読んでしまう系Wikipedia

 Wikipediaの情報を鵜呑みにしないのは当然という前置きをしつつ。


 事件・事故関連のWikipediaを読んでしまう癖がある。

 ブラジルのゴイアニア被曝事故、韓国のセウォル号沈没事故、福知山線脱線事故、事故ではないが津山三十人殺しの四つは定期的に読んでしまう。


 セウォル号と福知山線は有名だろう。

 津山事件は三十人殺しという通称そのままの事件。

 ゴイアニア被爆事故は、廃病院跡に放置されていた放射線治療用の医療機器が盗難され市民が被爆した事故のこと。


 誰が決定打でもなくあらゆる引き金が引かれ続けた、ただの結果を読んでいる。

 後から全容が見えた頃には、もはや取り返しのつかないところに来てしまっていた。この淡白で決定的な絶望を読みたくなってしまうんだと思う。


 セウォル号沈没事故と福知山線脱線事故は、一見特殊でもないような問題が偶然掛け合わされてしまった、生活と隣り合わせ感がある。

 なんで自分ではなかったんだろうという気持ちを味わいたくなるのかもしれない。

 なんで、と、仕方ない、という気持ちが同時に起こる。

 

 悲劇を好むのってこういう気持ちなんだろうか。普段、辛くなる展開は趣味ではないのに。ましてやドキュメンタリーやノンフィクションを好きこのんで選ばないのに。


 ゴイアニア被曝事故の方がまさに悲劇を見る時の気持ちかもしれない。全部を知っているからこその「やめろ」という気持ちと、その場を想像しての「どうしようもない」の目線が同時にある。

 どうあってもその結末にしかならない、が悲劇だとすれば、どうやったらその結末になるんだよ、が喜劇だろう。


 フィクションは作者がいる。ノンフィクションにも作者はいる。Wikipediaの匿名性がいい(編集者の意思がごりごり見えるWikipediaは冷める。将来的に全部AIが書いてくれたら理想)。記事として読みたいのではなく、手っ取り早い情報として読みたいときにWikipediaはちょうどいい。


 セウォル号の事故も福知山線の事故も、誰の顔も見えない。見えるとしたら組織でしかない。

 ゴイアニア事故には一応、原因を作った特定の個人がいるが、彼らは同時に一番の被害者だ。

 津山三十人殺しの犯人の都井の意志を想像するのは、一般人が得られる情報では無理だ。人ひとりの行動として想像できるレベルを超えている。

 個人の意思がない。誰の意志もなく、けれども確かに人の手によって、大きな結末に辿り着いてしまっている。こちらを絶望させようという意図、あるいはこれは絶望だと考える意識、そういうものがない。こちらが絶望だと勝手に感じてしまうとにかく事実があるだけだ。

 人の意志とは別のところにある、そういう大きな流れに巻き込まれる無力感を読みたいのかもしれない。

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