幕間 結節点
公共環境に出入りする為のパスは、すべての市民に無差別に配布されている。ただし、公共環境内における、オブジェクトの変更権限については、国家の許可が必要だ。
この日、レフレイ・コーレンは公共環境8Cの中央広場の噴水から飛び出す水飛沫が気に入らず、オブジェクト変更に関する申請を願い出た。
「飛沫のおよそ三割が中空で消滅している。循環方式の噴水を模しているにもかかわらず、それだけの無駄を許容した設計はいかがなものか。オブジェクトの変更を申請」
実際のところ、この噴水は循環方式ではない。もっと正しく物事を捉えるのであれば、そもそも噴水ですらない。クロード・モネの『睡蓮』を指さして、それを『絵画』と呼ぶのであれば、この噴水は『仮想空間』と呼ぶべきだろう。星と星の間の何もない空間を漂う、扁平な形状のプロセッサ内部で作り上げられたこの環境は、現実からの影響を何一つ受けることはない。たとえこのプロセッサが隕石の衝突や、白色矮星の死の瞬間に巻き込まれたとしても、そこで暮らす市民、個人・公共環境の全ては、国家内部の情報をすべて記録した『歴史』からコピーされて、宇宙空間のどこかで動く別のプロセッサで再起動される。再起動は現実時間ではそれなりに時間がかかるが、市民の主観時間では瞬きとなんら変わらない程度の断絶しかない。
宇宙に散らばった二百億個のプロセッサは、それぞれがそれぞれの旅で自己増幅すると、いまではとても数える気になれないほどに膨らんだ。国家が消滅するとすれば、それは宇宙の熱的死によってだろう。
「この程度の変更が、プロセッサの処理速度に影響を及ぼすのなら、恒星間文明なんぞ最初から成立しない。オブジェクトの変更を再申請」
仮想空間は噴水一つを取ってみても、完璧とは程遠い。これまでの恒星間航行を終えても、まだ国家は発展途上だ。それでも、あえて穿った見方をしなければ、あるいは気にならないようにアイデンティティを変更すれば、違和感に苛まれることなく日々を過ごすことはできる。アイデンティティの変更を、もはや髪を切ること同程度の自己変革と見なしている国家からすれば、コーレンの申請は子どものわがままに近い。お前が変われと、国家は言う。それに従うばかりであれば、コーレンは芸術家などにはなっていなかっただろう。
「いい加減にしてあげなよ、レフレイ」噴水の前で苛立ちを募らせるコーレンに、彼の友人であるカラムはあきれ顔で話しかけた。「国家はもしものために余裕を残しておきたいのさ。たとえば、難民とか」
「難民? 数百ほどのプロセッサが同時に破壊され、その市民の再起動が一つに集中したとして、ようやく処理速度が一万分の一に減衰するという程度だぞ? 難民の流入が問題になるとは思えない」
「市民だけであれば、そうかもしれない。国家の想定は、現地文明の難民さ。彼らの精神図面が複雑であればあるほど、処理能力は割かれる。ほいほいとアイデンティティを変更できるほど、単純な生き物ばかりとは限らないからね」
「ふん、救世主気取りこそいい加減にするべきだろう」コーレンは鼻を鳴らして、「恒星間文明であろうと、そうでなかろうと文明は対等だ。教会に毒されたか、カラム?」
カラムは肩をすくめて、「俺の主義じゃなくて、国家の優先度の話だ。噴水の解像度が高いか低いかなんて、相対的にどうでもいいと判断するのは、そんなにおかしなことじゃないだろう? それに国家は救世主気取りでもない。求められたときに、首尾よく応えられるように準備しているだけだ」
「そんな理由で市民をないがしろか」
「市民はプロセッサを利用できるというだけで、十分に恩恵を受けているだろう? 自分で何とか出来るのに、他者に甘えるのは怠慢だよ」
「そうだな、市民に甘えて噴水ひとつすらまとも描画しようとしない国家の怠慢だ」
