第8話 「俺」がきみを抱える話

 ばったりと倒れ込んでしまった亮太のことを布団の中に押し込んでやってから、ちゃんと呼吸をしていることを確認してスマホを手に取った。スマホ中毒とか依存症とかそういうわけではないし、マッチングアプリで会う約束をしていたひとに断りの連絡を入れるためでもなかった。そもそも就職して以来出会いに関してはほとんどご無沙汰だし、ゲイの人間が集まるようなパーティに出向いたのだって本当に数える程度しかない。ゲイのリアルパーティに関してはネコを望んでいることを正直に話した結果笑われたからあんまり行かなくなったし、マッチングアプリに言わずもがな。身長と俺が望んでいる性的立場の問題から、そもそもお誘いなんかほとんどない。きれいな見た目でもかわいいビジュアルをしているわけでもない、ごくごく普通の男性だからだ。

 一人暮らしの強い味方だと思っている冷却シートを亮太の額に貼ってやってから、その様子を写真に撮ってラインのトーク画面を開いた。スマホを手にしたのはこのためだ。この行動が正しいのかわからないし、こんな勝手なことをして怒られるかもしれないけれど、それでもこのまま亮太が苦しんでいるのを見ているだけになることが、俺は一番耐えられそうになかったのだから、しかたがない。俺がどうにかなることはあっても、亮太が不利益を被ることはないだろう。俺も成人した大人だし、あっちだって流石に大人だ。今更俺にどうこう言ったところでなにか変わるなんて思っていないだろう。それにそこまでの愛着が俺に対してあるのかもわからない。血を分けた他人くらいの認識かもしれない。

 それでもトーク画面にテキストを入力する指が少しだけ震えて、思ったような文字を打てないのは、やっぱり緊張しているせいだと思う。本当ならこのままタクシーにでもぶちこんで病院に連れていきたいし、それをしてしまえばこんなイヤな緊張もしなくていいのかもしれない。頭の中にそういう手段がよぎるたびに俺の指先は言うことを聞かなくなって、気付いたらそのまま入力した文字を全部消しているのだ。こうしている間にも亮太の苦しみは増しているかもしれないのに。なにも持病とかないはずだけど、万が一あったりしたらどうしよう。荷物を漁ってみてもお薬手帳だとか常備薬のようなものは出てこないから大丈夫だと思うんだけど。でも、どうなんだろう。

『発熱してるんだけど病院に行ったほうがいいのかな。本人はこんな感じです』

 年単位で動いていないトーク画面。両親と俺が加入しているラインのグループのチャット欄に入力したテキストを見て、もう一度ため息をついてしまった。友達だったら間違いなく病院に連れて行くんだけど、亮太の場合はそうもいかない可能性がある。まず、保険証。出てこないのだ。運転免許証。これももちろん出てこない。その代わりにパスポートが出てきたけれど、つまりはこれが身分証明証の役割を果たすことを求められているのだと思う。財布の中もついでに確認させてもらったけれど、まあなんというか寂しいものだった。そりゃあそうか。上京してきてホテルで暮らして、毎日のようにうちの居酒屋で食事をしていた。安い訳では無いメニューを一つずつ頼んで、そうして時間を過ごしていたのだ。熱の一つや二つも出るだろうな。

 送信ボタンを押すかどうかをまたしても悩んでしまった。友達だと言えばそれでいい。それは誰だと関係性を両親に万が一聞かれたのなら、友達だと言ってしまえばいい。ウソではない。友達が熱を出して倒れたから荷物を探したけれど保険証がないから、どうしていいかわからないと聞いてやればいい。それだけでいいのに、それができない。まだ俺たちは、というか俺と亮太は付き合うとか付き合わないとかの話まではしていなかったし、暫定友達ってところだろうから。ウソではない。ウソをついているわけではない。大丈夫だ。両親に嘘をつくわけでもないし、なにも聞かれておかしなことになるようなこともない。大丈夫だから。自分に言い聞かせながら震える指先を必死に動かして、送信ボタンを押すだけにする。

