第3話
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平成二年も春を迎えようとしている頃、理美は浮かれていた。家族のことも勉強のことも忘れるくらいだった。それはおよそ半年前に始まった恋愛のためだった。同じクラスのテニス部の同級生で、ほとんど話したことはなかった
二人の関係が進展したのは、今年一月の席替えで、伸郎が理美の前の席になったことが大きかった。伸郎はよく話しかけてきた。話題は、勉強のことだったり、家族のことだったりした。やがては理美から話しかけるようになった。朝、玄関で会えば「おはよう」と挨拶した。バレンタインデーは、伸郎にチョコを上げるのが当然の流れだったし、実際にチョコを上げた。市販のチョコだったが、メッセージを添えた。
それがきっかけで、理美は伸郎と交際するようになった。毎日が新鮮だった。これまでとの違いは、毎日伸郎と帰宅することだった。それは楽しいだけでなく、疲れたり、不安にもなることもあったが、総合的には楽しさが勝った。その一方で、カップルになることで初めて体験した気苦労もあった。クラスメイトからやっかまれたり、親の干渉だったり、直接的に何かあるわけではないが、町の人からも監視されているような気がした。小さな町では、若者がカップルで歩くことが異様に目立つのである。
母親からは、節度をわきまえなさい、と言われた。それはわかっていたし、理美はまさかセックスする気はなかった。手をつないだりするのも恥じらうのに、セックスは非常にハードルが高かった。
伸郎はホワイトデーに、律儀にお返しをくれた。それは、一緒に下校したとき、別れ際に手渡された。理美は、自分の部屋でさっそく包装を開いて見てみた。それはクッキーだったが、ありふれたものではなく、たぶんどこかデパートにでも行かないと売ってない、外国のブランドのものだった。理美は、自分のチョコがどこにでも売っているありふれたものだったので、負い目を感じた。さらに、添えられたメッセージに動悸が早まった。それは、ルーズリーフなんかではない、薄い青色の便箋に書かれていた。決して上手ではないが、丁寧な字だった。
理美へ
いつもありがとう! 理美と付き合うようになってから、毎日が楽しくなったよ。テニス頑張ろうね!
伸郎より
理美は嬉しくなって、便箋にキスした。便箋だけでなく、水色の包装紙とリボンも捨てずに、机の引き出しに鍵を掛けて閉まった。早く友達の優里に話したかった。理美は好きなレベッカの曲をかけながら、彼氏と交わした会話やその笑顔を思い出して悦に入っていた。そんなときに、いきなり部屋のドアが開いた。兄だった。
「おい、うるさいぞ!」
「ごめん。だけど、ノックぐらいしてよね」
理美はそう言うと、ラジカセの音量を下げた。兄は、自分をしげしげと見ていた。
「何よ~?」
「おまえ、最近、浮かれてないか?」
やはり顔に表れているのか、と理美は焦った。
「どうだっていいでしょ。用がないなら出てってよ」
兄はニヤニヤしていたが、何も言わずに出ていった。思わぬ闖入で、理美は熱が覚めた。ホワイトデーなのに兄にお返しする相手などいるわけがない。なんとも哀れな奴。誰かを好きになっても付き合えるわけがない。そもそも会話ができるのかという疑問がある。でも、たぶん失恋はしたのだと思う。去年の秋だったが、兄の部屋から号泣する声が聞こえたことがあった。そのときは謎だったが、よくよく考えてみたら、夏が終わった頃、兄らしからぬ質問をされたことがあった。Gジャンにパーカーとチェックのシャツのどちらを合わせるのがいいか訊かれたのだった。ファッションに疎い兄だったので、理美は面食らった。そのとき、兄の表情はいつもと違って明るかった。そのときの質問は恋愛がらみであり、号泣は女子に振られた結果と考えると、辻褄が合う気がした。その号泣が聞こえた日以降、兄はますます自室に閉じこもるようになり、日々不穏な空気を家庭に送り込んでいた。
その日の夜、理美が風呂から上がって自室に戻るために階段を登っていると、自室のドアの隙間から明りが漏れていた。ドアを開くとそこには自分の机に座っている兄がいた。
「ちょっと何してるのよ? 人の部屋に勝手に入らないでよ」
「おまえ、包装紙なんて捨てーや」
「何っ! 鍵かけといたのにどうやって開けたの?」
「鍵の場所くらいお見通しなんだよ」
鍵は本棚の英日辞書の空き箱の中だった。理美としては、考えられた隠し場所だと思っていた。
「とにかく、プライバシーの侵害だよ。もう金輪際勝手にわたしの部屋に入ったり、机の引き出しを漁ったりしないで!」
「その伸郎くんとはどうなってるんだ? キスくらいしたのか?」
兄はニヤニヤしながら、理美の言葉を無視して続けた。理美は怒りがこみ上げてきた。
