第5話


 実家に越してきてから最初の金曜の夜、健吾は自転車で隣町の飲み屋に行くことにした。それはネットで確認済みの飲み屋だった。隣町までの道のりは、平坦路であり、自転車でおよそ二〇分くらいだった。それは子どもの頃に何度も行き来した道のりだった。

 四月の晴れた夜だった。健吾はすでに五〇になっていたが、少年の頃の自分に戻った気がした。三〇年余りの時間が過ぎ、島の風景は変わっていた。かつて田んぼだった土地に銀行やコンビニができたり、かつて海辺にあったスポーツ施設は廃墟になったりしていた。島全体としては高齢化が進み、人口も減っていた。高校生当時は、とにかく出たかった島だった。長い都会暮らしを経て、田舎暮らしの良さを再発見したという同級生がいるが、健吾は違った。都会のほうが暮らしやすいし、娯楽も充実していると考えていた。しかし、田舎暮らしをしたい気もあった。それは変化を求める気持ちと言えた。もう都会の雑踏やHUBでのナンパに未練はなかった。家庭を持つこともなかったので、賃貸アパート暮らしでは、根無し草感は否めなかった。この先、年を取ったとき、都会で一人はどうなのか。高齢者になると賃貸物件を借りにくくなるという実際的な問題もあった。

 しかし、田舎暮らしに憧れとか理想とかはなかった。都会にいた頃のライフスタイルを変えたくなかった。それは平日は仕事、週末は飲みや趣味に費やすというものである。週末は畑仕事というのは避けたかった。息抜きは絶対に必要だった。

 ネットで確認した居酒屋に着いた。店の前からにぎやかな声が聞こえた。年季の入った暖簾をくぐった。店に入ると、小上がり席の家族連れやカウンターの客の視線を一斉に浴びた。

「お一人様ですか? カウンターへどうぞ」と大将。

 健吾は空いている、入口に近い端のカウンター席に着いた。

 店は中年の夫婦で切り盛りしているようだった。健吾は瓶ビールに加え、刺し身などのつまみを注文した。

「お客さん、旅行中ですか?」

 健吾がイサキの刺し身を食べていると、大将の声がした。

「いえ、違います」

 健吾は佐渡出身であること、つい最近横浜から実家に戻ったこと、自宅で翻訳の仕事をしていることを話した。

「なるほど、それでしたら、佐渡でもできますね。最近は、都会から若い人も来ているようですよ。職場もないのに。まあ、時代が変わりましたからね。翻訳もそうですけど、パソコンとインターネットがあれば、稼げる時代です。いいことなんでしょうが、わたしには縁のないことです」

 健吾は、自分にはほかにできることがなかった、と言った。大将は「ご冗談を」と笑って作業に戻った。実際にほかの仕事を片っ端から試したわけではないので、分からないが、少なくとも健吾の知る限りで、生活を維持できることを前提として、ほかに長期にわたりでできそうな仕事はなかった。

 ともあれ、翻訳はかつて憧れていた仕事だった。大学を二つも出た割には、大して稼げない仕事だったが、目指していた仕事に実際に就けたのだから、もっと誇りに思うべきではないかと思うことがあった。実際、翻訳は高度な技術を要する仕事であると言えた。そうである以上は、プライドの源泉になりえるものだったし、健吾がSNSでフォローしている翻訳者の方々は、自分よりもはるかに仕事熱心であり、仕事にプライドを持っていることは明らかだった。

 なぜに健吾が翻訳にコミットできないかといえば、それは小説執筆に手を染めたことが大きく影響していると思われた。小説は無からの創造である。それに比べたら、翻訳は気楽だった。創作の手探りで暗闇を進むような感覚はなく、すでに地図があった。進むべき道は見えていた。そのとき、翻訳とは半ば作業と言えた。そういう意識が常に張り付いていた。

 ところが、創作もまたプライドの源泉にはならなかった。三〇前から二〇年余りにわたり書き続けた中で、公募に応募したり、小説投稿サイトで発表したりしたが、反響は芳しくなかったためだった。

 五〇になった今、人生で最もクリエイティビティに溢れた時期は過ぎた。それまでで、結果を出せなかったのだから、この先頑張っても変わらない、と健吾は考えていた。それでも、創作は細々と続けていたし、これからも続けたいと考えていた。それは意地とも言えたし、惰性とも言えたが、一方で書くことを信じていた。書くことでしか達成できないことがある、と。

 ビールを飲み干し、ひと通りつまみも食べ終わると、次に日本酒、れんこんのはさみ揚げ、鯖の塩焼きを注文した。

 健吾は、日本酒をちびちびやりながら、テレビを見ていた。無音で「報道特集」が流れていた。硬派な部類に属する番組だった。そこには正義を問う姿勢があった。その姿勢は立派だが、健吾は自分が感化されることはないと思っていた。世の中に不正が溢れていることを突きつけられても、健吾にとってはせいぜいそれを回避するのに役立つだけだった。今日はコロナワクチンによる健康被害を扱っていたが、ワクチンのせいであっても、そうと特定するのはかなり難易度が高く、被害に遭った人は気の毒だと思うが、彼らに対して自分が何かアクションを起こすことはないと思えた。