 脳内で関係性を整理していたら急に悲しくなってしまったし、不安になってしまった。両親に関係性を知られるかもしれないから、ではない。そんなことはもうどうでもいい。いや、正直に言ってしまえばどうでもいいってわけでもないけれど、目の前で苦しそうに眠っている亮太のことに比べたらどうでもいい。いくらでもあとで誤魔化せばいいし、ごまかしきれなかったら大人しく両親のことを諦めてしまう覚悟はできている。どうせあの二人は俺を置いて死んでいくわけだし、そうなったら俺は両親に理解されようとされなかろうと最終的には一人ぼっちになる。ゲイであることを理解されようとされなかろうと、大した問題にはならないはずだ。せいぜい住居の契約なんかに困るくらいだけど、それこそまあなんとかなるだろう。この世には身寄りのない人間がたくさんいるはずだ。そういうひとたちと同じラインに俺が立つようになるだけだから、心配はいらない。

 けれども亮太の場合はそうもいかない。見知らぬ都会に出てきて、そうして初めて優しくされた俺という、八神悠太という人間に刷り込みのように惚れてしまったのだ。これはよくない。もし亮太がゲイじゃなかったら?百歩譲ってバイだったらそのままでいいけれど、ノンケだったのなら不毛な関係の始まりである。いつか俺に飽きて出ていく亮太を見送ることになるなんてあまりにも切ない。それに、亮太は言葉をあまりスラスラと喋ることが得意ではないから、本来言いたかった言葉とは違うものを言った可能性もある。信じていないわけじゃなくて、俺は心配をしているのだ。予想できる可能性を予想して、間違いが極力少なく済むようにしているだけ。他人との争いは不毛で消耗するだけだから。

「あー……送っちゃった……やべえ……」

 悶々と考え込んでいるうちに指先が震えてしまって、あっという間に家族で構成されたグループラインに送信されてしまった。メッセージだけ。まだ既読は付いていないので取り消しをしてしまえばなんとか証拠隠滅を図れるけれども、それはあまりにも現実的ではない。送信取り消しなんてあまり目にしないようなものを見てしまえば、一人で暮らす息子になにか不手際があったのではないかと考えを巡らせて、母親あたりが連絡をしてきてしまいそうだ。せっかくこっちは必死に気持ちを断ち切ろうとしているのに、そういう覚悟が全部台無しになるような行動を取られてしまうかもしれない。それだけは困るので、やっぱりこのままテキストで送ってしまおう。電話なんかかかってきたときにはもう、この一人で生きていくために固めたような覚悟が泡となってしまうかもしれないから。

 どういう意味だと聞かれては厄介なのでそのまま、亮太が眠っている写真を一緒に送り付けた。既読はつかない。離れて暮らす家族と積極的に家族とラインでやり取りをする知人たちのトーク画面を見せられるたびになんとも言えない気持ちになっていたようなあのもやもやを、今更に思い出してしまう。いいんだ、俺はゲイだし。ゲイとして生きていくし、両親とはさり気なく疎遠になってそのままフェードアウトしていく作戦なんだからいいんだ。こちらをただの一人の人間としてしか扱わないひとたちに期待することはもうやめているからいいんだ。もうこっちだって子どもじゃないんだし、子どものように褒められたいという欲求はどこかで性欲にでも変換して昇華させるからいいんだ。

 話の流れから察したけれど、亮太にはおそらくやりとりをするような「両親」は存在していないのだと思う。山奥や田舎といった言葉で地元を表現するから、きっとそうとう奥まった地域で暮らしていたのだろうなということも想像がつく。だから、タクシーや救急車を呼ぶ前に保険証を探したのだ。それから万が一があっては困るのでお薬手帳と常備薬も。お薬手帳や常備薬がなくてもどうにかなる。最悪、保険証だってなくてもどうにかなる。けれども亮太の立場を考えると、やっぱり自費診療ってキツいんじゃないのかなと思ってしまうのだ。俺と一緒に暮らすことにしたし、就職後はまともに趣味や遊びに時間やお金を使うこともなくなった俺の貯金から支払えばそんなに大きな出費というものでもないけれど。それでも、気を使うんじゃないかと思うわけで。

