第2話「ちょっと宇宙人と交信してみようと思って」

 小鳥の囀りが心地よく響く、日の光輝く朝の時間。

 そよぐ風はさらさらと朝日を運び、木々の間を掠めて通りすぎて行く。

 そんな優雅なひとときは、ほんのささいな事がきっかけで脆くも崩れ去る事となった。


「いってぇぇぇ!! 」


 穏やかな時の波が流れるはずの朝の食卓は、ひときわ大きな打撃音が部屋中に木霊した事によりその様を消し、今は怒号飛び交うはちゃめちゃな食卓へと変貌してしまった。


「いだいっ! なにすんのさ! 」

「いつまでもグータラ寝こけてるテメェが悪い」


 夢見心地で、布団の中で冬眠中の子熊のように丸まっている環を引き剥がそうと、愛之助は掛け布団越しから環の頭を渾身の力を込めて殴ったのだった。


 頭にこぶを三つ作り、さすがに観念したかのように布団の中からもぞもぞと這い出てくるその様は、さながら芋虫の様である。


 こぶをさすさすと涙目で擦りながらこちらをキリッと睨んでくる存外可愛らしい芋虫をしっしっと手で追っ払いながら、愛之助は呆れたかのように一つため息をついた。


「昨日言っただろうが。今日はバイト休みだから、お前の事色々調べるって」

「あー、何かそんな事言ってたね。テレビ見てたからあんま聞いてなかったけど」

「………」


 確かに昨日、テレビに集中している環に声をかけたが、今思えばかなり上の空という感じの返事をされた気がすると思い出す。

 愛之助は顔のパーツをセンターに寄せ集めた梅干しのような顔でイライラを押さえようとした。

 元々短気な愛之助にしては、忍耐強い方だと拍手を送りたい状況である。


 しかし、「ふぁー、二度寝二度寝」とふざけた事を言いながら再び布団の中で冬眠の子熊になり果てようとしている目の前の青年についに痺れを切らしたのか。


 気づけば、愛之助の硬くギュッと握られた拳は再び環の脳天にめり込まれていたのである。

 まさに、頭蓋骨が粉砕するのではないかと言うくらいの、強烈な一撃だった。

 そんな事をされてしまえば、耳をつんざく絶叫が響き渡るのなんて至極当然の事であった。


「いってぇぇぇ!! 何でそんな暴力振るうのさ! そのうち罰が当たるよ! ズバリ! 毎晩夜中にシンクがベコッて急に鳴って地味にビクッってする刑に処されろ! 」

「本当に地味な罰だな。あとそれシンクに冷たい水を流しっぱなしにしないで熱湯とか急に流した時に鳴るやつだからな」

「えっ、そうなん」


 テレビでよくやっている雑学に、確かそんなような事を説明していた著名人がいたな、と愛之助はぼんやりと思い返す。ちなみにシンクの冷たさと室温の暖かさの違いでもなるらしい。