 それは健吾が歳を重ねたことも影響しているのかもしれなかった。年をとるたびに、何も成し遂げていない自分を、自分の無力感を痛感させられた。そのあげく、社会問題などには自分に火の粉が降りかからない限りで、ノータッチというか労力を費やさない姿勢がますます強まった。SNSなどでデモの投稿に「いいね」したりすることはあるが、それはあまりにお気楽な関わり方である。デモに行くのとは大違いだった。


 健吾が鯖の塩焼きを食しながら、これでもう店を出るかどうするか、考えていたとき、「あの、すいません」と背後で声がした。健吾は店の人に言っているのだと思い無視していたが、嫌に執拗だったので、振り返ると、自分に声を掛けているようだった。相手は中年男性だった。

「勘違いだったら、すみませんけど、高津健吾さんではないですか? 」

 健吾は相手に見覚えがなかった。

「そうですけど、あなたは?」

「ああ、やっぱり! 内海うつみです。学年では一つ下ですね」

 健吾はその名前に覚えがあった。言われてみれば、その顔にはかつて健吾が中高時代に見知った顔の面影があった。

「ああ、思い出しました。ぼくのことよくわかりましたね」

「実は、ぼくはわからなかったんですけど、嫁に言われて、声かけました」

 内海はそう言って、小上がり席に視線を向けた。視線の先にいる中年女性を健吾は認識できなかった。

「妻の由佳子ゆかこです。由佳子は、高校の同級生なんですけど、高校生の頃、健吾さんのファンというか、健吾さんに憧れていたようです」

 健吾は耳を疑った。自分が野球部のピッチャーだったり、バンドのボーカルだったらそういうことはあり得るが、そのいずれでもなかったし、当時は女の子とはまったく縁のない生活だった。

「だけど、ぼくに憧れる要素なんてないと思うけど」

「いや、健吾さんはXX大学に現役合格したじゃないですか? そのことは、大学進学を目指す後輩にとって大きな励みになったんです」

「……なるほど、そうなんですね」

「今日はお一人で飲まれてますか? もしよかったら、ぼくたちと一緒に飲みませんか?」

 健吾は小上がり席に移動した。同級生を除き、佐渡に誰一人知り合いのいない健吾にとって、これは嬉しい申し出だった。

 高校の同級生同士の夫婦に、健吾は、そこはかとなくコンプレックスを煽られた。

 夫は農協職員で、妻は介護職だった。ともに佐渡ではありふれた職だった。佐渡で最大の組織といえば農協だった。おそらく最大の雇用先だと思えた。そして、介護職従事者も高齢化に比例して当然増えていた。

「……確かXX大学以外にも大学を出られたんですよね? わたしも大学受けたんですけど、二浪しても受からなかったので、諦めました。そんなわたしからしたら、健吾さんはすごい人です」

 夫婦もいわゆる団塊ジュニア世代だった。割りを食った世代と言われており、その一つは大学受験での過度な競争だった。健吾は現役で大学に合格したので、受験に失敗したことの悲しみとか敗北感はわからなかった。とはいえ、健吾からしたら、高校の同級生と結婚していることがはるかに誇れることのように思えた。確かにありふれたことかもしれないが、健吾にとっては、まったくありえないことだった。

「まあ、当時はパラノイアックなまでに勉強してましたからね。田舎で娯楽もないし、勉強が娯楽のようなものでした。参考書や通信教育も充実してましたからね」

 それは嘘ではなかったが、そうした言い方ではまったく伝わらないものがあると健吾は思っていた。それはしかし、非常に言いづらいことだった、言葉にしづらいという意味で。実際のところそれは、具体的な何かではなく、精神的態度と言えた。ある凝り固まった考え方と、それに付随した歪んだ見方で、その結果として残念な高校時代を過ごしたと言えたが、それは情報が限られた田舎の高校生にはあり得ることだと思われた。もっとも、そうした考え方を持っていたがゆえに大学に現役合格できたという面はあるのだが。

