第4話 八九七五年十一月二十九日 ①

「神を信じてみた気分はどうだったの? ガラップ」

「別にどうもしないよ。ただそういう気分になっていて、今は違うというだけの話だ」


 ガラップは公共環境61A8の自然公園のベンチで、ハロートの質問に答えていた。その植生はソテツやガジュマルといった、亜熱帯雨林のバイオームであるが、気温湿度は過ごしやすい地中海洋性気候を模している。そのちぐはぐさを理解しながらも、仮想環境という仮面をはぎ取る致命的な違和感として立ち上がらないのは、やはりアイデンティティの変更による影響が大きいだろう。もちろん、たったそれだけの話ではない。つまるところガラップは、気の置けない知人との会話が、違和感を忘れ去るほどに楽しかった。


「そんな誰でも言えそうなことは聞きたくないわ。連続した自意識に違和感がなくても、記憶との齟齬はあるでしょう? あるいは、後悔と言い換えてもいい。なにか、そういうアイデンティティの変更による失敗はなかったの?」

「それは……あった」ガラップは恥じ入った様子で、自らの記憶を漁った。「それも、致命的なやつ」

 ハロートは爛々と目を輝かせて、「それは、いったいどんな?」

「……教会に杖を渡したんだ」ガラップは苦笑いを浮かべて、「もしあれがなければ、今頃こんな苦労はしていないだろうね」


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「まず間違いなく、その選択は後悔を生むよ。キミの正常な精神図面は私のもとにある」クルルは怒りと心配がないまぜになった声色で、「いいか、絶対に後悔するぞ」

「きみは教会を恐れているのか?」

「恐れているのは、友人が出来もしない時間遡行を夢見ることだ。それは一生の後悔になる。はっきり言って、今のキミのアイデンティティは最悪だ。そのものが、って話じゃない。今の状況と徹底的に合っていないんだ。頼むから、私の言う事を聞いてくれ」


 ガラップは、何が彼女をここまで感情的にさせているのか全く分からなかった。いや、原因は分かっている。露骨に彼女が不平を口にしたのは、ガラップが発掘した他の恒星間文明の遺物に『神の杖』と名付けたときだ。それでも、それが彼女を不機嫌にさせる因果が分からない。教会に類するものとして、その名称にいったい何の不満があるというのだろう。

 次に彼女が声を荒げたのは、『神の杖』をバックパックのボックスに収めた時だ。


「キミは異文化交流の最優先チケットを手放そうとしている」

「教会なら、きっと有用な活用法を見出してくれるだろう。僕たちには過ぎた代物だ。回収機の荷物は結節点で教会のチェックを受ける。その時に、教会はきっとこれを見つけ出して──」

 クルルは憤慨して、「勝手に私を含めるな」そして大きく息を吐くと、「なら私に譲ってくれ。私は、国家以外の恒星間文明に興味がある」


 一瞬、ガラップは彼女の普段の誠実さを想って心が揺らいだ。クルルに杖を渡すべきだと、記憶が叫ぶ。しかし、次に訪れたのはアイデンティティに由来する忌避感情だ。

 

 ガラップがクルルを無視して、ボックスにジェットを備え付けようとすると、彼女は焦ったように、「今すぐキミを基底状態にしてもいいんだ」

「やってみなよ。そのあと、君が『神の杖』回収しにくるのか? どちらにせよ、地球に来るにはワープ機構が必要で、ワープ機構の利用にはアイデンティティの変更が不可欠だ。これはキミの主義を歪めるほどのものなのか?」

「むしろ逆だ」クルルは凛としたまま感情的に言い放った。「私の主義が正しいと思えるためには、他文明との接触が必要なんだ」


 その時、ガラップの内側で、アイデンティティの破裂する音が聞こえた。直後に、緊急伝達経路パスが接続され、意識の隅々まで侵されていくような気分になる。

 基底状態への移行だ。瞬時にそう理解し、ガラップは即座にジェットを起動した。基底状態への移行は、励起状態への移行と同等の時間がかかる。

 言葉を尽くしても、あえてクルルに『神の杖』を渡す動機は見当たらない。あるとすれば友人関係のプレゼントとしてだが、果たして自らのアイデンティティを歪めてまで、友人に渡すプレゼントに意味はあるのだろうか。


 すでに発射体制に入り、ボックスの数メートル以内が危険域になった頃、ガラップは自らの間違いに気づいた。指先から、現状に対する違和感が流れ込んでくる。


「っ、まさか、バックアップにパスを繋げさせたのか!?」

「正常な精神図面をキミにコピーさせた方が、基底状態への移行よりも数倍早い。キミは知らないだろうけれど、こちらには移行途中だったバックアップが一体ある。そして、こちらのガラップは私に同意してくれているよ。この意味が全く分からないキミじゃないだろう」