 ボケッとその時のテレビの内容を思い返していた愛之助の耳の中に、彼にとっての爆弾となるであろう言葉が放たれた事で瞬時に目を覚ます事となった。


「昨日の昼カップ焼きそばのお湯捨てたら急にベコッて鳴ってびっくりしたから、あーくんにもあの地味な怖さを味わってほしかったのに」

「…もしかして、俺のお気に入りのやつ…」


 そう。愛之助は隠していたのだ。

 それも食器棚の奥、(元々一人暮らしなので隠す必要もないのに)誰にも見つからないようなところにそれを隠していた。


 はずだった。


「ん? あれあーくんのお気に入りだったの? カップ焼きそば濃厚チョコレートファウンテン、マシュマロとイタリアンプリンの激甘ガツンと一杯味」


 その商品名を聞いた途端、愛之助はがっくりと膝を地面に落とし、両手で顔を覆って全てを拒絶するような体制を取り始めた。

 いきなり地面に屈してしまった愛之助の様子を見て、「え、そこまでショック? 」と目を見開いて驚く環。

 元々大きな蒼色の瞳がさらに大きく開かれたことにより、よりいっそうその蒼の深い深い底に光る水晶体がキラッと一筋輝くが、今の愛之助にそんなものを見る余裕はない。


「…食ったのか…俺のとっておきを…期間限定でもう売られてないあの焼きそばを…」

「うん、それしか食べるもんなかったから。てかやばいねあんなの好きとか。俺不味すぎて死ぬかと思ったのに。まあもったいないから頑張って完食したけどね」


 カチン。

 愛之助の脳ミソの中から、何かのカウント音が聞こえる。

 そんな音が気づかれることは当然なく、再び地雷が踏まれる。


「もしかして君って味覚オンチ? そういやふにゃふにゃのきゅうり美味しそうに食べてたしね」


 カチン。カチャン。

 カウントがゼロになり、完全に怒りのボルテージが最高潮に達する愛之助。

 そのままガシッと環の首根っこを掴んで、いつぞやの時のようにバタバタと喚くこの「殺ル気スイッチ」男をずるずると玄関まで引き摺っていく。


「……今すぐ近くの寺に行くぞ」

「まってまって! もしかして俺の事除霊するつもりでしょ!? 嫌だよ無理やりお祓いされちゃうのなんて! 」


 環の必死の声色と、本気の焦燥を感じとり、愛之助は早めていた足をピタッと止め、とりあえずひっ掴んでいた環の襟元を離してやった。


 そそくさと愛之助の元から少し距離をとる環だが、自分が目の前のゴリラ男を怒らせた事に対していっさいの罪悪感も感じていないのか。

 両手の手のひらを合わせて自身の顔の前まで持っていき、こてんとあざとく首をかしげながらうるうるの瞳で愛之助を見つめた。


「ね、許して? 」

「………」


 整いすぎた美麗な顔とあざとさマックスのしぐさのコンボを目の当たりにし、さすがの朴念仁である愛之助もぐっと息を詰まらせる。


 性格はクソウザいが、顔だけは可愛い。

 もうこの可愛さで正直お腹いっぱいだから…と、愛之助が本格的に怒りのボルテージを沈めかけたその瞬間。


「あっ、そうだ! お詫びにヌいてやるからさ! 俺、記憶なくてそういう経験あるかわかんないからできるか不安だけど、何てったって生粋のオナニー好きだしまあ頑張ればできるっしょ! 」


 再びの地雷が踏まれてしまう。

 それはもう、革靴でタップダンスでも踊っているのかというくらい、踏まれてしまった。

 愛之助のこめかみから、再びビキッと引きちぎれた音がする。


「ほれそうと決まればさっさと脱いで脱いで。口がいい? それとも手コキ?あ、ローションガーゼとかは? 」


 未だ全く、この地獄の業火にぶち込まれたかのような最悪な雰囲気漂う状況に一ミリも気づく気配のない環。

 完全に自身がこの地獄を作り出している当事者なはずなのに、いっさい気にする素振りすらみせないこのユーレイに、また一つ鉄拳が下ろされたのであった。


「ぎゃあああああ!!! 」








「ごめんごめん。んで、何だっけ? 俺の事調べに行くんだっけ? 」

「おう」


 時は少し進み、朝食の時間。

 出汁のきいた綺麗な断面の卵焼き、根菜の煮物、きゅうりの漬物、そして湯気の立った具だくさんの味噌汁に、ほかほかのごはん。


 味覚オンチのわりに料理は普通に出来る愛之助が作った、まさしく朝の食事としてはお手本のように綺麗に並べられた料理たちを前に、環は未だ眠気を堪えるかのように目をこすりながらふぁー、と大きなあくびをする。


 人がせっかく早起きして頑張って作ってるというのに…と若干こめかみの血管がピクッと動いてしまいそうになりつつも、愛之助は目の前のボケッとした青年に「はよ食わんと食事下げるぞ」と脅しのように声を少しだけ低くした。


