第7話 「ぼく」がきみを想う話

「俺さあ、確かにモテないし、恋人もいないし、まあ……欲求不満じゃないとは言えないくらいには、欲求不満だけど」

 うたくんに手を引いてもらって部屋までやってきた。にぎやかな町並みから少し離れたところにあるアパートで、近くには少し静かな商店街もある。ぼくがじいちゃんやばあちゃんと住んでいた頃に買い物に出ていた町並みに少し近い側面もあって、ちょっとだけ安心してしまった。都会に出るように言われて都会での生活を目指してやってきたけれど、やっぱり慣れ親しんだ育った環境をまるっと手放したことで、ぼくの中でも少しだけ動揺があったのは間違いない。じいちゃんとばあちゃんには会いたいときに会いに行けばいいけれど、きっとあのふたりはあの場所を手放すための準備を進めているだろうから。そうなったとき、ぼくの心が帰れる場所がどこにあるだろうかと考えていたのだ。これなら、この町並みを見るだけで少し安心するかもしれない。本当にいいところに仮住まいを手に入れられたと思う。

 最初にあるき出したときにはぼくが手を引いていたけれど、すぐにうたくんが先導する形に変わった。広いとは言えないアパートに二人で入って、案内されるがままに洗面所とトイレとお風呂を教えてもらった。生活費や家賃はぼくが収入を安定して得られるようになったら考えようと言ってもらったので、本当に助かるという気持ちを込めてありがとうという言葉を伝えた。もちろんあんまりスムーズに言えなかったけれど、気持ちが伝わればいいと思って。ぼくがちゃんと喋れないくらいでイライラしたり笑ったりしないでくれるうたくんは、本当に大らかで優しくて素敵なひとだなあって感じる。ぼくもそういうひとになりたいなあって思うくらい。

 とっても優しくておだやかで平和で、意地悪なことを言わないでくれる。ぼくの意見を尊重したいと思ってくれているときには、じっと言葉を待ってくれる。ときには彼から読み取った言葉を繰り返してもらったりして、今まで田舎でコミュニケーションで苦労していた頃とは桁違いのスムーズさに感動しながら、なんとかコミュニケーションを取っている。どうしても急いで伝えたいときなんかはスマホで文字を入力して見てもらうようなこともできる。臨機応変に対応してくれるから、とてもありがたい。それに関してもしっかりと感謝の気持ちをたどたどしいながら伝えたけれど、それを受け取ってにっこりと笑ってくれたうたくんだ。

 ぼくはもともと言葉を繰り出して会話をすることがあまり得意じゃないから、必然的に相手の感情を読み取って物事を運ぶことが多くなる。うたくん相手でもそれは変わらない。だから相手の顔を見ている時間が必然的に長くなるのだけれど、それに関して気付いたことがひとつある。彼は、うたくんは、どことなく満たされないような寂しさを抱えている。大きな大きな穴をこころの中に飼い慣らしている。ときどきふとした瞬間にその穴から漏れてきそうな寂しさを、必死に穴のなかに戻している。目元がときどき寂しそうだったりする。そのさみしさの原因をぼくは知らないけれど、穴を埋めるための手伝いを何かしらできたら良いなとは思う。家に住まわせてもらっているお礼とは別に、何かの形で。例えばぼくが、住まわせてもらうこととは別の問題として、友達になるとか。

 ぼくにだってなにかきみにしてあげられることがあればいいと思うんだ。そうやってスマートフォンに打ち込んだのを見せたら、冒頭の反応になってしまった。口調は怒っているし内容も怒っている発言なのに、表情は怒っていない。ぼくじゃないひとが今のうたくんを見ていたら怒っていると判断するかもしれないことを考えると、うたくんとしても怒っているのかもしれない。彼の部屋の、これからはぼくの部屋にもなったリビングで、うたくんはぼくをじっと見て言った。視線はかなり冷たくて、これは怒らせてしまったのかもしれないと不安になるくらいには、彼の全てが鋭くなっている。