それだけ言って、コーレンはむっつりと黙り込んだ。ここで国家の運営について議論を尽くしたところで、なにも変わりはしない。もしかすると、気分を晴らすくらいのことはできるのかもしれないが、感情の起伏をこんなところで発散するのは、芸術家としてあるまじき行為だろう。コーレンは、不平不満、鬱屈、フラストレーションに類するネガティブ感情を扱う芸術家だ。
「ああ、そうだ」カラムは、腕組みをして俯くコーレンに言った。「別にこんな議論をするために話しかけたわけじゃないんだ」
「……いったい何のようだ?」
「君のアトリエに、教会から地球文明の残骸が届いただろう? 中身は
「残骸?」
それを聞いたコーレンは、カラムに気取られないよう、環境に描画することなくメールボックスを開いた。確かに配達を完了した旨の通知が届いている。アトリエは惑星メメントという岩石惑星に、物理的に存在している。地球からおよそ三百万光年程度離れた、コーレンの仕事場だ。この距離を縮めるのに、わざわざ教会を通して残骸の回収を依頼をした。神などという得体の知れないものを信望する彼らの主義は気に食わないが、銀河間を跨ぐには彼らの持つワープ機構が有用だ。コーレン本人は数百万年程度どうということはない。しかし、せっかく作ったアトリエが、大した作品も残せずに大自然に殺されることは避けたかった。
支払いは六万二千ハオ。そのうち半分ほどが配達料金で、残りが残骸を集めた探索者への支払いだ。無事に引き落とされたことを知らす文面には、わざわざ探索者の名前──ガラップ・エイル──が記されている。
「確かに届いたが……どうしてそのことを知っているんだ?」
「噂を聞いたんだ。まだあまり広まっていないけど、コリンズ、エンドライト、ホーラが同じことを言っていた。それなりに信頼できるよ」
カラムの挙げた名前は、みな知り合いの芸術家だ。コーレンにとっては、同志とも呼べる仲にある。中でもエンドライト、ホーラとは、衛星ひとつをカンバスに見立てて共同制作を行い、それなりの評価を得た。カラム自身は芸術家ではなく、多様なトラブルに対応する
そのような関係にある相手から仕入れた噂、それも解決屋に話したものとなれば、その内容はおおかた想像できる。
「芸術家界隈のトラブルか? いったいどんな?」
「トラブルといえばトラブルなんだけど、まだ可能性の段階だよ。なんでも、結節点で芸術家の荷物が、いくつか開けられていた痕跡があったらしい」
「なんだって?」
教会の持つワープ機構は、どこでも自由に行き来することが出来るわけではない。入口と出口にそれぞれ専用の施設が必要になる。そうしたワープ機構の交通網における、物流基地を結節点と呼ぶ。
「つまりは、教会が盗みを働いたと? あいつらにはゴミも同然だろう」
「いや、今のところ何か盗まれたわけじゃない。話を聞いた芸術家たちに確認したけれど、中身はきちんと揃っていたらしい。ただ、彼らの荷物の中に、ワープ機構の作動に使う人工元素が紛れていたんだ」
コーレンは考え込むと、「荷物の中に? なるほど、あれはワープに際して荷物に付着する。一度も開けていなければ外側にしか付かないが、結節点で荷物を開けることで、中に入ってしまった、と」
「そういう仮説は立てられる。それに、ランダムな荷物に元素が混じっていたわけじゃない。どれも地球から出発した荷物だったんだ。ほら、前に言っていただろう? 地球文明の残骸を教会に依頼したって。それで気になってね」
確かに、コーレンが受け取った残骸は地球文明のものだ。カラムがそれを気にするのもうなずける。
「なら、直接見に行くか?」コーレンはワクワクした気分でカラムに言った。「荷物はアトリエに着いているが、まだ中身は確認していない」
カラムは興味津々という様子で、「ああ! 頼むよ、レフレイ!」
コーレンはネガティブを題材にして作品を作り上げることが殆どだが、それは人付き合いを最悪にすることを意味しない。少なくとも、友人との暇つぶしは、噴水への不満を記憶の彼方にやるほどに好んでいることだ。
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