 脅迫のようなそうではないような、微妙な雰囲気を察知した環はようやく目を覚まし、「…いただきます」とやっと箸を手に取ったのであった。


 しばらくは黙々と食べ進めていた二人だったが、下品にも肘をテーブルにつきながら卵焼きに小さくかぶり付く環が、んー、と悩んでいるかのような細い鼻濁音を奏で出す。


「つってもね~。俺自身なんにも覚えてないから、どこから当たればいいのやら」


 環がうんうん唸っているのに対し、漬物でごはんを口に掻き込んでいた愛之助はピタッと箸を止め、環と同じように唸りながら悩み出す。

 そこで、はた、と「そういえば」といった表情を浮かべる。


「そもそも何で俺の部屋で目を覚ましたのかってのも疑問だな」

「それなんだよね~…あっ」

「何か思い当たる事でもあったか? 」


 お互いうーんうーんと朝食を前に悩んでいたが、環が突如として何かがわかったかのような声を出す。

 何か重要な事を思い出したのかと、愛之助はその耳朶が分厚く大きい耳を済まして集中し、何を言われても驚愕はしないと心に言い聞かせた。

 が、そんな愛之助の覚悟は、環の言葉により一瞬で粉々にくだけ散る事となる。


「きっと、あーくんが本当はめちゃくちゃ優しくてお人好しで、俺の事を助けてくれるからって神様がここに降ろしてくれたのかもね」


 ふわっ。

 そんな効果音が部屋の中を包むようであった。


 朝の眩しい光に照らされながら、花が綻んだような、儚い、それでいてどこか蠱惑的な美しい笑顔が愛之助に真っ直ぐ向けられていた。


 蒼い瞳は、どこまでも続く海のような深みを抱きつつ、太陽を覆う晴天の青空のような晴れやかな美しさをも宿している。

 それでいて、絹のような長い睫毛や、珠のように滑らかで真綿のように白い肌、黒曜石のように艶やかな黒い髪の毛など、全てのパーツが見事なまでに飽和しており、極上の麗人として仕立て上げていた。


 そんな麗人が、艶やかさを込めた瞳で愛之助をただただ真っ直ぐに見つめて来るので、さすがの朴念仁も顔をリンゴのように真っ赤にしてプイッと顔を反らした。


「…たった数日一緒に暮らしただけで俺の何がわかるんだよ」

「わかるよ。だってこんな怪しい俺の事、こうやってここに置いてくれてるんだし。ちょっとコワモテだけど、それもまたギャップというか」

「自分が怪しい奴って自覚できたのかよ」

「まあ、さすがに客観視してみたら俺ってマジやばい奴だなとは思ってるよ」


「自覚できてんならもうちょいまともになれ」との言葉は面倒くさいのを回避するために言わないでおいた愛之助であったが、今さらのような気もする。


 味噌汁をずずっと啜り、ほぅ…と一息ついた所で、環は再び先程までの儚さ艶やかさはどこへやら、今度は無邪気な子供のような笑顔で愛之助へ語り出す。


「どうしよー、神様論がガチだとして、俺いつか天界に連れ戻されちゃうのかねぇ? 背中に両翼が、こうバサバサッとカッコいい感じに生えてる天使になっちゃう! 」

「天使というより疫病神とか天の邪鬼とかの方がお似合いだと思うわ」

「ガビーン!! 」


 ズバッと愛之助に神様論を否定され大袈裟にショックを受ける環だったが、どこぞの大根役者だと言いたくなるようなその反応に愛之助はガン無視を決め込んだのであった。







 なんやかんやあって朝食を終えると、今度は出かける準備を万端にした。

 あとは、外へと出るだけだ。


「…とりあえず、まずはその辺ブラブラして見覚えがないか見て回るぞ」

「おー! 」


 鏡の前でさらっと髪の毛を整えていた環が、鏡越しに愛之助を見つめながら元気よく返事をする。

「いやコイツ俺以外に見えないのに整える必要ねぇだろ…? 」と若干の憐れみを含めて愛之助は環を見つめるが、当の本人はのほほんとした雰囲気でドヤ顔を鏡の前で決めている。


 さて、環の準備も終わり、玄関へと足を運ぼうとした所で、環が何かを思い付いたのかというように声を挙げた。


「あっ! ちょっと待って! 外に出る前に1個やりたい事がある! 」


 そのままドタバタとキッチンの方へ向かうと、ガサゴソと戸棚を漁り出す。

 これから出かけるっていうのに、果たしてキッチンにこれから必要になってくる物なぞあったか?と愛之助が頭にはてなマークを浮かべていると。


「あった! 」


 何かを見つけたかのようにキラキラした笑顔で愛之助を振り返る環。

 その愛らしい笑顔に不覚にも心臓がギュンッと豪快な音を放つのを諌めながら、愛之助は環が先程見つけたであろう手にしている何かに視線を送ってみる。


 …あれは、どうみてもアルミホイル。


 なぜアルミホイル? と呆けた顔をする愛之助には目もくれず、環はそのアルミホイルをビーッと大量に引き出し、そのままペタペタと何かの形に成形し出した。

 かなり大量のアルミホイルを使われた事によるもったいない精神が沸き起こらないでもなかったが、愛之助の今の感心の向き処は環の手の中にある得体の知れない銀の創作物であった。