 ぼくにはわかるんだよ、うたくん。そうやってぼくのことを鋭い視線で見ているきみの眼差しの奥は、小さな灯火のようなものが揺れているってこと。それが寂しさから来ているのか、ぼくという異分子を部屋の中に受け入れることに対する不安や動揺からきているのかは、ぼくだって心理学とかを学んでいないからわからないけれど。それでもぼくにはわかってしまう。拒絶や怒りの感情じゃなくて、うたくんがなにか柔らかいものを隠そうとしていることが、理解できてしまうんだ。ひとりでずっと抱えてきただろうに、これからの人生でも抱えていくつもりだったはずのその、柔らかいなにかを。そっと隠しこむようにして生きていくはずだったなにかを、ぼくが暴いてしまったのかもしれない。

 けれどもぼくは、吾妻亮太はここに誓っていい。これは同情なんていう感情からやっていることでも、申し出ていることでもないってこと。うたくんが少しでもしあわせになってほしくて、うたくんが少しでも抱えている寂しさみたいなものを解決するための手段になれたらいいって思っているってこと。わかってほしい。それくらい素敵な感情をきみにもらったから、ぼくは同じだけのことをきみにしてあげたいって思っているってこと。難しいかもしれないし、出会ったばかりでなにを言っているのかと思うかもしれないけれど、それでもぼくがきみのことをバカにしたり、哀れんだりしているわけではないということは、わかってほしいんだ。

 彼の身長は男性の平均のそれよりも少し大きくて、肉体もガッチリしている。居酒屋さんで働いているということを知らずに出会ってしまえば、彼がスポーツジムで働いていると言われてもうなずけるくらいには、体つきがガッチリしている。そんながっちりした身体を持っているうたくんと二人で、リビングのラグの上に二人で座っている。ぼくだって身長はそれなりにある上に体重だってそれなりにある。上京してくるまではじいちゃんとばあちゃんがやっていた農作業にぼくも参加していたし、そのおかげで筋肉も体力もある。うまく喋れないということがぼくを少し儚げに見せるらしいけれど、それはどうにも間違いだ。ぼくはわがままで、自分が欲しいものはどういう手段を使ってでも手に入れてやろうと考えるタイプだ。

「くっつくなって、亮太」

「ねえー……本当に、同情とかいらないから。この手も、ほら、離して」

 狭い部屋ではない部屋にふたりで、図体の大きな男二人でくっついて過ごしている。何をするわけでもない。うたくんの筋肉が、彼の呼吸に合わせて動いているのをずっと肌で感じていただけだった。なんでもないことのように思えるかもしれないけれど、彼の抱えるさみしさのようなものは、これをしたら少しだけ和らいだ。手を繋いだときと同じように、触れると一瞬だけびくりと揺れるのだ。けれど、そこからゆっくりゆっくりと身体の力が抜けていって、こわばりが取れていって、今ではこうやってなにも緊張することなくぼくに鼓動を教えてくれている。ああ、生きている。うたくんが生きている。死にそうになった人間を見たこともないのに、当たり前のことをとても尊く感じている。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。手を引いて待ち合わせ場所から歩き出したとき、やっぱり彼の手のひらは一瞬大きくびくりと揺れた。あのとき、あっという間に彼に視線を奪われてしまったのだ。いつだって居酒屋の制服を着ていたはずのうたくんが、私服を着ていた。見たことのない服装、見たことのない休日モードの彼。まわりにいる全ての人間が、彼に魅了されてしまいそうな気がして。それだけはいやだと、誰にもこの美しくて寂しがりな生きものをやらないぞという気持ちが膨らんで、手を繋いでしまった。ゲイだっていっていたけれど、もしかしたらいやだったかもしれない。彼氏がいたらどうしよう。彼氏に見られていたらどうしよう。そうなったらぼくも一緒に会って謝罪しよう。そんなことを考えるくらいにはうたくんは、ぼくをあの一瞬で魅了した。

 ひとつの部屋にいても、どうしても心の距離が縮まらないような気がする。まだ出会ったばかりだから、一緒に過ごした時間が短いから。なにもお互いのパーソナルなところを知らないから。距離を縮められない理由なんか山ほど思いつくのに、その空いてしまった距離を的確に埋める方法を思いつくことができなくて、手を繋いでいる。というか、ぼくが一方的にうたくんの手に触れている。体と体をくっつけている。ぼくよりも大きな身長で、ぼくよりもしっかりとした筋肉をつけている彼なのに。それなのに、どうしても、守ってあげたいと思ってしまう。

