ユーレイ青年、今日からここに住みます!

汐味ぽてち

第1話「犯罪者じゃないです信じてください」

「あっ。やべっ。帰ってくんの早くね? 」

 

 よく響く芯の通ったテノールの声色が、狭い室内に静かに木霊した。

 外で容赦のない程に強く降る雨のすすけた匂いや、部屋の中に充満している鼻の奥に残る独特のイカ臭さが、今のこの惨状に更に「絶望」「混乱」というワードをプラスし、よりカオスな状況へと追い込んで行く。


 玄関に佇んで、唖然とした表情を浮かべながら口をあんぐり開けている青年——佐藤愛之助さとうあいのすけは、目の前に広がる状況を脳で処理できずに未だ硬直したままである。


 ――—それもそうだろう。愛之助が所有しているはずのアパートの一室は、イカ臭さを醸し出すくしゃくしゃのティッシュの残骸が山のように積み上がり、その周りには昨日愛之助が自炊の為にスーパーで買い込んだ野菜が至るところに散らばっている。

 それも主に人参やらきゅうり、茄子やらの中途半端な長さと太さを持つ物たちばかり。

 おまけに何故か真ん中に切り込みが入ったこんにゃくや、無残にも縦に引き裂かれているお徳用のちくわまでもが転がっていた。


 極め付きは、部屋の中央にいる人物。

 愛之助と同じ年頃であろう、艶やかな黒髪を汗で湿気らせながら、潤んだ夜の様な深い蒼色を宿した瞳をこちらに向けて来る、まさに「佳人」という言葉が似合うであろうその青年は、美しいおもての印象をすべてぶち壊すかのようなとんでもない姿で愛之助と同じく硬直している。


 服はおろか、下着すら何も身に纏っていないフルチン。

 そして何故か見事なまでのフル勃起。あまりのフルすぎる出来事に、愛之助の思考もフルスピードで駆け巡ってはフルスピードで脳みそから跡形もなく消滅していった。


 青年の豪快なまでにピーンと左右へ伸ばされた細く無駄毛のいっさいない白い両脚は、さながら体操選手のような見事なフォームを作り出していた。

 いわゆるV字開脚の体制をとっている青年の下半身———丸見えの尻穴には、愛之助の母親が仕送りしてくれた見事なまでに太く立派に育った大根の先の部分が、寸分の隙間もなくギチギチに埋め込まれている。

 ギチギチすぎて見てるこちらの尻穴が痔になりそうだ。

 そんなカオスなる状況を作り出している原因一択のはずの青年は、先ほどまで薄く紅く染めていたはずの頬を青くし、金縛りにあったかのように一ミリたりとも動く気配を見せない。


 未だ硬直したままの愛之助と青年。先にその静寂を打ち壊したのは愛之助の方であった。

 手に持っていた、小ぶりな鞄につけられたひよこ型のかわいらしいストラップ―――もとい、子供が登下校などでよく使う防犯ブザーの紐にゆっくりと手を伸ばし、そのまま寸分の迷いもなく引っ張った。

 途端に部屋に鳴り響く「ピヨピヨピヨピヨ」の警報音。その豪快に響く音でようやく正気を取り戻した青年は、「ぎゃぁぁぁぁぁ! 」とつんざくような叫び声をあげて耳を塞ぐ。

 無論、尻に大根を入れたまま。


 ひよこの警報音と青年の大絶叫をBGMに、愛之助はそれを更に上回る声量で雷を落とした。


たまきいぃぃぃぃ!! あんだけ注意してもまだわかんねぇのか!! その大根あとでおでんに使うっつっただろどうしてくれんだ!! 」

「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!! すみませんすみません!! 洗えば大丈夫!! すみません!! 」

「すみませんで済んだらこの世に警察はいらねんだよこのSDGs反乱軍が!! 今すぐ食材やらティッシュを作ってくださってる各関係者の方々に土下座してこい!! んですぐに刑務所入ってケツ汁にまみれた大根食う刑に処されろ!! 」