 少しの間、アルミホイルをいじっていた環が「できた! 」と叫ぶ。

 そして、半円形に成形されたそれをパカッとそのサイズの小さい頭に帽子のように被り、何やら両手のひらを合わせてムムムっとお願い事をし始めた。

 ちなみに半円形の創作物の頂点には、これまたアルミホイルで作られた細い棒状のような何かがアンテナのように天高く伸びている。


 意味のわからないちんちくりんな事をやっている環に、今まで黙ってその様子を眺めていた愛之助は、おそるおそる今までの思いを総括した質問をしてみる事にした。


「…何やってんだ? 」

「ちょっと宇宙人と交信しようと思って」


 そのあまりにも幼稚な返答に、ただただ絶句する他ない愛之助。

 出会った時から、色情魔のくせに子供っぽい性格だとは常々思っていたが、まさかここまで餓鬼のような事をするとは。


 愛之助が心の中でのみそう呟き、未だポカンと口を空けて呆けているのを気にも留めずに、環はるんるんとでも歌い出しそうなテンションの高さで頭のアルミのアンテナをいじっていた。


「昨日テレビで見たんだよね~。『懐かしき! 昭和の宇宙人交信特集! 』って番組! 俺、ユーレイだしもしかしたら本当に交信成功しちゃったりして! 」


 なるほど。超絶くだらないが、一応動機はあったようだ。

 しかし、そういうのを抜きにしてもやはりやっている事は小学生がやるお遊び程度の物である。

 愛之助は心底呆れ返り、思わず自身の大きな掌で頭を抱えながら、目の前のでかいガキンチョに苦言を漏らした。


「…何でこうもお前はアホなんだ? 脳みそに何詰まってるんだ? え? そのちっこい頭にはわたあめでも詰まってんのか? 空気がたくさんでフワフワってか? 」

「ひでぇ! 頑張って俺なりに考えた策なのに! もしかしたら全知全能の宇宙人様が俺の事色々教えてくれるかもじゃん! 」


 失礼な!とムスッと顔を膨らませて愛之助を睨み付けるが、いかんせん目が大きい分、可愛らしさが勝ってしまいますます小学生にしな見えなかった。


 童顔、ダボダボタンクトップ、ハーフパンツ、裸足、アルミスペースキャップ…どう見たって、夏休みに田舎のおばあちゃん家に行って、遊びを満喫している小学生男子そのもの。


 こんなガキンチョがちゃんと本体を見つけられるとは到底考えられない。

「うちゅーじん!かもーん!」と窓を開けた空に向かって大声で叫ぶ環を見やりながら、愛之助は今後どうなっていくのかという不安を押し殺すかのように深い深いため息を長く吐くのであった。








 ようやっとあの宇宙交信ちんちくりん事件から解放され、愛之助と環は共に外を歩いていた。

 愛之助の耳にはワイヤレスイヤホンが挿してあり、更には左手にスマートフォンを握りしめている。


 その若者ぶった格好が何なのか興味津々な環は、キラキラと純粋そうな大きな瞳を向けながら愛之助のスマートフォンを突っつく。


「ねーねー、何でイヤホンなんかしてんの? 何でずっと携帯握ってんの? 」

「こうしておけば、外でお前と会話してもただ通話してるだけって周りの人に思わせられんだろ? お前、他の人には見えないんだし」

「なるほどねー。でもイヤホンしてて俺の声聞こえるの? 」

「問題ない。俺は昔から目も耳も鼻も人よりかなり利く」

「たはっ! それに加えてゴツいしデカいし怖いし力強いしで、マジ野生動物みたいじゃん!そのうちジビエとして狩人にやられてスーパーに並べられちゃうぞー! 」

「……」


 こちらがいかに怪しまれないか考えた末に導き出した案を野生動物扱いしやがって。

 愛之助の今現在頭の中は、いかにこの目の前の美丈夫をギャフンと言わせられるのかという思いでパンパンに詰まっていた。


 そんな事は露知らずに、環はいつものような飄々とした態度で口笛まで吹き出す始末である。

 愛之助がふつふつとこめかみに青筋を立てていた時、ふと思い出した事が一つ。


「そういや今さらだが、俺以外の人にはお前の事が見えないけど、その辺の物とかに触る事は普通にできてるよな」

「? ほんとに今さらすぎるじゃん、今まで俺が何枚のティッシュを犠牲にしてきたと思ってんのさ」

「…もう突っ込むのは止すけど。じゃあ、お前の事が見えない人の目の前で、お前が物を動かしたりしたら周りの人どんな反応するんだろうな」

「あー、それはね…」


 そう言い終わるや否や、環はひょいっと軽やかな足取りで通りすがりの人間たちの前に降り立つと、その手に持っていたスマートフォンやらバッグやらを勢い良く引ったくっては宙へ放り投げ出した。