 しかしまあ保険証を持っていないとは思いもしなかった。この先これから就職するまでどうするつもりなんだろう。じいちゃんやばあちゃんたちはどうやって生活をしていたんだろう。まさかそこまで文明が発達していなかった地域で暮らしていたとは思わなかったし、こういうタイミングでスーツケースを使って上京してくるあたりでは、それなりの文化レベルで暮らしていたと思うんだけども。どうなってんだろうなあ、その辺。もう少し亮太の体調が落ち着いたら確認してみるとして、問題は今をどう乗り切るかだ。今後はいくらでも方法を考えることが出来るけれど、亮太は今医療を必要としている。あるいは医療に代わる知識を必要としている。俺の両親は医療従事者でもなんでもないけれど、たまに微熱っぽくなっては冷えピタを貼って暮らしている俺の知識よりはなにか頼れるものがあるだろうと思うのだ。

「返事来ねえし、既読もつかねえし」

 平日の昼間だし返事が来ないのも既読がつかないのもまあしかたのないことかなとは思う。当然のことでもある。両親ともに仕事をしている共働き世帯だったし、ふたりとも俺の成長なんかよりも仕事での業績のほうが気になっていたタイプだから、離れて暮らす息子から久々に来たラインの内容だってそこまで気になっているわけでもないだろう。こっちもそこまで帰省やらなにやらを熱心にしていたわけでもないし、できるだけ実家と距離を取って精神的に自立しようとしている。なにもくれない両親にいつまでも期待しては失望してを繰り返すんじゃなくて、なにもくれないのは距離があるからだと納得しようとしているのだ。だから、別に既読もつかないことに対して失望したりなんかしない。今更、しない。あのひとたちが俺のことを他所の家みたいに子ども扱いしないのなんかそれこそ、昔からだ。

 ため息を吐いてからスマホで検索をしてみる。いつだって頼りになるのは、ろくにこっちの面倒を見もしなかった親よりもグーグル先生なのだ。内容が正しいのか間違っているのかは自分で判断しなきゃいけないけれど、それでも知識のようなものは与えてくれる。なにもしてくれない上にいるんだかいないんだかわからない扱いをしてくる大人たちに比べたら、選択肢を提示してくれているだけで有り難みがあった。発熱のときにどうするのが正解なのかをひたすら検索してみる。大げさな症例を伝えてくるページから近隣の内科医を案内しようとする医療系のサイトまでまあいろいろだ。俺は今すぐできる応急処置みたいなものを知りたいんだけど。熱冷ましなんてたいそうなもの、持ってなかったし。

 このままこいつを置いて近くのドラッグストアまで走っていいものだろうか。熱を出したときってどことなく人間は心細さを感じてしまうし、まして亮太は上京してきたばかりの人間だ。それこそ保険証を持っていなくてもあまり不思議に思われなかったような田舎から、こんな都会に一人でやってきた状態なんだから。じいちゃんやばあちゃんが死ぬときに自分が一人ぼっちじゃないことを伝えて安心させてやりたいと思うような優しい子だから、きっと発熱したときにはどちらかが近くにいてくれたのだろう。俺は基本的に薬を飲んで過ごすだけだったけど、とにかく嫌な夢を見たりすると気分が悪くてつらいものがあった。熱が出ているときに見る夢はどうしてあんなに気持ちが悪いのだろう。目が覚めても現実だったのか夢だったのかを判断するような人間もいないので、とにかく発熱はつらいものだった。

「どなた?ってな……いや、まあそうなんだけど……なんかねえ……」

 ピロンと間抜けな音がしてラインの通知を知らせる画面になった。送信者は広告でもなければ公式系のものでもなくて、久々に見た母親からのものだった。アイコンはよくわからない羊のもので、文面はかしこまっている。どなた?じゃねえんだよなあ。俺は今困っているんだから、どなたでもいいだろうが。あんたが一緒に住んでいるわけでもないんだから。こころの中でどうにも空気が読めない返信を寄越した母親に文句を言いながら、どうやって説明すればいいかを考えてしまう。こうやって考えている間にさっさと風邪薬のひとつやふたつでも買ってくればいいんだろうけど、それもなんとなくかわいそうで出来ない。亮太が今頼れるのは、俺だけなんだから。一人にしてしまったらあの怖い夢を見たときにそれが夢だったと笑ってくれるようなぬくもりがなくなってしまう。俺にそういう安心感を出せるかどうかは置いておいて。

 年単位で動いていなかったチャットが動いたというのにどなた、の一言はちょっとバグってるんじゃないのかなあと思う。人間はどいつもこいつもバグっている。亮太だってそうだ。俺は確かに会って時間もろくに経っていないのに一目惚れに近い感じで亮太のことを好きになっちゃったし、あのなんでもかんでも受け入れて抱きしめてくれそうな感じにすごく魅力を感じてしまったけれども。それは俺が特別に惚れっぽいからで、特別に飢えているからで。こんなのは普通じゃないんだ。普通じゃないのなんかとっくにわかってる。俺が異端でみんなは普通なんだから。