「俺が物理的に刑務所入れないの、あーくんが一番よくわかってるよね!? あと大根のケツ汁浸けはさすがにキツいから勘弁して!! そんなグロい漬物食べたくない!! 」

「物理的に刑務所には入れない癖に尻の穴に物理的に色々入れてんじゃねぇっつんてんだよ!! 」


 ドタバタ、ドゴン。

 尻の大根を素早く抜き、勢いよく立ち上がった、環と呼ばれた青年に降りかかる拳。

 大根を盾代わりにしつつ、軽やかに拳を避けて逃げ回る件の佳人を愛之助が追いかけ回し、未だ手の中でピヨピヨと鳴き声をあげる防犯ブザーを彼へと投げ付けようとすると。

 

 隣の部屋からドンドンと大きな音を立てて壁を叩く音と、「いい加減にしろ!! うるせぇぞ!! 」という隣人のしゃがれた怒鳴り声が響き渡った事で一瞬にして静寂を取り戻した。


 突如としてピタッと動きを止めた愛之助に対し、環もようやく足を止め、脂汗の滲み出た額を片手で拭いながらふーっとため息を一つついた。


 床に散らばった、無惨な姿にさせられた食べ物たちに、これまた散らばったイカ臭いティッシュの残骸。静寂を取り戻したはずの部屋に、ピヨピヨと未だに鳴き続けるヒヨコの防犯ブザーの音。

 まさに地獄と言っても過言ではない程に荒らされた部屋に、愛之助の心の中に再び静かな炎が灯され出した。


 対して、環の反省のはの字も見せないその様子に、愛之助のこめかみの血管がぶちっと音を立てる。


「まったく、俺がこんな事してるのなんて今更なんだからいい加減怒るのよしなよ。短気は損気。怒ってばっかじゃ福やら金運やらが逃げて、このボロアパートよりも更にボロい所に住む未来が来ちゃうかもよー? 」

「…………」


 やれやれと言った風なしぐさをするフルチン姿の環に、再び特大級の落雷が降りかかるまであと数秒。ついでにアパートの大家からもとびきりの雷が落とされるまであと数時間。












 時は遡る事、数日前。


 ごく普通の愛情溢れる家庭で育ち、今年の春から国立の大学へと進学した、人よりもガタイが良い事以外はいたって普通の青年である愛之助。

 進学先が実家から遠方だった為、そのまま大学近くのボロアパートを借りて一人暮らしを始めてからこれまでは平和で順調な日々を送っている。


 十歳年下の可愛い盛りの妹が「おにぃ、行っちゃやだ」とわんわん泣き叫ぶ姿に死ぬほど後ろ髪を引かれながらも、将来の為だと自分に言い聞かせて家を出たのが、つい数ヵ月前の出来事であった。


