第2話

 

 一九八九年一月七日。

 理美が朝起きて台所に来ると、昭和天皇の崩御のニュースを受けて、祖母が目を赤くしていた。理美には天皇がどれほどのものかわからなかったが、去年の秋に天皇が入院してからのマスコミの過剰な反応が終わることに安堵した。

 ダイニングテーブルには、兄と父がいた。最近、理美は家族とは何なのかと考えることが増えていた。自分と母と祖母はまるで二人の召使いのようだから。理美だけが洗い物や食事の支度を手伝わされた。その間、二人はテレビを見たり、好きなことをしているのに。理美が母に不平を漏らすと、「理美ちゃんは女の子でしょ。家事ができんと将来困るよ」と母。理美は納得できなかった。女だけが家事を強制されるのは。最近ますますそういう思いが強まっているのは、二人への反感のためだった。父は、大手味噌会社の管理職だったが、去年会社で汚水垂れ流しの不祥事があって以来、休日も会社に行くことが多くなった。ボーナスも激減したという話を耳にした。そうしたこともあってか、いつもピリピリしていた。兄は高一になるが、高校生になってから自室に籠もりがちになった。メガネを掛けるようになり、髪型ももっさりして、おしゃれに縁遠いダサいやつになった。家族と顔を合わせるのは食事のときくらいだったが、そこでもほとんどしゃべらなかった。そうなると、兄への愛着は日に日に薄れていき、次第に他人のように思えてきた。一緒にゲームをやったりして、遊んでいた中学の頃はそうでもなかったのだが。

 理美は高津家の男性陣に絶望していたが、母親にもまた反感を抱いていた。とかく兄を甘やかし、「健吾は今大変なんだから」と兄が自分のアイスを食べたことへの苦情も受け付けなかった。家族の中で理美が唯一心を通わせているのは祖母だった。物心ついたときからずっと祖母に甘えていた。自分はおばあちゃん子だと思っていた。

 理美は祖母に声をかけたかったが、どう言えば良いのかわからなかった。とりあえず、自分の席について、朝飯を食べた。一月七日は、七草雑煮の日だそうだ。理美は嬉しかった。雑煮は好きだから。でも、朝から暗かった。天皇が死んだのだからそれは仕方がないことだろう。月曜日から学校が始まる。学校のほうが理美は良かった。学校に行けば友達に会えるから。家庭は今や牢獄のようなものだった。ただ祖母だけが心の拠り所だが、落胆している祖母を見ると、理美もまた心が痛だんだ。


 その日、理美は残っていた冬休みの宿題をやったり、音楽を聴いたりしていた。夜は、家族とテレビを見た。昼に「平成」という新しい元号が発表されたことを知った。天皇の死去とはこの国の一大事なのだとようやくわかった。

 祖母は昭和天皇よりも一〇歳ばかり年下ということだった。戦前は天皇が神聖視されていたことを歴史の授業で学んでいた。祖母にとって、天皇はそうした崇拝の対象だったことを聞いたことがあった。義務教育で現人神だと教えられたそうである。太平洋戦争の責任者として、天皇は責任を取るべきという声を聞いたことがあるが、祖母に言わせれば、陸軍が悪いということだった。戦前は、現人神だった天皇は、戦後は、普通の人へと変貌を遂げたと、歴史の授業で教わったが、祖母にとって、戦後の天皇は、自分にとって好きなアイドルのような存在なのかなと思った。実際、昭和天皇の若い頃の写真を見ると、皇太子とは違って威厳がある。なるほど神聖視されるだけのことはあるなと思った。その天皇が身近な存在へと変わったのだから、戦前の天皇に抱いていた畏怖の念は、そっくりそのまま強い愛着へと変わったのではないだろうか。

「平成ってなんか平凡な感じだね」と理美は元号が話題になったときに言った。

「昭和時代のような戦争がない平和な時代になるようにという意味で平成なんだろうな」

 でも、新しい時代はいいな、と理美は思った。理美は、早く家を出て自分にとっての新しい時代をスタートさせたいと思っていた。この家は、旧家だそうだが、居心地は良くない。日本家屋というのだろうが、縁側があり、囲炉裏がある畳の居間は、どの友達の家とも違っていた。自分の部屋はあるが、鍵はない。プライベートが確保されているとは言い難い。プライベートが気になるようになったのは最近だ。とりわけ、兄の存在が脅威となってからだ。家族なのに嘆かわしいことだ。犯罪者と同じ屋根の下に住んでいるような気分になるのは。

 兄は今日も一人で自室に籠もっていた。それはニ階にあるおよそ六畳の部屋である。そこに何があるのか? 机や本があるだけで、テレビなどの娯楽装置はなかった。そこで長時間過ごせることが理美にとっては驚きだった。中学生の頃までは、テレビゲームに明け暮れていた兄にいったいどんな変化が起こったのか? それとも、高校生になるとそれが普通なのか? つまり、学業成績のためにあらゆる努力を払うことが。理美は自分が高校生になっても兄のようにはならないと思っていた。まず楽しくないだろうから。毎日楽しいのか、と一度兄に訊いたことがあった。そのときは「何を低レベルなことを言っとるんだ」と怒られた。その反応は楽しくないことを認めたも同然だと理美は思った。もちろん学生の本分は学業だが、それが成績のためだとしたら、それはどこか歪んでいるように思える。兄がそう言ったわけではないが、模試の成績がどうこうという話を親としていた。親もまた理美には不可解であった。兄の学業一辺倒の今の態度を否定するどころか、机に向かうことを奨励していた。夜更けになると、母親は兄の部屋に夜食を差し入れに行くことがよくあった。一度も自分にはそんなことしたことないのに。両親も兄も総じておかしいのだ。


 その日の夜、午前〇時過ぎに理美がトイレに行ったとき、外でバイクの音がした。バイクは家のガレージに停まったようだった。時間が時間だけに何事かと思い、トイレが終わってからも個室で息を潜めていたが、玄関の扉が開く音がすると、バイクに乗っていた人物は、トイレに入ってきた。個室と小便器のある広いトイレである。理美はその咳払いから「あっ」と思って、個室から出ると兄が小便していた。

「何だ。おまえか」

 兄は肩越しにこちらを見た。

「こんな夜中にバイクでどこ行ってたのよ? そもそも免許ないでしょ。当然父さんは許可してないよね」

「どこでもないよ。ちょっと近所を走ってただけだ。免許は親が許可してくれないから」

「だからって、無免許で乗っていいわけないでしょ。事故起こしても知らないからね」

「……」

 兄はこちらを無言で睨んだ。

 理美は布団に戻って布団の中でさっきの兄とのやりとりについて思い返していると、ますます兄のことが恐ろしくなった。この冬の寒い深夜に一人で無免許で原付きで走るなんて、正気とは思えない。折も折、天皇が亡くなった日だというのに。確かに天皇が亡くなったからと言って、国民全員が喪に服すというのもピンと来ないが、少なくともおばあちゃんは、その一人なのだから、その気持ちを尊重するのが家族だろう。彼はおばあちゃんに限らず、わたしにも無関心だ。おそらく何かの病気か障害なのではないだろうか? それでも、親は兄の態度を咎めない。成績がいいからなのだろう。だけど、親が兄の奇行を知ったら、どう思うだろうか?

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