 それだというのにみんなバグり散らかしているじゃないか。数時間前まで他人に近いような関係だった俺の部屋で熱を出してぶっ倒れた亮太も、年単位でやり取りをしていなかった相手から助けを求めるようなメッセージが来ているというのにどなた、という一言で解決すると思っている母親も。既読が二人、つまり両親ともに俺からの救難信号を見たというのになにも言わない父親だって同じだ。父親には個人的に連絡を入れることがあるからそういう観点からの既読スルーならまだわからなくもないけれど、それだってこのタイミングでそんなことをすることないだろう。俺の部屋で熱を出してぶっ倒れてるやつがいるんだよ。それを助けてって言ってんの。わかんないのかよ。わかれよ、俺の親だろ。

「どなたってこれ、俺のこと?もしかして?マジ?俺のことが誰だかわかってねえの?はー……無理だわ」

 シュコンという間抜けな音を立てながらラインのトーク画面に吹き出しが増えていく。父親からのレスポンス。内容は俺の説を補完するように、これは悠太だよ、と書いてある。まるで意味がわからない。どなたじゃねえんだよなあ、あなたが産んだ息子です。愛情はないかもしれないし思い入れもないかもしれないけれど、それでも残念ながら二十年以上前にあなたがこの世に産み落とした命が、これを入力しているんです。まさか自分に息子がいたことまでお忘れになっていないですよね。こころの中ではイヤミめいた表現が次から次へと湧いて溢れてくるので、急にこちらの視界がぐにゃりと歪み始めた。どうしてこんな想いをしなきゃいけないんだろう。どうして、どうして俺ばっかり。

 どういう関係なのか聞かれてしまったらどうやって説明していいのかわからない。俺はゲイで、そんな俺が好きになったひとがこのひとで、名前は吾妻亮太って言うんです。そんなことまで説明する必要があると思って身構えていたけれど、この分じゃあそんな説明すらも必要ないのかもしれない。まだ俺、ゲイってことバレてないはずなんだけど。バレる前からこうやって記憶から消されるような息子だったのならもういっそ、このまま本当に縁を切ってしまってもいいだろうか。どういう関係の人間かなんて説明一つしないで、そのまま音信不通になってしまってもいいんだろうか。だってそっちは俺のことをどなたと聞くくらいなんだから。俺が悠太と言わなければ俺のことまで忘れていたような状態なんだから。悲しくて泣きそうになってくる。

 スマホを放置して、亮太の頬に手を触れてみた。まだまだ熱いけれどもぶっ倒れて数分くらいのときに比べると少しそのどうしようもないくらいにこもっていた熱が落ち着いてきたようにも思える。俺の手が冷たくなったのかな。それならなにも意味がないけれど、どうしていいのかわからない。ぶっ倒れるほどの高熱を出したことすら無かったし、俺は昔から高熱を出す前にちょこちょこと微熱を出して発散するようなタイプだったから。亮太を早く楽にしてやりたくて、頬を優しく撫でてみる。熱を出しているときにしてもらったらうれしいことってなんだろう、わからない。そういうことも聞きたくて勇気を振り絞って両親にラインを送ったというのに、どなた、だもんなあ。考えたら考えただけ虚しくなって泣きそうになる。泣きたいのは亮太なのに。こんなところで俺が泣いている場合じゃないのに。

「う……た、……く……?」

「亮太っ、亮太ぁ……、あのさ、あのッ……俺の家、風邪薬とかなくてっ……」

 熱が下がるようにと願いながら何度も頬を撫でていたら、どうやらその感触で亮太が目を覚ましたようだった。うっすらと目を開けた瞳は発熱から潤んでいて、どうにもつらそうで申し訳なくなってくる。それでも俺のことを好きだと言うだけ言って気絶してくれたおかげで、俺たちの関係性についてはまだなにひとつ発展もしていないのだ。でも、俺たちの関係を俺の両親に聞かれてしまったらどうしようと思っていたけれど、それも心配要らなさそうだった。なにしろ俺の母親は俺のことをどなた、と言ってくるくらいなんだから。病気をしてしまったという話も聞いていないし、たぶん悪意なく俺のことを誰だか推測することができなかったのだろう。わかっている。悪意もないのにそういうことを平然とやるひとだってこと、ずっと前から知っている。そういうところが少しずつ苦手として降り積もって、俺は実家から距離を置くことにしたのだから。