 親からの仕送りや自身のアルバイト代で生活費を工面し、比較的悠々自適に学業とバイトを繰り返す日々を送っている。

 今現在、大学は長期の夏休みに入った為、愛之助はバイトにますます力を入れるようになっていた。


 今も、バイト先のコンビニの夜勤シフトをこなしている最中である。

 前日の夜から入り、今はちょうど夜が明ける頃の時間であるため、眠気の限界が来始めている愛之助にとってはこの時間帯が心身共に一番しんどいと思う時であった。


 レジの前でコクリ、コクリと船を漕いでしまうのを、爪を立てた指先で太股の肉をつねる事で何とか耐えている。


「あー、眠い…」


 しかし、軽やかに店内に流れる入店音が鼓膜に響き、次いで誰かがレジ前に立つ気配を感じ取ったため、愛之助は慌てて姿勢をビシッと正す。


 レジの前には、立つのもやっとだと言わんばかりによぼよぼとした老いた男性と、これまたかなり歳のいった女性が仲良く寄り添って立っていた。


 この二人の男女は、いつも朝早いこの時間にほぼ毎日揃ってこのコンビニにやって来るのが日課になっているようで、今ではすっかりこの店の常連となっている。

 会話はあまりした事はないが、店員間でも「仲良くてかわいらしい」「二人とも若い時は絶対に美男美女だったよね」と密かに注目を集めていた。


 レジ台にお茶やら和菓子やらがたくさん入った籠が置かれる。

 大方家で仲睦まじく過ごすためのものだろう。夫婦か、兄妹なのかはわからないが。


 愛之助はさほど気にもせず、「お預かりします~」とやる気のない声で次々と商品のバーコードをスキャンし、袋に詰めていく。

 コンビニ店員内では新人な方の愛之助であるが、元々呑み込みが早いのと手先が器用なのもあってその作業効率は既にベテランの域に達していた。


 あっという間に全ての商品のスキャンと袋詰めを終える。

 目の前の客に合計金額を伝え、二人がゴソゴソと財布を漁るが。


「あらやだ、二百円足りないわ」

「あー、俺も持ってないなぁ…どうしよう」


 まさかの、どちらも金が足りないという状況に陥ってしまった。

(こーなるとめんどいんだよなぁ…)と心の中だけで愚痴を溢す愛之助だが、困ったかのようにおろおろとし出してしまうその二人の姿を見て、庇護欲が掻き立てられたのか。


 気がつけば愛之助は、自身の制服の尻ポケットに入っていたペラペラの財布を取り出し、百円玉二枚をひょいっとカルトンへと落としていた。


「あの…よかったら、俺が足りない分払いますよ」

「えっ!? そんな事、店員さんにさせられませんよ! お返しします! 」


 その思ってもみなかった行動に二人は更におろおろと戸惑うが、愛之助はフッと一つ笑いを吐き、囁く程度の声の音量で言葉を紡ぐ。


「いいですよ、いつも来ていただいているお礼って事で。内緒にしていただければ大丈夫です」

「いや、でも…」

「バレたら俺が店長にどやされるんで、ね? 」

「え、と…では、お言葉に甘えて…」


 先に観念した二人は、愛之助の出してくれた小銭で何とか会計を済ますと、ペコペコと何度もお辞儀をしながら店を後にする。

 その際、男性の方がくるっと振り返り、愛之助に向かって花が咲くような満面の笑みを浮かべた。

 今でこそ皺の寄った年寄り特有の顔だが、昔はさぞ美男だったであろうその笑顔。


「おにいさん、優しいんだね。本当にありがとう」


 そう言い残し、ゆっくりとした足取りで視界から消えていなくなる男性たちに、愛之助はふーっとため息を吐いたかと思うと、(お礼言ってくれるお客ってまじ神様だよな、頑張れそう。撲滅せよ自称お客様は神様カスハラ野郎共)と、心の中で一人ガッツポーズをするのであった。


 しかしそれから次の日。あの男女が来る事はなかった。

 次の日もその次の日も。愛之助が他の時間帯のシフトに入っている間も、あの男女がコンビニに来る事はなかったらしい。


「…あのじいさんとばあさん、来なくなったな…」


 愛之助が休みの時に夜勤に入っていたという同僚に聞いても、やはり来ていなかったという。

(かなり高齢っぽかったから、身体壊しちゃったんかな…?)と一抹の不安が過るが、不謹慎だと愛之助は頭をブンブン降る。

 今は仕事に集中、とばかりにいつもより熱心にレジ打ちをするのであった。


 そこから更に数時間後。ようやく日も登り切った頃に、愛之助はくたびれた足を引き摺りながら何とか帰路につく事ができた。


 あまりの眠気に今すぐにでもベッドへダイブしたい思いを抱えつつ、拙い手つきで玄関の鍵を開け、家の中へ入る。


「ふー、疲れた…」


 靴箱の上に適当に鍵の束を放り投げ、パチッと家の中の電気をつけると。


「おっ! 帰ってきた! 」

「……あ? 」


 そこには目を疑う光景が広がっていた。


 ナニかを包んでぐしゃぐしゃにしたティッシュの残骸がそこかしこに散らばり、ほのかな青臭さが部屋中に蔓延している。

 山盛りティッシュの中央には、全く見知らぬ青年が下半身丸出しの姿でそこに鎮座していた。

 そう、下半身丸出し。上半身は白いタンクトップを着用しているが、下半身は剥き出し。

 今まさに、男のゾウさんが天に向かってなる白濁色の液体を噴出しようと戦闘態勢へ入っている最中。


 そのあまりの意味のわからない状況に固まる愛之助とは対象に、青年はその涼やかな美しい顔をニヘラッと崩すように笑った。


 何で。見知らぬ人間が。家で。オナってる。

 俺。鍵。かけて。家。出たのに。

 何で。こいつ。家の中。入れてるのか。


 絶賛大混乱中の愛之助の頭の中は、もはや情報量が許容量を超えて今にも爆発し、脳髄がぶち撒かれそうな状況であった。

 そんな状況でも何とか声を絞り出し、未だ臆せずにへらへらと笑っている目の前の青年に静かに問う。


「…人様ん家で何やってんだテメェ…」

「いやさー、この部屋に住んでる人いつ帰ってくるかなーって待ってたんだけど、待ちくたびれちゃって暇だったからオナニーしてたんだよね! 男でよかったわ! さすがに女の子にこんな状況見せらんないし! 」


