真夜中のフルスロットル

spin

第1話

 パート勤めを終えて、建物から出ると生暖かい風が理美さとみを出迎えた。三月半ばの今、それは春の到来を告げるものだった。

 理美が勤めている特養施設は、およそ三〇年前に田んぼの埋立地にできたものである。その面積は広大だった。収容人数は何百人規模に上ると言われている。島内で唯一の成長産業といえば介護だと理美は思っていた。とにかく、少子高齢化の勢いは凄まじく、介護職だけは常に人手不足だった。職場は戦場さながらの忙しさだった。この忙しさがこれから緩和されるとは思えなかった。そんな日常でも、理美には希望があった。それは娘の鈴香すずかである。

 理美は車を出すと、隣町のスーパーへと向かった。夕食に考えているレシピは、鈴香の好物のロールキャベツに加え、ズッキーニとサーモンのカルパッチョだった。ズッキーニは隣町のスーパーまで行かないと売っていない。不便と言えば不便だが、別に気にならない。それは長年の田舎暮らしで慣れたのだ。これが普通だと思えば耐えられる。

 今日娘は一四歳になった。あと一〇年かそこらは扶養しなくてはならないが、もう子育ての大変な部分は終わったと思っていた。

 結婚生活も一四年を迎える。もう自分の人生に大きなプラスの変化はないかもしれないが、恵まれたほうだろうか。結婚して子どもがいるだけでそう思える。燃えるような恋愛も都会暮らしもしていないし、これからもしないだろうが、それでもささやかな幸せには与っていると思う。子供のことは心配が尽きないし、少なくとも成人して就職するまではそうだろう。でも、それは子供を持った以上は仕方がないことだ。逆に子供のいない人生だったら、どうだろうか?

 理美は、スーパーで買い物した後、お菓子屋でショートケーキを買った。


 帰宅後、料理を作りながら、鈴香の帰宅を待っていたが、通常の帰宅時間である一八時を過ぎても戻ってこなかった。夫の帰宅は二〇時過ぎになるだろう。理美はひとまずカルパッチョを冷蔵庫に入れた。鈴香にはスマートフォンを持たせていないので、連絡を取る手段はなかった。娘からはスマートフォンをせがまれていたが買い与えてなかった。しかし、不便を感じるのも事実だった。そろそろ、と夫とも話していたところで、「三年生になったらね」と鈴香には言っておいた。

 理美は娘に今日は真っ直ぐ帰るように朝伝えておいた。そのとき、彼女は何も言わなかった。その時点で、鈴香には予定があったのかもしれない。もしくは、真っ直ぐ家に帰るのはまっぴらと思っていたのかもしれない。


 一九時過ぎに帰ってきたのは夫の隆雄たかおだった。隆雄は鈴香がまだ帰ってきていないことを知ると「えっ!? なんで?」と声を上げた。

「知らないわよ。まあ、一四歳ともなれば、素直に親の言うことを聞く年齢でもないからね」

「せっかく早めに切り上げてきたのに」

 隆雄は部屋着に着替えると、ダイニングテーブルで缶ビールを飲み始めた。理美は夫とサシで飲みながら、もう娘にスマートフォンを持たせないか、と提案した。隆雄はそれに同意した。彼が自分と同じことを考えているのは明らかだった。

「しかし、朝真っ直ぐ帰るように言ったのに何してるんだろう」

「親の心子知らずだから」

「むしろ子の心親知らずだな。最近は会話もあまりないし。中年オヤジに嫌悪感を抱く年頃なんだろうけど。女の子は難しいね」

「う~ん、そうね。そういう年頃なんだね。まあ、中年男性への嫌悪感は仕方ないよ。ビジュアル的に若い子には敵わないんだから。それに、もう親に何でも話すような歳でもないのよ。秘密を持つような歳なのね」

「そうだな。でも、君には話すようなことでも、絶対に俺には話さない気がするんだな。それはやはり女性の男性への生理的な嫌悪感かなって思う」

「要するに男がスケベだってことへの嫌悪感?」

「その通り」

 夫は笑みをこぼした。

「それは、通過儀礼だね。せいぜい清潔感のある服装をして、子どもの前では、性的な欲望を見せないことくらいしかできないんじゃないかな。まあ、でもそういう嫌悪感は健全というか、親としては安心できるでしょ?」