 目の前でピョンピョコピョンピョコ飛び交う様々な私物を目の前に、人々は甲高い悲鳴をあげてわたわたと慌てふためく。


「きゃあ! 」「な、なんで私のスマホが宙に浮いてるの!? 」「ポルターガイストだ! 」


 なるほど、こういう原理でポルターガイスト現象っつーのが存在すんだな。

 などとその様子を呆けたように見つめながら愛之助が物思いに耽る。

 この数日間で散々ティッシュやら食べ物やらを散らかされた苦い経験のある愛之助からしてみれば、目の前の光景はふざけた小学生が大人にイタズラしているようにしか映らない。


 呆れからため息をはぁ、と一つ溢す愛之助の元へ、満足したかのような表情を浮かべる環が戻ってきた。

 頭の後ろで手を組みながら若干得意気にしているその態度から、どうやらイタズラとかいう意識はさほどないようだ。


「…とまぁこんな感じで、心霊現象扱いされる…ちなみに俺が人に触ろうとすると、こんな風に貫通する。ズバッズバッ! 」

「…やめろ。何か見てて不安になってくる」


 たまたま横を通りすがったサラリーマンの背中に容赦なくその細い腕を突き刺す環だが、それは無残にも背中から胸にかけてスルッと貫通してしまう。

 何も気づかずにそのまま立ち去るサラリーマンの背中を見つめながら、愛之助はよくわからないまま込み上げるゾッとした感覚を打ち消すかのように頭をブンブンと横に降るのであった。


 そこでまたふと、愛之助の中に疑問が湧く。


「じゃあこれも今さらだけど、お前が今着てる服とか他の人にはどう映ってるんだ? 端から見たら服だけ浮いてるなんて事もありえそうだけど」

「んー? …俺が目覚めた時には既にこの服一式と下着は着た状態だったんだけど、確かにこうやって歩いてても驚いてる人いないね。『透明人間が服着て歩いてる! 違う意味での変態だ! 』とかになってないとすると…すなわちこの服は俺と一心同体・これこそがまさに俺の相棒・いや相棒を超えてもはや本体そのものなのかも…!? 」


 すなわち、環が最初から着ているこの白いタンクトップや黒のハーフパンツ、その下に履いている下着などは、全て環の一部と言っても過言ではないようだった。


「あー、要は服もお前の身体の一部だから俺以外に見えてないって事だろ? にしてもパンツが本体の方がよっぽど扱い楽だわ」

「人を下着扱いするなんて心外であるぞ愛之助殿! 」

「うるせぇ。洗濯機ん中突っ込んで回すぞ変態下着野郎。ついでに乾燥機で1日中回して縮ませるぞ」

「ひどいな! 回すんならせめてフレアフレグランスの香りの柔軟剤入れて俺をいい香りにして! 」


 相変わらずマイペースな性格を貫く環にあきれ返り、諦めたのかもう何も言わなくなってしまった愛之助。

 そのまま早足で前へと歩を進め出してしまう愛之助に追い付こうと、環は慌てて前方の広い背中に向かって小走りをするのであった。






「…何か思い出したか? 」

「うーん…わかんない…」


 あれから家の周辺を歩きながら何か手がかりになりそうな場所や物があるか探索していたが、今のところは何の成果も得られずであった。


 初日からかっ飛ばしても疲れるだけだというのはわかっていたので、今日は一旦引き上げようかと愛之助が環に声をかけようとした時。


「あっ」


 突如として環の呆けたような声が小さく響く。

 その蒼く輝く瞳が一進に見つめる先には、こじんまりとした公園が一つあった。

 広くはない地面に、小さなブランコと砂場、滑り台や鉄棒などが設置されており、いかにも学校や幼稚園帰りの子供たちが遊び場として使うような所だ。


 何の変哲もないこの公園に、いったい何が?