 大丈夫だと言うように亮太が俺の背中をぽんぽんと叩いてくれる。こういうことよくあるのか。半泣きで聞いてみればゆっくりと肯定するように頭が動くので、少しだけ安心してしまった。大学にもいた気がする。普段から体調を全く崩さない健康優良児のくせに、たまに熱を出すとものすごく高熱になって大変だという話をしていたのを思い出す。亮太もそういうやつなんだな、と思えばもう少し安心することが出来た。両親のことでもやもやしていたのも少し、どこかに行ってしまった気がする。こういうところ、こういうところなんだよな。俺がなにかを求めなくても少しだけ先回りして、大丈夫だよと伝えてくれるような包容力。こういうところを好きになってしまったんだと思う。俺なんかに好きになられてかわいそうだけど。

 薬買ってこようか、と聞いてみる。ゆるゆると首を左右に振られたのでドラッグストア行きはなしになった。保険証の話はもっともっと亮太が元気になってからすればいいし、そんなのは急ぐ話でもない。それなりに過酷な生い立ちだったのだから、そういうことくらいはあるだろうと俺も思っていた。本人が大丈夫だと言うのなら大丈夫なんだと思う。じわじわと緊張が身体から抜け始めて、ゆっくりとベッドサイドに腰を下ろした。ぽつり、と亮太を包むふとんに雫が落ちた。ああ、みっともない。昔からこうだ。男の子なのに、自分のことじゃなくて他人のことなのに、急にこういうときに涙が出てしまうところがある。泣き虫と笑われたこともあるし、自分でもそんなところをコンプレックスに感じている。もっともっと感情をコントロールできるようになりたい。

「亮太ぁ、おれ、亮太のこと、すき……」

 安心してしまったらいよいよ、亮太の前ではらはらと泣き出してしまった。こころの中にふっと浮かんだ言葉をそのままに、ぼろぼろとこぼしてしまった。こんなの、ゲイじゃないかもしれない亮太には迷惑をかけるだけの言葉だというのに。わかっているのに止められない。好き、すき、と繰り返してしまっている。慣れない環境や見えない未来のことをひとりで考えて戦っていた身体が疲れを訴えているであろう亮太の前で俺は、とんでもないことをしてしまっている。男の子なのに。男なのに。泣き虫で、どうしようもない。わかっている。こういうのが全部重たいと言われてしまう原因なのだと、それももう嫌というほどにわかっているのだ。わかっているけれど動けないから、結局どうにもならなくて。どんどん重さを増していく。

 初めて男性を好きになったのは小学生の頃だったと思う。今と変わらずそっけなかった両親の代わりに俺に優しくしてくれたのは、学校の先生だった。男性の先生でとっても優しくて力持ち。どういう顔だったかはあんまり覚えていないけれど、とにかく力持ちで優しい先生だったことを覚えている。あまり学校行事に参加しない俺の両親のことを心配してくれていたし、保護者が参加する催し物でひとりぼっちになってしまった俺のことをいつでも気にかけてくれていた先生だった。俺を抱っこしたりして催し物に参加させてくれた。出来るのなら俺だって催し物の日には参加しないで休みたかったけれど、両親はそれを良しとしなかったからひとりでぽつんとしていたのだ。今でも覚えている。

 止まらない涙をなんとか止めようと、冷静になろうとスマホを手に取った。両親からのひどすぎる塩対応の連絡でも見てしまえば冷静になれると思った。もうほとんど俺は冷静じゃないし、冷静になれていないことにも自覚があった。恥ずかしいことにこういう急なハプニングには昔からとにかく弱くて、臨機応変という対応が苦手だった。答えがあるハプニングなら対応ができるけれど、答えがないものはとにかく苦手なのだ。だから店ではスムーズにトラブル対応をすることができるけれど、急に友達がこうやってぶっ倒れたりするとどうしていいかわからなくなってしまう。広い地球上でひとりぼっちになるように、そうやって仕組まれて投げ出されたような気持ちになってしまう上に、頭の中が真っ白になってしまう。