「どうだっていいでしょ。わたしのことが気になるの? そんなことないよね。勉強の成績しか興味がないからね。でも、本当は女の子が気になるんでしょ。だから、わたしに嫉妬してるんでしょ。自分は振られたから。当然よね。誰があんたなんか――」
「うるせー。このビッチが!」
理美が怒りに任せて、得意の口撃を繰り広げる中、兄は自分に体当たりして部屋から出ていった。理美は反動で尻もちをついた。兄の態度からカマかけが当たったのは間違いなかった。それは収穫だった。兄の弱みを握ったのだから。
それからというもの、二人は常に戦闘状態だった。理美は親に頼んで、自室に鍵を付けてもらい、プライバシーの保護を強化したが、それでも兄の脅威からは逃れられなかった。実際に何かあるわけではなくても、ただ兄と同じ家に住んでいるだけで日々緊張が続いた。兄は姑息な手段で自分を苦しめた。それは、自分のシュークリームを食べたり、生理のときにからかったり、あと最悪なのは風呂上がりに、自分の部屋に来て下半身を露出したことだ。もはや犯罪行為だった。母親には訴えたが、ストレスが溜まってるんだから我慢しなさい、と退けられた。おばあちゃんは、共感を寄せたものの、様子見を勧めた。
兄の学力に高津家の大人全員が夢を見ているようだった。理美にはそれが理解できなかった。なるほど有名大学に合格できる学力は貴重なものだろう。しかし、それがほかのあらゆることに勝るというのは、まったく理解できなかった。例えば、兄には友達や彼女などいそうにない。それは、自分に対する行動にも表れているように、歪んだ性格のためだ。そういう人間が大学に進学し、指導的立場に就くというのは空恐ろしいことではないだろうか。そのことを家族の誰も問わないというのは、血筋を過信しているためのように思える。つまり、自分の子どもだから大丈夫、と。しかし、兄はすでに一線を越えているように見える。それなのに、家族だからといって大目に見ることは結局、学力の威光に目がくらんでいるのだ。
春休み明けに、久しぶりに伸郎と下校するとき、理美は兄のことを話題にした。下校路に等間隔に並ぶ桜の木々から花びらが舞う何とも華やかな昼下がりだった。伸郎に話すことにより、彼にも不安を抱え込ませることになるが、孤立無援の状態で、悩みを一人抱えているのは辛すぎた。
「ふ~ん、そんなことがあったんだ。それはひどいな」
語気を強めて、そう言う伸郎に理美は胸がすく思いがした。味方がいることは何と心強いことか。暗闇の中の光明だった。それは、女の子の友達に打ち明けるのとは違った。
「今度何かあったら、俺がお兄さんに言ってやるよ」
「……ありがとう」
思いがけない言葉だった。理美は嬉しかったが、兄の陰険さを知っている身としては、伸郎に迷惑をかけたくなかった。
「俺、本気だから。聞くところによると、全然強そうじゃないし」
「全然強くないんだけど、あまり関わってほしくないかも。どうせ兄は高校卒業したら、家から出ていくだろうし。もうあと一年くらいの辛抱なんだよ」
「なるほど。それでも一年は長いよ。まあ、俺がしゃしゃりでたところで何も変わらないかもしれないけど。でも、暴力や局部の露出なんてことが今度あったら、やめろと言ってやりたい」
二人はしばらく無言で歩いた。およそ五分ほどの通学路である。田舎の町では、歩いている人は少ない。大人は基本的に車で移動している。自分たちはこの土地では異端である。カップルで、徒歩で移動しているというだけで、普通じゃない。そうした状況と、彼氏からの心強い反応が相まって、理美は気分が高揚していた。伸郎がいれば何も怖がることなんてないんだ、と。理美は初めて彼とキスしたいと思ったが、そこまではできず、相手の手を握っただけだった。理美は自分の手を握り返す力に頭がぼーっとした。図らずも兄を通して、伸郎との距離が縮まったようだった。その点だけは、兄に感謝したいと思った。
いよいよ理美の家の門が視界に入った。最高に幸せな時間も間もなく終わる。それは悲しかったが、明日も会えることを考えれば、元気が出た。
家の門の前で、二人は離れて、向き合った。お互いに別れの言葉を口にするのを惜しんでいるようだった。その甘美ともいえる空気に逆らって、理美が「また明日」と言おうとしたとき、十字路の角から現れた兄が視界に入った。
理美が「兄だ」と言うと、伸郎は振り返った。兄は一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべたが、すぐに状況が飲み込めたようだった。三人が家の門の前で固まった。皆無言だった。
「伸郎くんだね。仲良く下校とはお熱いことで」と兄が伸郎をじろじろ見た後言った。
伸郎は兄を睨んでいたが、合図を求めるようにこちらを見た。理美が「じゃあ、また明日」と声を掛けると、伸郎は「じゃあ」と言って離れた。
「家に寄ってもらわんで良かったの?」と兄。
理美は無視して、門をくぐった。