 静かな怒りを存分に含ませた愛之助の言葉の抑揚に気づいているのかいないのか、青年はへらへら顔を一切崩す事なく今の状況を説明した。

 まるで小学生が、今日あった事を親に「きいてきいて! 」と報告するかのようなテンション感で。


 全く悪びれる様子もない目の前の男に、逆に少しだけ思考回路が復活した愛之助は、こうしちゃいられないとすかさずスマホを取り出した。

 ディスプレイに表示された数字の110を打ち込み、呼び出しのアイコン辺りで親指を構える。

 無論、いつでも警察に連絡できるように。


「…通報してやる」

「きゃー!! やめてやめて!! 俺怪しい者じゃないから! 」


 甲高い声を発しながら、ガバッとスマホに抱きつこうと飛び込んで来る青年に、ついに愛之助の堪忍袋の尾が盛大な音を立てて切れた。

 そりゃもう、ブチブチブチッと。


「ふざっけんじゃねぇぞ!! 人様ん家で堂々とオナってるビチクソ変態露出狂人間失格犯罪者のどこが怪しくないって!? 」

「それに関しては謝る! 謝るから!! あとちょっと罵倒しすぎ!! さすがに傷つく! 」

「テメェが傷つこうがムショぶち込まれようが知ったこちゃねぇんだよ! 」


 愛之助より小さい背丈でありながら一生懸命スマホを奪おうとピョンピョン飛びかかる青年を手で軽くいなしながら華麗に避ける愛之助のその動きは、まるでどこかの国のスタントマンのような様だ。

 ちなみに青年は未だ下半身丸出しのため、飛ぶ度に萎えた逸物がプランプランと上下に揺れるのが何とも滑稽である。


 人よりも背丈のあるガッチリとした体つきの愛之助と、見るからに細身で背丈も平均的な青年。

 そのあまりの体格の違いについにスマホを奪う事を諦めた青年は、今度は胸一杯に息を吸い込み、まるで大型犬の雄叫びのように耳がつんざかれるような大声をあげた。


「俺!! ユーレイなの!! だから犯罪者じゃないです信じてください!! 」

「…は?」


 青年のその言葉に、一瞬にして言葉を失い、身体を硬直させる愛之助。

 手元からカタンとスマホが落ちてしまうが、今はそんな事はどうでもいい。


(…コイツ、ユーレイって、言った…? )


 口をあんぐり開けて、しばらくボケッと言葉を発する事のない愛之助に少しばかりイラついたのか、青年は目の前の大男の耳元に近づくと、ありったけの大声で話の続きを紡ぎ出す。


「だから! 俺、ユーレイなの!! 他の人間には俺が見えてないっぽいし、警察に通報しても君が腫れ物扱いされて終わるだけだよ! 」


(…ユーレイ…ユーレイ…? )


 いくら頭の中で反復しても、わからんもんはわからん。

 愛之助は一旦考える事を放置する事にし、何とか気合いで身体の硬直を解くと、さながらオウムのように呆けた声で青年に聞き返した。


「…え? ユーレイ? 意味わからん…」

「ま、そりゃそうだよね。だって俺も自分がなんでユーレイなのか未だに意味わかんないし」


 意味わかんないのかい。

 そんな心の中のツッコミを消化しきれないでいる愛之助の事はさほど気にせず、青年はんんっと可愛らしい咳払いを一つして愛之助にキランッと目配せをしてきた。

 何だその昭和に活躍したスターのような流し目は。


「まあ、詳しいことは今から説明するからとりあえずここ座りな」

「それ本来俺の言うべきセリフだからなアホ」

「あ、お茶でも出そうか?でもここビンボー臭すぎて茶請けなんかなーんもないしなぁ。あるとしたら茶箪笥の奥にしまってあった、賞味期限まだなのに何故かカビが生えかけたぬれ煎餅くらいしか…」