「ああ、そうだね。嫌悪感がないほうが嫌だな。まあ、仕方ないことだな。親子でも性差という壁は越えられないってことだ」

 夫はそう言うとグラスを空けた。

「そんな落ち込むことないよ。男親に期待することは、やっぱりあるんだから」

「ああ、わかってるよ。俺は君とは違って、ガールズトークには付き合えないだろうし」

「そうそう、無理に合わせることはないよ。例えば、力仕事とか日曜大工とかでアピールできるよ」

「まあ、そうだな。やっぱりそこだよな」

 理美は笑顔でうなずいた。

「それにしても、遅いな」

 時計は一九時二〇分を指していた。

「ほんとね……」

 理美は夫と見つめ合った。相手の目にひそかな心配の色を認めた。

「ちょっと、近所を見てこようか?」と夫。

「……そうね、あと一〇分経っても帰ってこなかったら」

「わかった」

 それからは二人とも押し黙った。ある種のチキンレースを戦っているかのようだった。理美はよからぬことを考えた。それは、鈴香と同じ年頃に自分の身に降り掛かった出来事だった。ちょうど今頃の季節だった。日が落ちた頃、川沿いの道を犬の散歩をしていたとき、男がすれ違いざまに自分を抱きしめて、スカートの中に手を入れてきた。理美が強く抵抗して、大声を出したため、犯人は逃げたが、もし何もしなっかたら、レイプされたかもしれなかった。泣きながら家に帰り、しばらく平静を装っていたが、怖くなり、数日してから母親にだけは話した。それは決して忘れられない恐怖体験だった。その教訓から鈴香には防犯グッズを持たせてあった。

「ああ、やっぱり待っとれんよ」

 最初に口を開いたのは隆雄だった。まだ五分しか経ってなかったが、理美は外出しようとする夫を止めなかった。

 隆雄が着替えている間に、玄関のドアが開く音がした。鈴香だった。夫婦の緊張が緩んだ瞬間だった。

 鈴香は見たところ普通だった。例えば、傷や着衣の乱れはなかった。しかし、三人での食卓は、決して誕生日に相応しい雰囲気ではなかった。まだ歳を取るのが嬉しい年齢のはずだが、「誕生日おめでとう!」の声に鈴香は誰とも視線を合わせず、「ありがとう」と小声で言った。

「今日は遅かったね」

「……」

「あのね、お父さんとも話したんだけど、スマートフォンを買ってあげようと思うの」

 鈴香は二人を見渡した。

「さっそく週末、買いに行こう」

 一四歳を迎えた娘はうなずいた。


 その夜、理美が隆雄とテレビを見ているとき、母親からLINEがあった。それは四月から兄が実家に戻ることを告げるメッセージだった。

 それは悪い知らせにしか思えなかった。理美は思わず顔をしかめた。夫に話すと、「これでお義母さんも安心だね」と夫。

「どうだか。彼女はネットしないから知らないのよ。兄が何してるか」

「翻訳家だっけ?」

「そうだけど、他にも小説書いてるんだ。わたしも全部読んだわけではないけど、読んでて腹立つことが多いんだ。主人公がろくでもないのに、なぜかモテたりしてね」

「別に小説ならいいんじゃないの?」

「いや、小説ならいいとは思わない。小説は一つの行動だと思うから。わたしと三つ違いだからもう五〇になるんだ。うーん、まあわたしの知る限りでは、この田舎で生活できるのかって思うよ。ネットがあればできるか。でも、人付き合いはどうかな」

「心配の種が増えたね」

「そうね。こっちは鈴香のことで大変なのに」

「でも、あの子にとってもいろいろな大人に接したほうがいいと思わないか?」

「いろいろな大人って、兄のこと言ってるの? それはだめよ。いい影響なんてあるわけないんだから」

「言うねえ。しかし、君にも同じ血が流れてるんだぜ」

「……痛いところを突いてくるね。だけど、血縁は親と子とではその意味が違うよね。親にしたら、子に責任を感じるけど、子にしたら、自分の意志にかかわりなく、親の子になったわけで、親に対して恩義を強制するのは違うって思うよ。最近はそういうイベントがあるんだけど。兄弟姉妹にしても、子から親への見方と同じだよ。とはいえ、似ているところはあるのかもしれないけど」

「二分の一成人式は俺もそう思う。あれは親のエゴだよ。むしろ、あとあとの子どもの親への反抗の種を撒くようなものじゃないかな。鈴香にいつそういう種が撒かれたのかは分からんな」

「あの子も難しい年頃なんじゃないかな。それとも、わたしたちに何か落ち度があるのか」

「家族っていわば密室だからなかなか自分たちだけではわからないんだよな」

「そうね。でもだからと言って、兄がこの家に出入りするのはだめよ」

「だけど、実家で暮らすようになったら、必然的に接触の機会は増えるだろ」

「それはそうね」

 夫は兄さんも変わってるかもしれないじゃないか、などと言った。それはありうることだった。しかし、理美にとって、兄の健吾けんごは最悪のイメージを残して実家を出ており、それ以来の三十年余で、そのイメージが変わることはなかった。

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