 同情なんかじゃないんだよ。ぼくは、きみに魅了されているんだから。見ず知らずの人間を家にこうして上げてしまって、一緒に暮らすことを提案してしまった。ぼくが悪いひとだったらどうするのだろう。ぼくが嘘つきだったらどうするんだろう。ぼくが、もっと大きな犯罪をしてしまっているような危険人物だったらどうするんだろう。そんな危ないかもしれないやつに、死ぬときはひとりきりになってしまうとか、両親が死んだら自分はひとりぼっちになるんだとか、そんな話をしてしまってもいいんだろうか。ぼくは別に守るものなんかないし、いざとなったら実家に帰るだけでいいけれど。ここに根を下ろして生きているうたくんは、そんなザルみたいな警戒心でいいのだろうか。ゆるゆるであまあまだ。

 触れている手のひらが、くっつけている背中が、どうにもあまくておいしい果実のように思えてしまう。農作業でさんざん手をかけて育てたトマトがおいしく熟れたとき、それを無事収穫できたときのような気持ちが、ふつふつと湧き上がってしまう。変な気持ちになりそうで、どうしても離れたくない。うたくん、恋人はいるのかな。もし恋人がいたとしたら、こんなことをしてしまったら浮気になってしまうかもしれない。恋人、いないといいな。こんな寂しがりやさんに恋人がいないことにも不安になるけれども、もし恋人がいるのならそれでもまだ埋められない空洞を抱えてしまっていることにも不安になる。どっちにしたって不安になる。かわいいから、抱きしめてもいいかなあ。ぼくより大きな身体を持っている、ぼくよりもどこか寄る辺ない雰囲気をまとう、うたくん。ひとりぼっちじゃないよ、ひとりじゃないよ。

「なあ」

「……ばかに、してんの」

 背中が大きくひくり、と波打った。ぼくはその動きを知っている。小さい頃、田舎の小学校に通っていた頃。ほんの少しだけ同級生がひとりきりで、教室にはぼくたち二人しかいない時期があった。小さな小さな小学校だったから、いろんな学年を合わせてひとつの学級にしていた。けれど、そのときは上級生も下級生もいなくて、本当にぼくたち二人だけの時期があった。同級生が田舎に来たばかりの頃だ。家族に手紙を書きましょうと、先生が言った。ぼくはじいちゃんとばあちゃんのどちらにしようかと悩み始めたけれど、となりに座った同級生はぴくりとも動かなくなった。そうして、背中をひくりと波打たせて、静かにはらはらと泣き出した。家族に山の中に置いていかれたことを思い出したのか、あるいは置いていかれてしまったという事実が心に闇をまとわせたのか、どっちなのかは今でも知らないままだけれど。きっとそれらが、同級生を泣かせた。

 だから見なくてもわかる。覗き込まなくてもわかる。うたくんは泣いている。どうして泣いているのかはわからないけれど、ふたつの瞳からぽろりとしずくが溢れてしまったことを、ぼくは理解している。どうやって慰めてあげたらいいんだっけ。頭の中にいる当時の同級生のことを思い出そうとして、それをやめた。目の前にいるのはうたくんで、泣いているのはうたくんだ。当時のぼくたちには当時のぼくたちなりの悲しみがあったのと同じように、今は彼が抱える彼だけのかなしみがそこに横たわっている。それをぼくは、受け止めるべきだ。昔の記憶なんかに頼っていないで、目の前でぼくにぶつかろうとしてくれている彼にまっすぐ向き合って、彼のためだけの解決法を見つけるべきだ。それが、人間と向き合うってことかもしれない。

