり、植物が酸素を生み出し、遅れて海を飛び出した魚類が進化して、地表を闊歩した。けれど実のところ、地表の作用はずっと前からあった。

 まず空に雲ができた。雲は雨を地表に降らすと、そこにあった様々な元素が海に流れ出た。代表例は、カルシウム。それは強い酸性だった海を中和した。そのことが、アミノ酸や糖といった遺伝子の元が生まれる土壌を作ったのだ。


 クリップキャットは不思議そうに、「でも、それだけじゃないっすよね?」

「パンスペルミアか?」

「まあ、そうっすね。パンスペルミア……」


 パンスペルミアは、生命の材料となる有機物が、宇宙のどこか別の場所から運ばれてくる一連のプロセスを指す。自然的な宇宙であれば、宇宙塵や彗星などが運ぶとされている。もちろん、そこから一連の科学作用が始まらなければ、有機物が有機生命体になることはない。


 ガラップは、地球への望郷を思い浮かべようとして上手くいかず、適当な調子で言った。「まあ、材料だけあってもな」


 実際、初期の国家はいくつかの惑星でパンスペルミアを試しているが、全て失敗に終わった。もちろん、あらゆる環境一揃いと、膨大な時間があれば不可能ではない。しかし、国家の試みは、自然な形で放置して、生命が文明に至る過程を観察することだった。最初の一歩を除いてあらゆる干渉をしない。その結果が教えたのは、生命がいかに奇跡的な存在であるかということだ。

 

「国家のパンスペルミアが大体失敗してることは知ってるっすよ。でも、にしては生命のいる星って多いっすよね?」

 エンドライトは、「……多いって言っても、これまでに国家が発見したのは数百ちょっと。宇宙全体の星の数と比べれば、十分奇跡的だろ」

「それはそうなんすけど、なんというか、直感的に」

「まあ、気持ちは分かる」ガラップは頷いたような気持ちで、「探索者の残骸探しは、基本的に生命や文明の痕跡がある星に限られるから、仕事ばっかりしてると『思ったより生命って多いな』ってなる」

「そうっす、そうっす。だから、なんとなく居そうな気がしてくるんすよ、この星にも。さっきから、私たち以外の音もしてるし」


 水深二〇〇メートル、暗闇の世界を探るのは音と触覚だ。全身に細かく生えそろった体毛が感覚器官となり、海の流れを捉える。そして音を捉えるのは、平衡胞というバランスを知覚する機関だ。とはいえ、それは音楽を楽しむには聞ける音階が少なすぎるという弱点もある。きっと、同じ音の聞こえ方も人間の肉体だった頃とは違うのだろう。確かに、生命の発する音──クジラの泣き声に近い──はガラップにも聞こえている。けれどそれは、海上で荒れ狂う水蒸気の音かもしれない。あるいは、ただの波音かもしれなければ、氷塊同士がぶつかる音かもしれない。答えを求めるには、タコであるアイデンティティに加えて、タコである経験が必要だ。このたった一度のダイビングでは足りないほどの。


 ガラップは考え過ぎることのないように、「そうだな、もしかしたらいるかもしれない」そして、数千年この星にアトリエを構えていたエンドライトが何も言わないことに何かを察すると、「速度を上げよう。この隙にアトリエが破壊されたらたまったものじゃない」

「分かったっす」


 水深一〇〇〇メートル。三〇分ごとの音響測深の、三回目の反応が返ってきた。目標物と見られる物体は、やはりガラップたちと同じ海流に乗って動いている。潜水そのものは極めて順調だった。


 しかし、エンドライトは不安に駆られている様子だった。「……三回目でも同じか」

「そうっすね、超順調って感じっすけど。何か問題でも?」

「……アトリエは真球に近い形状をしている」

 ガラップは、「ああ、探しやすくて助かってるよ」そして高温で分厚い氷塊が、それぞれ無骨な大きさであることにも感謝を示し、「カンバスに一点だけ黒い絵の具を投げたみたいだ」

「本来のアトリエなら、な。俺の予想じゃ、氷塊かなにかにぶつかって破損し、あとは水圧の影響で形がかなり崩れてると思ってたんだが……」


 ガラップは、その話にハッとした。確かに音響測深は真球を示している。もちろん、潜水艇から発せられた音波の反射を図示した結果であるため、扁平な形状に潰れたのであれば同じ結果になるだろうが、それはそれで偶然にしては出来過ぎている。


 すると、突然にクリップキャットから、個人間通信の申請が届いた。エンドライトに聴かれたくない会話ということだ。


 ガラップがそれに許可を出すと、クリップキャットは不安げに『それなら中の芸術品も無事じゃすまないっすよね? そういう想定なら、そもそも個人レベルのサルベージに留める理由も……原因究明でもないんすよね』

『何か、芸術品が破損しない特別な仕掛けがあるのかもしれない』ガラップは、そう言いながらも、違和感を押さえられずにいた。

 クリップキャットはそれを目敏く指摘する。『それなら、取り出すのに特別な道具が必要になるはずっす。でもそんなもの受け取ってないし……妙に報酬が大金だったのも、今思えば怪しいっすよね』

『……とにかく、アトリエに追いつかなきゃ何も言えないだろう。諸々の判断は、実物を観測してからだ』


 間もなく、水深二〇〇〇メートルに到達する。

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