「ここの公園に何かあんのか? 」

「いや、特に何かって訳ではないんだけど、何か懐かしくて」


 愛之助が問いかけても、特に何かを思い出す事はないらしい環はただ控えめな笑顔を浮かべるばかりである。


 ふと、公園に力強く生え揃う木々の間に埋もれるように設置してある、二人掛け用の木製のベンチが環の視線に入ってきた。


「…不思議だなぁ。…何だか凄く優しい気持ちになれる」


 ベンチを見つめながら、そよ風が漂うかのような優しさで溢れた声がその薄い唇から漏れる。

 まるで日溜まりのカーテンの中に包まれたかのような心地よさを感じながら、環がそのベンチからようやっと目線を外したその時、ふと目元にほんわりとした温もりを感じた。


「…環」

「ん? 」

「…泣くな」


 深海のような蒼い瞳から、とめどなく透き通った雫がほろほろと耐えを忘れたかのように流れ落ちていく。

 その事に環が気づいたのは、泣くなと言われて反射的に自身の頬に指先を触れた時であった。


「あっ…あ、れ? 何でだろうね…? 」


 ほろほろ。

 気合いで止めようにも、未だ止むことを知らない瞳の雨につられ、ひくっ、と環の喉がひきつるような音を醸し出す。


 ほろほろ、ひくひく。

 塞き止める事の出来ない涙と嗚咽。


 どうして、こんなにも懐かしく、こんなにも心を揺さぶられるのか。

 愛之助の顔を真っ直ぐに見る事ができずに思わず俯いてしまった環の柔らかい髪の毛を、大きな手のひらが一回、二回と優しい手付きで撫で付けてきた。


 その手に釣られて環が上を向けば、目の前には慈愛に満ちた、鋭くもどこか優しい色を宿した瞳と視線が絡む。


「ゆっくりでいいからな」


 優しい手付きや慈愛の瞳は、まさしく愛その物であった。

 愛といっても、そもそも二人は他人同士であり、別に「性愛」とか「友愛」、「家族愛」が芽生えている訳ではない。

 ただ、純粋なまでの「愛」そのものだった。


「…ほんと、あーくんって優しいんだね」


 自分が何者なのかもわからず、これから先がどうなるのか皆目検討もつかない状況の中、不安でいっぱいな環の心を溶かしていく愛之助。

 大きな手からは、無限の暖かさが頭の先から爪先にまで伝わってくる様だ。


 無償の愛に包まれながらようやっと環は泣き止み、未だ余韻を残す嗚咽を堪えながら目線より少し上にある愛之助の顔を見つめた。

 涙の跡でポテッとした紅く色づく涙袋や、雫で束に纏められた数多のぬばたまのような睫毛を至近距離に見やる形となってしまった愛之助の心中は、気が気ではなく、真っ赤になった顔を俯かせる他なかった。


なぜ、綺麗なだけが取り柄の男に、こんなにもドギマギしているのだろうと頭の中にクエスチョンマークを浮かべても、その真髄にたどり着く事はなかったのであった。







「…さっきの公園が結構なキーポイントになりそうだな」

「だね。他の所見ても、あの公園ほどピンと来る所なかったし」


 公園の後、近隣の施設や店を粗方回って見ても、環に関する情報はいっさい得られなかった。

 時間ばかりが過ぎ去り、夜も更けきた夕方。とりあえず今日は帰宅する事にした為、二人は今こうして家の玄関でいそいそと靴を脱いでいる。

 ちなみに環は裸足でも汚れる事なく歩き回れるため、家の中も外でも常に裸足で過ごしていた。

 さながらドラ○もんのようだ。


「まあ、まだ回ってない所いっぱいあるから、また俺がバイト休みの時に調べる」

「はーい、俺お腹減ったか早く飯作ってー!ママァ!」

「うるせー、俺はテメェを産んだ覚えはねぇぞ」


 そんな茶番を言いながらも、愛之助はふと環の横顔がいつもよりも湿気っているように見えるのが気になり始めた。

 ひょうきんな性格を表すかのように小さな口の広角は未だ上を向いてはいるが、瞳の奥には何も見つける事のできなかった悔しさが小さな炎となって揺らめいている。


 焦らず、ゆっくりと。


 そう言葉を紡ごうとし、その悲壮的な儚い表情を柔らげようと愛之助が口を開いて足を踏み出したその時。


 突如として、愛之助の足の裏に弾力のある何かが触れる事に気づいた。

 しかしあと一歩遅く、愛之助は止められない足をそのままにそれを渾身の力で踏み潰す。


 どうやら踏んでしまったのは環がオナニー用にと散らかしたみかんだったようで、愛之助はみかんの果汁を部屋中に撒き散らしながらそのままの勢いで背中から床へと落下する。

 無論、頭の中で「どうやったらみかんをオナニーのオモチャにできんだよ」という恨み事を呟く事を忘れずに。


 中学校の時に体育の時間で習った柔道の受け身を思い出しながら見事な受け身をとってみたはいいものの、背中を庇いすぎてどうやら足首を変な方向に捻ってしまったらしい。


「ぐぉぉぉぉぉぉっ!?」

「えっ!?なにどしたの!?」


 ぐぎり。

 人体から発せられるのはあまり推奨されないであろう痛々しい音と、落雷が一発落とされたかのような悲鳴が部屋中に響き渡り、環は思わず耳をムギュッと押さえ込んで顔をしかめた。