「何はともあれ、健吾さんが佐渡に帰ってきて、こうして出会えて嬉しいです。何かこれからの目標とかありますか?」

 独身の五〇男にこれからの目標などあるだろうか? 親の介護を除いては。とはいえ、趣味の面では、展望がないわけではなかった。

「そうですね。とりあえず電動自転車を買って、行動範囲を広げたいですね」

「いいですね。でも、車ではないんですか?」

「車は親の車を借りるとして、やはり自転車にこだわりたいです。なぜなら、酒が飲みたいから」

「お酒飲みなんですね。まあ、そこは公共交通機関が発達していない田舎の弱点ですよね。ささ、どうぞ」

 奥さんはそう言って、目の前の男のおちょこに酒を注いだ。健吾はだいぶ酔いが回っていた。そうなると、自ずとエロい欲望が頭をもたげてきた。ついつい目の前の女性の身体を想像したくなったが、隣に旦那がいるので、自主規制した。そのとき、もう一つの田舎の弱点に気づいた。それは、カネで性欲を発散させられないことである。健吾は横浜にいた頃からそれほど性風俗を利用していたわけではなかったが、それでも、その可能性があるのとないとのではまったく違うと考えていた。つまり、性風俗を実際に利用しなくても、いつでも利用できるという可能性の次元で性風俗を利用していたと言えた。

 さらに言えば、性風俗に限らず、女性の絶対数の違いもあった。つまり、都会では、街を歩けば、かなりの確率でエロい女性に出会えたが、佐渡ではそうしたことは年に数えられるくらいしかないと思われた。都会でナンパで仲良くなった女性はいなかったが、それでも日常的に女性が見れて、たまには視線を交わせるのはある種の幸福と言えなくもなかった。

 結局、カネを介した女性の享受は、一つのオプションであり、出会い系アプリや酒場で出会う女性は、幸福の先触れだったが、ともにセックスというくくりでくくれた。前者は快楽としてのセックスに、後者は理想的には愛を伴うセックスにつながった。

 愛を伴うセックスは今なお最高の目標だったが、もはや儚い望みに感じられた。まず、相手をゲットできる可能性が相当低いということがあった。それは、これまでの女性関係の不首尾で実証されていた。さらに、万一そうした相手が見つかったとしても、そのときは間違いなく相手に執着すると思われた。その挙げ句、相手を失うことを恐れて日々を送ることになるのである。それもまたこれまでの恋愛で経験していたことだった。そうした事情から、健吾はほかの快楽こそを追求すべきであると考えていた。

 その最たるものが執筆だった。それは快楽というにはあまりに労力が大きかったが、それでもそれはほかの趣味とは次元が違った。しかしながら、執筆を女性よりも優先させるかと訊かれたら、たぶんしないと思えた。とはいえ、女がいないから執筆というのは飛躍があった。だからそれは一つの特異な選択と言えた。結局、執筆の動機が何かと訊かれたら、それは個性と言うほかない、と健吾は考えていた。

 話題は、親の介護の問題に移った。健吾の場合、介護は差し迫った状況ではなかったが、遅かれ早かれ当事者になる予定だった。まだ介護を経験しないうちから、翻って我が身はどうなるのか、と考えるのだった。独り身というのは、この佐渡では特に、物理的なレベルで整合性を欠いていた。つまり、だだっ広い家に一人で暮らすというのは、あまりに無駄が多すぎた。一人飲み客が大半を占める店もなかった。田舎で結婚が声高に勧められる一因にはそうした田舎の状況が横たわっているように感じられた。

 その点、目の前の子どもがいる夫婦にはまっとうな人生を歩んでいるという意識があるだろう。見たところ、夫婦仲が悪そうではなかったし、自分とはまったく次元の違う人生を送っていると思えた。自分にはついぞ縁がなかった人類の再生産という生物としての使命を全うしたことが、そう思わせた。子どもを通して、人生を生き直すような感覚もあるだろう。とにかく、子育てを通して、人生は激変したはずだ。そこは三〇代の頃からあまり変わらないライフスタイルを送っている健吾とは、決定的に違うところだった。

「親を亡くしたりした人も少なからずでてきていますし、そういう年齢なんですよね」

「ええ、そうです。それに、同級生にも亡くなった人もいます。五〇代って病気のリスクも上がりますし、例えば老眼とか老化を実感しますね。そうなると、健康がいかに貴重かということに嫌でも気付かされますね」

「それでもお酒は止められないですか?」

「ああ、そうですね。確かに健康第一なら酒も止めるべきでしょうが、そこは難しいですね」

 健吾はそう言って、口角を上げた。

「分かります。私たちもそうです。お酒がないと、詰まらないですもんね。わたしは特に飲み会が好きなんですよ。もちろん、今日のように二人で飲むのもいいんですけど」

 そう言って、夫に目配せした。そのとき、夫婦間の深い関係が垣間見れた気がした。

「だけど、飲み会もなかなか難しくないですか? やはり足の問題があるので」

「そうなんですよ。でも、この近くで定期的に飲み会やってるんですよ」

 奥さんは、島外からの移住者が主催する飲み会について話した。その飲み会は、XX町のとある民家で開催され、会費は三千円で、誰でも参加できるということだった。

「健吾さんも参加したらどうですか? いつも一〇人くらい集まるようです」

「……大人数ですね。でも、いいかもしれませんね」

 健吾はその飲み会のInstagramのアカウントを教えてもらった。

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