「別に俺はええんだよ。二人がもっと深い関係になっても」
理美はその言葉に苛つき、思わず声を荒らげた。
「人の恋愛に首突っ込まんでよ!」
「おー、『恋愛』ときたか。青春しとるね。命短し恋せよ乙女ってか」
兄はそう言って、「ククク」と嗤った。その態度から兄が恋愛を馬鹿にしているのがわかった。それは、自分ができないからだ。恋愛できない、女の子としゃべれない。そんな小心者がプライドを維持するには、恋愛を貶めるしかない。学校でも恋愛を勧めているわけではない。恋愛する場所ではないから当たり前だが。しかし、恋愛は自然なことであるはずだ。自然な感情に背を向けて、学業一辺倒とは哀れだ。親も兄には勉強しか期待していない。そんな外からの期待に応えることで、自分を正当化しようとしている。兄はそれが無理なことをわかっていないのだ。いや、わからないふりをしているんだ。本心ではわたしや恋愛している同級生に嫉妬しているのに、学業成績を振りかざして、自分の方が上等な人間だと思い込もうとしている。
その日の夜、理美が自室で予習しているとき、兄が来た。理美は身構えたが、兄はいつもように薄ら笑いを浮かべておらず、どこか真面目な顔つきをしていた。
「あの伸郎って奴、良さそうな奴じゃねーか。まあ、仲良くやれよ」
兄はそう言って、去っていった。理美は呆気にとられた。夢でも見ているのではないかと思った。まるで別人になったかのようだった。兄に何が起こったのか、と頭の中が疑問符でいっぱいになった。
それから数日後の土曜日、兄は模擬試験を受けに午前中から親の送迎で車で一時間ほどかかる町に行った。理美は、その間に兄の部屋に侵入した。増築したニ階にある兄の部屋に入ったのは、相当久しぶりだった。一年以上来てなかったかもしれない。壁にはダーツがかかっており、ダーツの的はボロボロになっていた。本棚には問題集と参考書がずらりと並んでいる。漫画やアイドルのポスター、ラジカセなどはなかった。いかにも勉強一色の兄らしい部屋だった。
理美は兄が一日何時間も座っている学習机の椅子に座ると、全部で四つほどある机の引き出しを開けてみた。一番上の鍵付きの引き出し(鍵はかかってなかった)に、模試結果の紙などに混じって、折り紙のように折りたたまれた薄いグレーの紙があった。開くと、それは女の子からの手紙だった。兄からの交際の申し出を断る手紙だったが、相手の美和子という子は、「勉強頑張ってください」などと兄のことを配慮していた。必ずしも兄を嫌悪しているというわけではなさそうだった。この子と付き合っていれば、きっと兄は変わっていただろうに、と思うと残念だった。あるいは、兄は今のままではダメだ、と気づいたのかもしれない。だから、ああいうことを自分に言ったのではないだろうか。
手紙を苦労して元通りにたたみ、引き出しに戻すと、ほかの引き出しを漁った。一番下の引き出しに、プリント類に混じって、エロ漫画雑誌が三冊ほどあった。そのうちの一冊をペラペラとめくって見たが、これを見てオナニーしているかと思うと、嫌悪感でゾッとした。まあ、男の子なら皆やっていることだろうが。
理美は今度は本棚を調べてみた。三段の本棚の本には、表列と裏列の二列があった。表列は勉強関連の本ばかりだったが、裏列には漫画や小説があった。理美が注目したのは、中央の段の裏列にあったカバーが裏返しになっている本だった。その本を取り出して、カバーを確認すると、それは「モテる男になるためのテクニック」というタイトルだった。理美は思わずにんまりした。兄からしたら、恥ずかしい本なのだろう。しかし、モテたいという気持ちを持つことは決して悪いことではないと思えた。兄自身変わりたいと思っているのであれば、それは歓迎すべきことだ。
理美は本を捲ってみた。「まずは挨拶から」、「自分を印象付けるチャンスを逃すな」、「口約束は絶対に守れ」などの見出しが並んでいた。理美もそこから学べる内容のように見えた。
理美は小一時間ほど、その本を読んでから部屋を出た。
その日、昼食の片付けのとき、理美は「さっき、兄ちゃんの部屋で面白いものを見つけたの」と、母親に本のことを話した。母もきっと笑ってくれると期待して。ところが、母は顔を曇られた。
「まあ、そんな本を。あの子らしくない」
「でも、モテたいと思う気持ちは大事だと思うの。だって――」
「大事なわけないでしょ! それで勉強が疎かになったらどうするのよ」
理美は反論したかったが、その語気に怯んだ。そこで祖母に助けを求めた。
「おばあちゃん、やっぱり女の子にモテるのも大事だよね?」
「……だけど、今は勉強第一じゃろ」
理美は暗澹たる気持ちになった。考えてみれば兄も哀れな存在なのかもしれない、と初めて兄に同情した。
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