「……っ、いい、からッ……」

 背中をゆっくりと撫でてみた。心臓の鼓動に合わせて、ぼくから少しだけ距離を取るように丸められた背中に少しだけ存在を主張している背骨に沿って、ゆっくりと手のひらを上下に動かしてみる。これをうたくんが良いと思ってくれるか悪いものと感じるかは彼次第だけれど、どうにか彼にとっていいものであるようにと願った。ぼくは彼を、きみを傷つけたいわけではないということが少しでも伝わったら良いと思った。それでいいと思ったんだ。だってぼくはうたくんのことを大事に思っているし、うたくんが素敵なひとだということも十分に伝わっているのだから。同情なんかじゃなくて、ちゃんとそこには愛情があるということ。伝わってほしいと思ったし、伝わってほしいと願った。

 ばかになんかしていないし、きみがしてほしくてぼくにできることだったらなんでもやりたいと思っていること。すらすらと言えないけれど伝えてもいいのかな。こういうときにもっとぼくがすらすらと喋れるような人間だったのなら、もっともっと彼に寄り添うことが出来たのかもしれない。こんなふうにひとりで悲しみを抱え込んで、さみしさに翻弄されながら大きな空洞を誤魔化す生き方なんかしなくても良かったのかもしれない。けれど、ぼくだって同じようなところがあるから。ぼくはうたくんの優しさやおおらかさに救われてここにいるのだから、それと同じようなことをしてあげられたらいいなと思ったんだ。そんなふうにひとりぼっちだと思い込まなくていいように。これ以上さみしくないように。

「ば、……か……ッ、……に、っっ……して、な……いよッ……」

「亮太、」

「ほんっ、……と……!」

「……ありがと、ありがと亮太、わかった、つたわった……だいじょうぶ、だいじょうぶだから」

 居酒屋で仕事をしているうたくんを見ていて思ったことがあった。ふとした瞬間に、世界中の人間が誰も彼のことを見ていないような錯覚に取られたような顔をすることがあるのだ。きっと無意識にそういう感情がそういう表情を作り上げているのだと思っている。ひとりぼっちじゃないし、彼のまわりにはたくさんの仲間がいるはずなのに。部屋に案内してもらうまでに何度か、うたくんはスマホの連絡を確認するために立ち止まったりしていた。その度に失望したような顔をしたり、どうでもいいものを見たような顔をしたりしてからスマホをしまっていたのだ。まあそういうこともあるだろうな、と思ってやり過ごしていた。都会のひとだもん、ぼくと違う生き方をしているのだろう。忙しそうだなとは思ったけれど。

 そういうちょっとした仕草に言及したりするのはまだ踏み込み過ぎかもしれない、とも思った。だってぼくはただうたくんの住む家に受け入れてもらえるだけの居候だ。生活費も自分で捻出できないし、仕事だって見つけることが出来ていない。手を繋いだままぽつぽつと話を詰めていくうたくんには、仕事も住むところもゆっくり探せばいいと言ってもらえたけれど。それよりもこの都会での過ごし方みたいなものを身に着けろと言われたけれど。それでもいつまでも甘えているわけにはいかないし、彼のお荷物にはなりたくないと思った。どんなことでも役に立ちたかった。

 彼はときどきどうしようもなく寂しそうな顔をするのだ。その表情を作り出す理由が知りたかった。少しでも寂しさが減ればいいなと思った。ぼくは昨日、うたくんと夜にメッセージでのやりとりをすることで少し大きな山を超えられたような気がしているのだ。彼の優しさのおかげで、超えなきゃいけないひと山を超えることに成功したんだと思う。それまではホテルで一人で滞在していることが、どうしようもなく不安で、どうしようもなく寂しかった。ときどきうたくんが見せる孤独な表情に比べれば大したものじゃないけれど、それでも初めて保護者から離れて過ごした数日間は、ぼくにどうしようもないくらいの大きな孤独と不安を押し付けてきたのだ。知らない街、知らないひと、知らないもの。それらと戦うためのエネルギーをくれたのは、彼だった。