 脳が焼けただれていくような感覚に苛まれ、クルルの言葉に上手く返すことが出来ない。言いたいことがある筈だった。神を知り、神を信じ、地球文明の速度で生きていた、気がする。しかしガラップは、決してそんな風ではないのだ。少なくとも、今は。


「マズい」ガラップは目が覚めたような気分で立ち上がると、熱気を放って上昇するボックスに手を伸ばした。「ああっ、くそっ!」

 

 手は宙を切り、ボックスは空に昇る。近くにあった手ごろな大きさの石を拾い、投擲とうてきしてみたがそれも外れた。間もなく、教会の回収機に飲み込まれていく。


 ガラップは呆然とその様子を眺めながら、吹き抜けた夜風に身震いした。全身が冷えていく。ここまで宇宙を遠くに感じたことはない。


「まだ、方法はある」クルルは決意を秘めた声で言った。「結節点に向かう。地球近くの施設からワープしたのなら、向かう先は限られる……いったい誰からの依頼だったんだ?」

「……恐らく、レフレイ・コーレン、もしくはエンドライトか、ホーラか、コリンズかもしれない。教会を通しての依頼だったから、誰ってわけじゃないんだ。ただ文明の残骸を好んで使うような芸術家はその辺りだろう」

クルルは、「わかった」そして申し訳なさそうに、「後のことは任せて欲しい」

「任せるって、杖の行方を追うことを?」

「そう。だから、後の仕事は……キミのバックアップに引き継ぎたい。給料もいらないよ。教会に気取られないように結節点に向かうんだ、今すぐにでも動きたい」

「それなら、僕も一緒に──」

「キミがすべきことは」クルルは食い気味に言った。「まず、仕事だ。下級市民のキミが、全てを捨てるつもりがないのなら」


 その一言に気圧されて、ガラップは黙り込んでしまった。けれど中級市民である彼女も、ガラップよりいくらかの余裕があるとはいえ、身を焼く覚悟が必要だろう。身を固める安定性は、新しいモノを求めるには無駄な脂肪にしかならない。

 市民の階級は産まれに由来するランダムで決まる。クルルは中級市民として設定されて国家に産まれた。ガラップは下級市民として設定されて国家に産まれた。数百から数千ミレニアムの間、変わらなかったものを変えるには──階級差を覆すには──国家に所属する誰よりも先に、新しいモノを発見しなくてはならない。その為には、誰しもが閲覧できるライブラリの知識と、同じプロセッサによって動く別人格の深い思考の間隙を縫って、誰よりも先に進むことが求められる。

 クルルが求めるのはその覚悟だ。国家の全てを騙す覚悟。そこには当然、友人、知人、周囲の環境を含んでいる。


「私は上級階級になりたいんだよ、ガラップ。不変漸近主義ではなく、真の不変を手に入れたい。今のキミなら私の気持ちが分かるはずだ」


 かけるべき言葉に迷っているうちに、クルルの通信は途絶えた。そのうち、バックアップのうちの一体が通信に現れ、先の業務を引き継いだ旨を知らせた。

 ガラップは地球に居たからなんのアクションも起こせなかった、なんてことは言い訳にすらならない。全く同じ気持ちを宿した自分自身がクルルのそばにいて、彼女が単身で結節点に向かうのを見逃したのだ。


「まずは仕事を終わらせよう」どちらかのガラップが言った。「……そうだな」どちらかのガラップが答えた。


 ガラップにとって、どちらが後発の自分であるかは重要ではない。どうせ地球に居るガラップも、いつかの探索で作られたバックアップだ。本来、自分同士に言葉は必要ない。それでも声に出したのは、現状を正しく認識するためだ。


 地球の夜は静寂とは程遠い。風切り音と、葉擦れの音。虫と動物の鳴き声。衛星は太陽光を反射して、恒星は遠方から存在をほのめかす。

 大切なものを落としてしまったような気分だった。自然が心の隙間を埋めることはない。彼らにできるのは徹底的な蹂躙のみで、文明由来のガラップはそれに抗うことでようやく生きることが出来るのだから。

 

 探索を続けて、およそ三年が経過した。ガラップは当初の予定通りの量の残骸を集め終えると、地球の肉体を基底状態に移行させた。故郷のプロセッサに戻ると、クルルの個人環境を訪ねたが、扉が開かれることはなかった。

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