「ここは俺の家じゃ! 冷やかしならとっとと出てけ! あと人の家勝手に漁るな! 嫁ん家のアラ探しする姑かテメェは!! 」

「いてててて! 痛いよこの脳筋!! あとさすがにお腹壊すからぬれ煎餅捨てなよ!! 」


 超絶フリーダム、そして超絶マイペースな性格の青年に腹が立ちすぎたのか。

 普段はわりとドライな性格なはずの愛之助は、気がつけば青年の艶やかな漆黒の髪の毛を上からわし掴んでブンブンとその小さめの頭を振り回していた。


 あまりに振り回しすぎて、青年が愛之助のもう片方の手に猫のようにガブリと噛み付いた事で事態は一旦収集したが、未だ愛之助の怒りのボルテージは上がったままである。

 現に、こめかみの血管が今にもはち切れそうにプツプツと音を立てているからかなり危険な状態だ。


 そんなヤクザばりの凄みを纏っている愛之助には目もくれず、青年は乱された髪の毛をサラサラと手ぐしで直すと、その辺に無造作に脱ぎ捨ててあった下着とズボンをやっと身に纏う。

「改めまして! 」とくるっと振り返り、ひまわり畑のような明るい満面の笑みを浮かべた。

 いかんせん青年の顔が整っている分、そのような笑顔を向けられると、不思議と愛之助の鼓動がトクンと小さく音を鳴らし始める。


「まず…俺の名前はたまき! 性別は男! 年齢はおそらくアンタとおんなじくらい! えっちな事が大好き! 他の事はいっさい覚えてない! そんで気がついたらユーレイになってた! 以上! 」


 環と名乗った青年が元気よく言い終わった途端、シーンと辺りが静まり返る。

 バサバサバサッと、外で鳥が羽ばたく音が響き渡るのが何とも虚しく感じる。


 あまりにも短絡的な自己紹介。

 その情報量の圧倒的少なさに、愛之助は思わず纏っていた怒りを沈めて慌てたかのように突っ込みを入れた。


「え、待て待て! お前の自己紹介、それだけ!? なんかもっとあんだろ! えっちな事がとかはどうでもいいから、どこから来たのかとか、仮に本当にユーレイだとしたら、どこでどうやって死んだのかとか…」

「うーん、それがほんとに何も覚えてないんだよね。いわゆる記憶喪失ってやつ? ユーレイにも記憶喪失ってあるんだね~。そういやなんで名前だけ覚えてたんだろ? てか今さらだけど俺の名前めっちゃ可愛いわ食べちゃいたい」


 その楽観的すぎる言動に、愛之助は今度こそ落胆してヘナヘナと部屋の畳に座り込んでしまう。

 先程からあまりにも非現実的すぎる事ばかりだ。しかも当の本人はチャランポランで信憑性に欠ける事ばかり言う。


 愛之助がひそかに絶望に打ちひしがれている間、環はヘタれた愛之助なぞ視界にも入れずに勝手にこれまでの経緯を得意気に話し始めた。


 環曰く、ずいぶんと長い時間ずっと暗闇をさ迷っていたら、突如この部屋で目覚めたとの事。

 その時に、名前以外の全ての記憶が消滅している事に気づいた。しかし、日本語や物の名前など、常識的な事の記憶はしっかりと残っているため会話するのに不便さはない。

 目覚めた時に部屋の主である愛之助がいなかったため、とりあえず待ってみようとしたが一向に帰って来ず。いったん外へ出てみる事に(その時愛之助は夜勤中だった)。

 その時にすれ違った人たちに何かしらのアクションを起こしたが、皆一向に環の存在を認知する様子がなかった。

 すなわち、自分は幽霊なのではないかと思った、との事だった。

 ついでに、愛之助が帰ってくるまで暇でやることがなかったからと先程まで行なっていたオナニーのプレイ話という余計なオプション付きである。


 一通り事の経緯を話し終えた環は、今度は未だ信じられずヘタり込んでいる愛之助との目線を合わせるために至近距離でしゃがみ込み、比較的近い距離で愛之助の顔を覗きに来る。


 深い蒼色を宿したキラキラと輝く瞳、その瞳をまんべんなく縁取る分厚く長い睫毛、真綿のような白い肌に、サラサラとしたぬばたまの髪の毛。


 その一つひとつがあまりにも整っている美しい顔が急に迫って来て、愛之助の心臓は今にも爆散して跡形もなくなってしまうのではないかというくらいにバクバクと脈打っていた。