 ぼくが手を繋いだとき、一瞬だけびくりとしたうたくんの手のひらは、それから少し楽しそうだったんだ。超能力も読心術もないけれど、それでもなんとなくわかったことがあったんだ。うたくんは、彼は、きみは、誰かに触れたり触れられたりすることが好きなこと。それを悪く思っていないこと。もちろん知らないひとや不快な相手からそれをされたら嫌なんだろうけど、ぼくのことはそういうカテゴリに入れないでくれていること。ほんのり赤く染まった耳や頬から見て取れた。悪く思われていないこと、少しだけ喜ばれていること。それがわかったから、頭もゆっくりと控えめに撫でてみた。これはぼくのじいちゃんが教えてくれた魔法だった。友達と今以上に仲良くなりたかったら、頭を撫でてみろと教えてもらったのだ。やってみたのはうたくんが初めてだった。

「もう大丈夫だから、ほんとに」

「ゲイでしかも彼氏もいない寂しさ拗らせただけだから……亮太も、優しさからやってくれたんだろ」

「な……、に、っ、を……」

「俺の頭撫でたり手を繋いだり」

 接してみて思ったことがある。彼はその見た目とは裏腹に、ひどく自虐的な言葉選びをすることがある。明るくて友達もたくさんいて、職場ではそれなりに多くのひとに頼りにされているというたいそうな人間のようにみえるのに、それなのに。ときどきふとした瞬間に、ひどく自分を見下してどうしようもない人間だと言うように話す時がある。自分に自信がないのかな。それとはまた少し違うような感じも、する。初めてづくしのことが多い中で、ぼくはぐるぐると回らない頭で考える。ぐるぐるぐる、ぼくが考えているのとは全く別の方向でなにか、違うものが回転してしまっているような気もするけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。

 今だってそうだ。うたくんはしっかりぼくと向き合ってくれて、それでぼくをこの家に住人となるように迎え入れてくれているはずなのに。それなのに、こういう行動に対して違う理由をつけようとする。ゲイだから。かわいそうだから。同情。哀れみ。そういう言葉をつかって、うたくん自身をやけに卑下しようとするのだ。誰がそんなことを彼に言ったんだろう。一体誰がきみにそんなことを言ったの、きみはそんなにどうしようもない存在じゃないし、きちんと地に足をつけて生きているすてきなひとなのに。ぼくがもっともっとすらすらとおしゃべりをできるような気の利いた人間だったのなら、そんなにひどい言葉を浴びせたひとのことを殴り飛ばしにいってやったってよかったのだ。

 こうみえてぼくは喧嘩っ早い時期があった。今でこそこうやって温厚な人間のように、無害で喋れませんという人間を装っているけれど。もう落ち着いてしまっているからそんなに簡単に誰かをほいほいと殴ったり蹴ったりなんかしないけれど、そういう分別が付いていない時期があったのだ。誰にでもあるとじいちゃんは笑っていたし、ぼくが暴れるたびに謝りに行っていたばあちゃんだって、母親にもそういう時期があったから血だねえと笑ってくれていた。ばあちゃんはそういうときには平気で母親のことを持ち出して、ぼくのことを安心させてくれていた。どうやらぼくの母親も元ヤンだったらしい。ぼくはヤンキーってほどじゃなかったけれど。ただぼくのことを悪く言ったりじいちゃんやばあちゃんのことを悪く言ったりされると、反論することが出来なかったから。とにかく感情に任せて蹴って殴っての時期があった、というわけ。なにも大した話じゃない。

 そういうぼくだから、言葉が持つ力っていうものを人一倍認識できている気がする。ことばって簡単に放つことが出来るけれど、その分簡単にそのことばを聞いたひとや言われたひと、受け止めるひとのことを傷つけることだってできてしまう。ちょっとしたフレーズですら、なにもしなくても呪いに変貌することだってある。よかれと思って言ったことがそのひとをぐるぐる巻きに縛り付けて、そのまままともな判断ができなくなってしまうことだってある。だから、口は災いのもとだって言うし、みんなその重みを考えずに簡単に口にしてしまうことが多いのだ。その分、言葉の重みを理解している人間がひとりでに傷ついて、心を折られてしまったりする。呪われてしまうこともある。