 対して愛之助はその場に勢い良く踞り、捻挫をしてしまった右足をゴリラ並みの握力で押さえ込みながら悲痛な悲鳴をあげる他なかった。


「イダイイダイイダイイダイダイ……」

「うわ、これは派手にやったねぇ…」


 だらだらと汗や鼻水やらを垂らす愛之助の様子に、さすがにさっきまで飄々としていた環が若干真面目な顔つきで愛之助の顔をジーッと見つめる事となる。


 環に怪訝と心配の視線を送られながらも、愛之助は数ミリしか残っていないであろう理性を振り絞り、環の蒼い目を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。

 心なしか、涙の膜で潤んでいるように見えるのが何とも滑稽に映る。


「…きゅう、きゅうしゃ…」

「オーケー!呼ぶのはまかせて!」


 愛之助の蚊の鳴くような掠れた声を難なく聞き取り、環は素早くベランダの前に立ち、そのままの勢いでガラッと窓を開け放すと、渾身の大声を腹から絞り出した。


「きゅうきゅうしゃあー!!!」


 バサバサ。

 電線に止まっていた小鳥たちが、その鼓膜を突き破るかのような声に圧倒され、次々と空高く羽ばたいて何処かへと行ってしまう。

 動物には霊感があるのか、とそんな呑気な事を考えている場合ではないが。

 そのあまりの声量に思わず耳をガッチリと抑え込み、声の振動で若干地響きを起こしているのではないかと疑う愛之助。

 お前は小学生か、という言葉が浮かんでは消え浮かんでは消え…。

 そんな彼にしか、この爆弾ボイスは耳に入って来ることがないのが何とも哀れな光景だ。


 シーン。

 先程の爆弾ボイスから一変。急にガランと静かになった部屋の中央で、愛之助はただひとり「はぁぁぁ~…」と盛大なため息をついた。

 呆れ、怒り、驚き、混乱…。

 まるで悪い方での感情の大博物館といった気分だ。


「…わかってたよ、テメェがそういう奴だって事くらい…」

「あーごめんごめん。ちょっとふざけすぎちゃった」


 ようやくイタズラ心が満足したのか、環は開けていた窓を閉め、とてとてと可愛らしい足取りで愛之助の元へと戻ってくる。

 そしてそのまましゃがみこみ、愛之助の痛めた足の付近をその大きな瞳でジーッと見つめた。


 愛之助の足首は、今や紫色に膨れ上がり、素人が見ても骨折、あるいは最低でもヒビが入っていてもおかしくはないような酷い状態である。


 本当に救急車を呼んでもいいだろうが、元々が善人である愛之助が「これごときに救急車を呼んでは、他の重症な人たちの助けが遅れてしまう」と拒否をしたため、この話はなくなった。

 さっきまで救急車と蚊の鳴くような声で呟いていた奴とは思えないほど、今の愛之助は先程の痛みなど気にしないとでも言うようにケロッとした表情で言い切っていたのが何とも漢らしい。


 しかしそうは問屋が卸さない。

 愛之助の態度とは裏腹にいかにも重症そうな本人を前に、環は呆れ返ったかのようにため息を一つ吐くと、そのまま部屋の奥にある押し入れの襖を開け始めた。


「湿布とテープある? 」

「…押し入れの、上段…」

「ほーい」


 素早く目当ての物を見つけた環は、下で未だ微動だにしない愛之助の手元に物が行くようにポイポイと軽く投げ渡していく。

 湿布、テーピング用のテープ、氷のう、新品のフェイスタオル…氷のうまであったのかと驚きながら、引っ越し準備を家族でしている時に母親が段ボールの奥底にしまっといてくれたんだなぁ…と懐かしさでほわほわとする愛之助であった。


