第4話
*
理美が中学卒業を間近に控えている頃、兄は東京の有名大学に進学が決まった。理美以外の家族は大喜びだった。理美は何とも思わなかったが、これで兄から解放されると思うと嬉しかった。結局、兄は変わらなかった。むしろ、悪くなった。兄はもう伸郎のことで絡まなくなったが、理美に対しては敵対的な行動を止めなかった。
「おめー、俺の部屋の本棚から本持っていっただろ」と、理美が兄の部屋に侵入してから、数日後に兄が部屋に怒鳴り込んできた。兄は本がなくなっている、と主張していた。その本が『モテる男になるためのテクニック』だとわかると、理美は読んだけど、元に戻したと伝えた。すると兄は部屋から出ていった。それ以降、兄は本のことを口にしなくなったが、廊下ですれ違うときぶつかってきたり、食事中に口を開いて中を見せたりして、子どもような嫌がらせをしてきた。およそ高校生のやることではなかった。ストレスで病気になったのかもしれない、と理美は思った。きっと自分なら病気になるだろうから。
兄が家を離れる前に、兄の大学進学を祝して、家族で隣町の寿司屋に行った。そこは美味しいと有名な寿司屋だった。祝い事があるとそこに行くのが高津家の習わしになっていた。
寿司屋の小上がり席に五人が着いた。理美は兄とは斜向いの席に着いた。松コースの寿司が用意されると、それぞれがドリンクを持って乾杯した。「健吾のXX大学入学を祝して乾杯!」と父が声を上げた。兄は家族三人から「おめでとう!」と言葉を浴びたが、無言で表情を変えなかった。嬉しそうな様子は皆無で、むしろ迷惑がっているようにさえ見えた。さもありなん、と理美は思った。
理美は兄が高校の卒業文集に寄せた文章を読んでいた。「三年間」というタイトルの文章から読み取れるものは、理美の予測から大きく外れるものではなかった。兄は高校時代を「大学入学のための準備期間」として位置づけていた。しかし、そう割り切ることはできなかったのは明らかだった。つまり、「人並みの恋愛」が兄を雑念で満たした。恋愛は叶わなかったとはいえ、兄は当初の目標を果たしたのだから、もっと喜んでいいはずだった。それができないのは、兄自身葛藤を抱えていたからだと思えた。本当は、違う高校生活を送りたかったはずだ。大学合格は確かに偉業と言えるだろう。しかし、何ら楽しい思い出もないまま高校生活を終えたことに後悔しているとしたらどうだろうか。文章では「高校時代は、孤独だったけど、将来は大物になって一目置かれる人になりたい」と締めくくっていた。実際、大学に合格したことで、輝かしい未来への切符を手に入れたわけだが、理美としては、ただペーパーテストができるだけで、どんな輝かしい未来が待っているのか大いに疑問だった。果たして兄と同じような高校時代を送っていて大物になった人物がいるだろうか? しかし、少なくとも祖母と両親はこの結果に大いに満足していた。
「ほれ、えんがわ食べえさ。好きだろ」と祖母が兄に勧めた。
兄は黙々と食べながら、こちらに視線を走らせた。その眼差しには良からぬ光が宿っていた。そこにはこれから高校生活を送る自分に対する嫉妬が籠もっているように思われた。
兄も今のわたしのように高校入学前は期待を抱いていたはずだ。ところが、青春っぽいことは何一つないままそれが今や終わりを迎えた。しかし、その代償にエリートへの切符を手に入れたのだから、それで満足すべきだ。ところが、そうならないところが兄の厄介なところだ。
寿司が残り少なくなった頃、「理美も頑張れよ」と赤ら顔の父が言った。
「わたしは今のところ大学は考えとらんかな」
一瞬、空気が固まったが、父は「そうか」と一言だけ。「でも、行けるなら行った方がええよ」と母。大学など、理美はあまりピンと来なかった。就職も同じだけど。しかし、就職するのが嫌だから大学というのは違うと思っていた。かかる学費を考えるととてもそういう消極的な理由で大学進学はできなかった。兄も文集で大学入学が目標と言っていたが、大学で何をしたいかとか目標があるのか、と理美はふと疑問に思った。
「大学では、何やりたいの?」
理美は唐突に兄に訊いた。兄は食べようとしていたマグロを皿に置いた。全員が兄に注目した。
「……そんなのまだわからん」
兄は視線を合わせることなく言った。
「えー、わからんの? それでよく勉強頑張れたな」
理美がそう言うと、兄はこちらを睨んだ。
「それは、これからでええんじゃないの。きっとやりたいことが見つからあさ」
「そうだ。とにかく大学行ったほうが断然就職も有利だからな」
兄はどこか納得行かなさそうにうつむいていた。思えば、高校に入学してからというものそれは兄が見せるいつものポーズだった。大学に晴れて合格したにもかかわらず、そのポーズは変わらないようだった。それは大人たちの明るい表情とは好対照だった。当人がこうも暗いのでは、とても祝い事には見えなかった。
家に帰った後、夜遅い時間になって、居間から兄と両親の口論の声が聞こえた。
「今更何言っとるんだ。もう入学金も払ろうたんだぞ」
「まだ何もやっとらんうちから何言うとるのんや」
理美は布団の中で、耳をすませた。聞こえてくるのは両親の声だけだったが、話の内容を察することはできた。兄は大学入学を取り消したいと考えていて、それに対して両親が猛反発しているようだった。それが先程の兄の暗い顔の理由だったようだ。とすると、自分が投げた質問は、図らずもそのきっかけになった可能性がある。そう思ったら、実際に母親の声が聞こえた。
「まったく、理美ちゃんが余計なこと言うたから」
理美は激しい反発を感じた。なんで自分のせいにするんだ。別に余計なことなんて言ってねーだろ、と言い返したかったが、止めた。
兄の進路など他人事だと思ったが、よくよく考えるとそうでもなかった。両親の兄への支出により、自分への支出が影響を受けるからだ。それを考えると、少なくとも短期的には、兄にはこのまま大学に行ってもらったほうが好都合だった。
結局、兄はXX大学に入学したが、その後ほかの大学に編入し、八年の年月にわたり学生を続けた。
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