 ゲイだから、俺なんか、と口にするうたくんもきっとそうだ。言葉の重みをわかっている。わかっているから、メッセージのときにはわざと軽い言葉を選んでぼくに選択させてくれたのだと思う。そこまで真剣に本人のなかで受け止めていなくても、潜在的な意識の下で理解しているのだろう。そういうひとの言葉の選び方をしていた。あんまり考えたくないけれど、彼がああやって自分のことを卑下するのは、おそらく今までの人生の中で彼にそうやって呪いをかけた人間が居るのだ。ぼくにはわかる。少ししか時間を過ごしていないけれど、その分ぼくなりに情熱的に彼を見ていたから、わかるんだ。ぼくはうたくんのことをずっと見ていたから。じっと、ずっと。一生懸命いろんなことに向き合って奔走するうたくんを見てきたから。わかるよ。

「ぼ、く……」

「うん」

「……ぅ、た……く、……すき……」

 ぼろぼろと泣くきみの姿をみてようやく自覚するなんてこと、あるんだねえ。初めての経験だからわからなかった。頭の中は相変わらずぐるぐると高速回転を続けているけれど、これだけは本当のことだと思ったし、誰かの言葉を借りたりするんじゃなくて、きみに自分の口で伝えたかったから。だから、しっかり自分で口を開いて伝えることにした。この言葉が呪いになったっていいとすら思った。恋愛なんか初めての経験だから、もう本当にわからないことだらけだけれど。誰にもうたくん、きみのことをあげたくないと思ったし、誰にもこういううたくんの柔らかいところに触れてほしくないとまで思ってしまった。誰にもきみのことを傷つけないでほしいと思ったし、ぼくの腕の中でほんのりと熱を持ったきみを、どうしようもなくかわいいと思った。これ、これって、恋愛なのかなあ。恋ってこういうものを言うのかな。

 家族に向けるような情熱とは違う、どうしようもなくこころの奥であついものが煮えたぎる感情。これって、これが、恋なのかな。どきどきしているけれどもわくわくしていて、少しでも相手に触れていたいって思ってしまう。目の前であどけない顔をしてぼくを見ているうたくんを、誰にも見せないままぼくの宝物にしたいと思った。だれにも、地球上の誰にも見せたくない。さみしいのならぼくを呼んで。いくらでもぼくはきみのことを抱きしめるよ。そんな大きくて一人で抱えきれないような空洞の相手をする時間があるのなら、ぼくのことを相手して。少しずつでも言葉を発することを頑張るから、きみはぼくのことを見ていて。他のひとなんか見ないで、ぼくだけを、この吾妻亮太という男だけを見ていて欲しい。

 こんなふうに胸を熱くさせるのが恋なんだろうか。初めてだからわからないけれど、これは同情なんかじゃないことだけは確かにわかっている。家族に向けるのだったらこんなふうに独占したいなんて思わないし、抱きしめたいとも思わない。さみしいときにいちいち呼ばれたらいい加減に鬱陶しいと思ってしまうし、さすがにぼくだけを見てほしいなんて思わない。じいちゃんは畑の作物をちゃんと見ててもらわないと困る。ばあちゃんはもっともっと近所付き合いに目を光らせていてほしいし、ぼくのことだけ見ていてほしいなんて思わない。だから、やっぱりこれは同情でも友情でも家族愛でもないってこと、わかる。どきどきばくばく、初めての恋愛に心臓がうるさく騒いでいる。熱でもありそうなくらいに目もぐるぐるしている。

 これは一体何なんだろう。息も苦しい。頭もちょっとずつちょっとずつ痛くなってきている。ぼく、健康優良児だったからさ。こんなふうに具合が悪くなることも初めてで、恋愛ってすごいなあって思ってる。うたくん、聞こえてる?わかるかな。ぼくが喋っているわけじゃないから聞こえているはずはないんだけど。なんかもうほっぺたも熱っぽい気がするし、恋をするってこんなに大変なことなんだね。ぼく、初めてだから知らなかった。ぐるぐるぐるぐる。目の前も回転していく。どうにも目を開けていられなくなって、頭もぐんと重たくなってしまって、目の前にあったうたくんの背中に頭をあずけた。恋ってこんなにすごいものなんだ。頭痛いし、すごいな。すごい。息も苦しい。だけどこれ全部、勘違いとかじゃないからね。ぼくが、ぼくがちゃんと責任持ってうたくんのことを大事にして、愛していくからね。だから、心配しないでいいからね。

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