 いっそキスでもされるんじゃないかというくらいのその距離を環自身は全く気にするそぶりも見せず、突如としてその秀麗な顔の前でパンと両手を合わせるポーズをとる。


「…というわけで、そこで一つ君に頼みたい事がある! 」


 へ? とキョトン顔をする愛之助の点になった瞳を真っ直ぐと見返しながら、環は言葉を続けた。


「俺が成仏できずにユーレイになっちゃってるのは、たぶん何かしらこの世に未練とか、やり残した事があるからなんだと思う。けど何も思い出せないこのままの状況じゃ、俺は一生地縛霊としてこの世をさ迷う事になるかもしれない。そこで、俺がどこのだれだかってのを、一緒に調べてほしい! その間、俺をここに住まわせて! 」

「…はぁ、嫌だ」

「なんでよ!? 」


 少し考えれば拒否されるのなぞ当たり前なのは明確なはずなのに、環は心底心外だったとでも言うかのように目をまんまるに見開く。

 そんなどこまでもマイペースを貫く環に対して、愛之助は本日何度目かのため息を目一杯吐く事となった。


「普通に信じられないし、なんなら今だっていつ警察に通報しようかって睨み利かせてる」

「あんだけ赤裸々に語ったのにまだ信用されてないの!? なんなら具体的なオナニーのプレイの数々まで全部白状したのに!? 」

「証拠がねーしな。あとそれはテメェが勝手にあーだこーだ垂れ流してただけだろうが」


 埒が明かない。

 いい加減にこのよくわからない変質者? から逃れる為、愛之助は環の細腕を掴んでずるずると玄関まで引き摺って行く。

「わーなにするんだー! 」と叫ぶ環には目もくれない。

 平穏無事に暮らしていきたい愛之助にとって、この得体の知れない男は危険極まりない。


 ただちに追い払おうと腕に力を込めるが、わんわんと泣き喚きながら逆に愛之助の腕にしがみついて離れようとしなくなってしまった環。

 いい加減ぶちのめしてやろうかと頭の中でイメージトレーニングをし始めながら玄関の扉を開けたその時。


「あら、佐藤くん。おはよう」


 ギクっと大げさに肩が上がる。

 同じアパートの同じ階に住む、面倒見のよさそうな中年女性がたまたま玄関の前を通りがかったのか、穏やかな笑みを浮かべながら朝の挨拶をしてきた。

 片手にエコバックを持っている様子から、どうやらこれから買い物にでも出るようだ。


 キャンキャン喚く見知らぬ男の腕をひっ掴みながら、鬼の形相で玄関から出てくる所を見られてしまうという、通報されてもおかしくないようなその状況の最中、愛之助の背筋に冷えきった汗が一筋伝った。


「あっ…。おはよーございます…」


 縮こまった喉を無理に開いて何とか朝の挨拶をし返すも、この状況が一変する事はないに決まっている。

 しかし女性は未だニコニコとしたままで、愛之助の右手に捕まりながらジタバタと踠く環の方に目線が行く事はいっさいなかった。


 そのまま何事もなかったかのように玄関の前を通りすぎ、いたって順調に遠くなっていく女性の背中を見ながら、愛之助は頭の上にはてなマークを無数に浮かべながら首を傾げる。


「あれ…? 」


 ポツリと呟かれたその呆けた声に、先程まで魚のようにビチビチと跳ね回っていた環が「ほらー! 」と大きな声で被せてきた。


「だから言ったじゃん! 君以外の人に俺は見えてないんだって! 」


 未だボケッとその場に突っ立っている愛之助の手の力が抜けたのを見計らい、環が拘束から逃れる。

「ユーレイでも痛覚あるんだから勘弁してよ! 」と若干涙目になりながら訴えつつ、今度は逆に環が愛之助の腕をひっ掴んで部屋の中へと引き摺り込んだ。


 パタンと扉が閉められる音で、それまで呆け中だった愛之助の意識が現実へと引き戻される。

 先程まで掴んでいた細腕の柔い感触も、ほのかに感じた温い体温も現実の物であるはずなのに、先程の女性には影も形も見えていない様子だった。


 本当に環はユーレイなのか? と思考回路がぶつりぶつりと音を立てて崩壊するような気持ちになっていた愛之助だったが、突如としてガバッと地面に突っ伏し出した環にギョッと目を見開く。