「とりあえず氷のうで冷やしときなよ、俺用意してあげるから。あ、あと湿布出しといたけど氷のうの後にやるんだぞー」


 そう言いつつ、環は冷凍庫から氷を取り出して氷のうの中へ水と一緒に入れたり、それを薄目の生地のフェイスタオルでくるんだりする。

「若い奴にしては要領いいな?何かスポーツやってたんかな?」とその手際の良さに若干の違和感を抱きながら愛之助がボーッと見つめてくるのが面白かったのか。


 環はクスッと小さな笑い声を一つ漏らしながら、タオルにくるまれた氷のうを愛之助のむき出しの患部にそっと当ててやった。

 その少し刺すような冷たさに一瞬肩を浮き上がらせる愛之助だったが、タオルのおかげでダイレクトな冷たさにはならずに済み、そのうちだんだんと痛みが氷のうへと吸い取られていくかのように楽になっていった。


「どう? 痛い? 」

「…さっきよりかはマシになった」

「良かった。断末魔みたいな声だったから、本当に救急車呼ばないといけないかと思った。まぁ携帯使えるとしても、俺の声届かないから無理かもだけどね」


 言いながらクスクスと無垢な子供のように笑う環を見ながら、愛之助は未だボーッとする頭で今日の出来事を振り返ってみる。

 今日も今日とて、昨日のように波瀾万丈な日であった。それに加えて怪我までしてしまうとは。

 何てついていないんだ、と心の中でのみ呟きながら若干のしかめっ面を浮かべる愛之助がますますおかしかったのか、環は元々上がっていた口角を更に上にあげる。


「今日はお隣さんいなさそうで良かったねー。あーくん大絶叫だったから。今回は俺のせいじゃないからちょっとつまんないけど」

「…最後の余計な一言は聞かなかった事にすっけど。マジ、すまん。迷惑かけた」

「いいってこんくらい。気にしないで」


 いつも怒鳴ったり壁を叩いてくるオッサンが用事かなんかでいないのは助かったとして、ここまで丁寧に治療をしてもらえるとは思わなかった愛之助は、素直に頭を垂れて環に謝る。

 力になってやる、と決断しといて逆に迷惑をかけてしまうなど、男としての恥だとばかりに心の中で自分を追い詰める愛之助の心情を察してなのか、環は先程の生意気な笑みから穏やかな笑みへと表情を変える。


 まるでそれは、大丈夫だから安心してと訴えているかのような表情だ。

 その色香を含んだ儚い笑顔に、今日何度めかわからない心臓の高鳴りを覚え、愛之助は思わず小麦色の健康的な頬を仄かに赤く染めたのであった。






 次の日。


 元々バイトの朝番のシフトが入っていた愛之助は、まだ夜も明けていない仄暗い町に繰り出そうと玄関で靴を履いていた。

 そんな愛之助を、眠そうな目を擦りながら見つめる環は、心配だと言わんばかりの表情を浮かべている。


「バイト大丈夫そうなの? 」

「歩けない事はないから、行く。職場にめちゃくちゃ迷惑かけるかもだけど。金稼がなきゃいけねーしな」

「あんまり無理しないでよね。バイト終わったら必ず病院に行く事! 」


 環の珍しく真剣そうな声色を察し、愛之助はわかってると言わんばかりにその黒く艶やかな猫っ毛を優しく撫で付けた。


 正直、昨日の事で少し不安定になっているであろう環を一人にさせてしまうのもどうかとは思ったのだが、本人が「か~ね~か~せ~げ~!に~とはゆ~る~さ~ん!」と呪詛を唱え出した為にそれが叶う事はなかった。

 心配してるのかしてないのか、よくわからないが。


 愛之助はその手触りのいい黒髪から名残惜しくも手を離すと、若干後ろ髪を引かれる思いで玄関を後にした。


「いってらー」


 飄々と挨拶をする環の声に後ろ手で手を降り、そのままその逞しく背の高い部屋の主は行ってしまう。


 主人のいなくなったガランとした部屋に、ポツリと環の声が木霊した。


「…これで少しは、恩返しできたかな? 」


 何の見返りも求めず、怪しい自分をすんなり受け入れ、どこまでも協力的に接してくれる。

 一見強面でぶっきらぼうだが、その実困っている人を見過ごす事ができない優しい人。

 普段はその雰囲気から遠巻きにされてしまうが、よく見ると案外端正な造りの顔をしている、ギャップ萌えという言葉がよく似合う人。


 そんな人から、これだけつくされてしまえば。


「…あんまり優しいと、絆されちゃいそうだよ」


 ほんのりと白い頬を赤らめ、ムスッとしたように眉頭を上に上げる環のその姿は、今は誰も見ることがなかった。

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ユーレイ青年、今日からここに住みます! 汐味ぽてち @yamakano

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