「とにかくお願いします!! もう頼れるのは君だけなんだよ! 俺の事が見えてて、しかも会話もできて触る事もできる人なんて今後見つかるかわかんないんだ! ずっとこの世で誰にも気づかれずにひとりぼっちになっちゃうなんて嫌だ! お願いだから! 」


 先程までのおちゃらけた態度とは一変、今度は土下座ばりの勢いで地面に頭をついて懇願し出す環。

 声には真剣さが宿っており、床についた白い手がふるふると緊張で震えている。


 環のその様子に驚愕した愛之助は、先程までの怒りはどこへやら。今度は困惑でおろおろとただ地面に突っ伏している環を見つめる事しかできない。


「お願いします…俺ができる範囲でのお礼は必ずするから、手伝ってください」


 環の語尾が震える。

 耳を澄ますと、微かにポタ、ポタと涙が地面を濡らす音が聞こえてくる。

 畳にうっすらと涙の染みが作られていくその様が、目の前の青年の悲願を訴えているようだった。


 そんな儚い姿を見させられて、元来お人好しの愛之助が冷たく当たれるはずがなかった。


「…あーもう! 仕方ねぇな! 」

「! それじゃあ…」

「協力してやるから、解決したらさっさと出ていくなり成仏しろよな! 」


 めんどくさそうにボリボリと頭をかきながらも、愛之助の環を見つめる瞳には既に優しさが込められ始めている。


 あんなにも真剣に本当の自分を見つけたいと言われ、あんなにも純粋で美しい涙を見てしまえば、放れる訳がない。

 捨て子の親を探すような心持ちで挑もうと決意した愛之助に対し、環の蒼い瞳からは再び大粒の滴が零れ、頬を静かに伝っていく。


「…ありがとう」


 その儚い声を聞かなかったフリをする事で、愛之助は身体の奥底から滲み出てくる照れのような気持ちを相殺しようと奮闘するのであった。


 一旦話が終わり、さてこのティッシュの山で溢れ返った部屋をどこから片付けようかとため息をついた愛之助に、先程まで儚い涙を溢れさせていたはずの環がケロッと明るい表情で振り向く。


 さっきまでの弱々しい姿はどこ行ったんだよ…と若干呆れつつある愛之助にはお構いなしに、環は「あ、そういえば君の名前聞いてなかったね。なんてーの? 」と無邪気な声色で疑問を投げ掛けた。

 その問いに対し、若干めんどくさいと首の後ろを爪でポリポリ掻きながらも、愛之助はボソっと自身の名前を伝える。


「…佐藤愛之助」

「愛之助くん…古風で綺麗な名前だけど、長いなぁ。めんどいし、あーくんでいいよね?」


 びっくり仰天。

 何がどーしたら、成人を越えてる屈強な体型でいかつい顔かたちをしている男にそんなかわいらしい名前を付けようと思ったのか。

 すかさず愛之助はお笑い芸人さながらの素早い突っ込みを寸分の狂いもなくかました。


「よくねぇよ! なんだその幼稚園児みてぇなあだ名は! 」

「オッケーね、あーくんこれからよろしく! 」

「人の話を聞けぇ!! 耳ついてんのか!? 」


 もはやその耳は飾りか何かか? とでも言えるくらいにマイペースでおちゃらけた態度の環に、ついに愛之助の何度目かわからない堪忍袋の緒が切れ、渾身の怒鳴り声をかました瞬間。


 左隣の部屋から、ドゴォォオン!! とすさまじい打撃音と共に、壁伝いにミシミシッ…と最早アパート全体が倒壊してしまうのではないかというくらいの危うい亀裂音が響き渡る。


 どうやら愛之助が一人で怒鳴り散らしているのに耐えきれなかったのか、隣に住む中年の親父がしびれをきらして壁ドンをしてきたようだ。

 いつもヨボヨボとアパートの階段を苦しそうに昇降するあの親父に、こんな奥義のような力が秘められていたとは。


 壁ドンと親父の迫力に圧倒されている愛之助とは対照的に、環は未だ飄々とした態度で呑気に口笛を吹いている。

「チャラリーン、鼻から牛乳~♪ 」の替え歌で有名なあのクラシックの曲を選曲するあたり、本当に何も考えていない様子だ。


「きゃー。お隣さん怖いね~。オナニーする時は声出さないように気を付けなくちゃ! どうせ俺の声聞こえないだろうけど」

「…するな。臭い、ゴミが増える、俺が萎える」

「ひでぇ~! こーんな美青年のオナニー見て萎えるとか、あーくんもしかしてインポってやつ? 」

「うるせぇ俺はノーマルなだけだ。てかなんでユーレイのくせに精液は普通にくせぇんだよ、そんなとこにリアルを取り入れるな」

「俺だって自分がどういう存在なのか全然わかってないんだから仕方ないよ、ゆるちて♡ 」


 イライラとしながらも声を抑えて呟く愛之助だが、精液が臭い、の言葉でふと頭の中に疑問符が浮かび上がる。

 それも凄く今さらな疑問符だ。


 確かに、先程玄関前で会った女性には環が見えていない事が明らかに見てとれた。

 だから環がユーレイというのもあながち嘘ではなさそうである。

 しかし、自分は環が見えるし、会話もできる。

 先程も普通にあの細腕を掴めたし、何だったら普通の人間と同じくらいの環の体温をこの手に感じた。

 極め付きは環の出した精液の匂いを普通に感じ取る事ができる。


 それに環の方だって、この家にあったティッシュを何枚も犠牲にしていたり、何だったら食材の入った戸棚を漁った跡も、おやつタイムにとっておいたはずのお菓子の食べかすやゴミまで散乱している。

 つまりこのユーレイは、物を普通に使う事も、食べる事もできる。


 他の人間に存在が認知されない事以外は、いたって普通の人間のようだ。


 ユーレイなのか。そうじゃないのか。

 何故、愛之助だけが認知できるのか。


 未だ全くはっきりとしないこの奇妙な青年を、今後どうすればいいのか。


「こんなんでほんとにやってけんのか…? 」


 愛之助の苦悩は深まるばかりであった。











 時は戻り、今は二人だけの夕食中。


 ぐつぐつと煮えたぎる土鍋の中からは、深い旨みが凝縮されたかのような、食欲をそそられるカツオと昆布のだし汁の香りが漂って来る。


 大きな熱々の土鍋の中の食材を箸で下品にもつつきながら、環は「ほふぇ~」と興味深げなため息を漏らした。


「人参と茄子が入ったおでんって変わってるよね~、案外イケるけどさ。でもきゅうりは生で食べたかったな~。何で茹でちゃったの? 」

「尻の穴に突っ込んだモン生で食える訳ねぇだろ! 全部テメェのせいだコラ! それ食わされてる俺の身にもなれ! てかユーレイなんだからメシ食わなくてもいいだろうが! 」

「だって一日中家にいるだけって暇で仕方ないんだもん。食べる事とパソコン見る事とオナる事くらいしか楽しみないんだから勘弁してよ」

「自宅警備員の手本か…」


 午前中、愛之助が帰ってきた時には既に環のオナニーの道具として扱われていた食材たちは、全て土鍋の中にぶち込まれ、今は無事おでんへと進化できた。

 SDGsへ配慮した結果である。


 だし汁で茹だったもにょっとしたきゅうりを噛りながら、ふと環が何かを思い付いたように、猫のように少しつり上がった大きな瞳を見開く。


「そういやさっき鳴らしてた防犯ブザー、あれ小学生向けのやつでしょ? なんであーくんがそんなの持ってんの? 」


 その話をぶり返してくんじゃねぇと自身の顔に堂々とその言葉を張り付ける愛之助。

 しかし、答えるまで逃がさないとこれまた愛之助のように自身の顔に堂々とその言葉を張り付けた環がじーっと見つめてくるのに耐えきれず、ボソっと語り出す他なかった。


「…小学生の妹が、俺が一人暮らし始める前に「お守り」つってプレゼントしてくれたんだよ。まさかあんな形で使う事になるとは思わなかったけどな」

「へ~。そのせいでお隣さんにも大家さんにもしこたま怒られる羽目になっててめっちゃウケるね」


 愛之助のかわいいかわいい妹の、かわいいかわいいエピソードだというのに余計な言葉ばかりで返答してくる環に、ついに愛之助の目が血走り、気がついたら恨みの籠った言葉が口から小さく漏れていた。

 それはまさしく、呪詛そのものである。


「いつかぜってー除霊してやる…そして地獄に堕ちろ…」

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