 好き好きと繰り返す俺のことをやんわりと落ち着かせようとしてくれる亮太の優しさが心に染みて、布団の上から寄り添うように座ってみる。額に貼った冷却シートはすっかりと仕事を果たしてカピカピになってしまっていたので、そのままそれを取り外して新しいものに取り替えてあげた。ぽんぽんとリズミカルに、ドラマや漫画の看病シーンで見たものを再現するように、布団の上からお腹のあたりを叩いてやる。スマホがピロンとまた間抜けな音をさせたので、すっかりと俺の涙は引っ込んでしまった。少しだけまだ心のどこかがふわふわとするような感じで、不安な気持ちは消えないでいる。けれどこの気持ちはきっと、亮太が全快したあとに話をするまで見ないふりをする。それまでは夢を見ていたいから。亮太の好きと俺の好きが噛み合っていなくても、今のところは不都合が起きないから。なにも、身体を重ねようって言うんじゃないし。だいじょうぶ、だいじょうぶ。見えなくていい現実は見ないに限る。

 冷静になろうとスマホの画面を見ると、両親からのメッセージがたくさん来ていた。ええっ。どなた、とか言っていた相手にその対応をするんだ。こちらと向こうの温度差にびっくりしながら文章を読んでいくとどうやら、勘違いをしていたのは俺じゃなくて父親のようだった。どなた、というのは寝ている人間に対して。とにかく水分補給をさせることを重要視したような文面が並んでいて、全身に入ってしまっていた力が少しずつ抜けていく。こちらもこちらで少しパニック状態だったのかもしれないな、と反省も少し。親切に熱を下げる方法やら発熱を症状に持つものやらのリストを送ってくれていたり、少しでも早く良くなるといいね、という文章が送られていた。こっちはこっちでパニック状態からの無視をしていたことに、少しだけ申し訳なくなる。

 ぽんぽんと亮太の布団を軽く叩きながら、たくさん溜まったメッセージを読んでいく。俺からの返事がないから大丈夫かと心配している母親と、そもそも「どなた」を誤解してしまった父親がそれぞれやりとりをしている。ごめんね、悠太、びっくりさせちゃったね、と二人がこちらに謝罪の文面をそれぞれに送ってきているのには少しだけ救われたような気持ちがあった。ただでさえ具合の悪いひとといてどきどきするだろうにもっとびっくりさせちゃったね、というのが父親の発言の主旨だった。それに比べて母親は、ある程度対処法を送り終わると満足したように、こちらに対する詮索の内容を送ってきていた。それであなたの布団に眠っているのはどなたなの、あなたの部屋に上げるってことは相当な関係よね、と追い込むような内容まで。

 一人暮らしを始めたときに母親がここの家に来たがったのを断った。それからたびたび理由を付けてこの部屋に入りたがっていたのも知っていたけれど、それらも全部断った。自分がゲイであるということにどうしようもない劣等感を覚えて、それから自分がいわゆる男性役のタチを望んでいるわけではなく、抱きしめてもらったりだとかしてもらいやすい側の、いわゆる女性役のネコを望んでいることにも絶望していた時期だった。ずっとずっとそれらしい感覚はこころのなかにあったし、みんながはしゃぐグラビアアイドルにもちっとも興奮しないしで、どことなく違和感のようなものはあった。それに、いよいよ名前が付いてしまった時期だった。高校を卒業して一度だけ、適当な相手とセックスをしたのだ。抱いてもらった。最高だった。それから少しして、俺の気持ちは最悪だった。

 そういうものを全部受け入れたくなくて、どんどん家族と距離を取るようになった。もっと優しくして欲しいという気持ちと、もっと俺に構って欲しいという気持ちが膨らんだ。それと同じくらい、「みんなと同じ」ではない自分が嫌いで嫌いでどうしようもなくて、そういう嫌いな自分に触れないで欲しいという気持ちもまた、俺の中で膨らんでいたのだ。一度だけ抱いてくれたひとは、俺がネコだということにちょっと笑ってから、しあわせになれるといいな、と言ってそのままどこかに行ってしまった。上手だったけれどもそうやって適当に身体を重ね合わせるような感覚のひととは付き合いたくないので、連絡先なんかは真剣に交換することは一切なかった。もっと大事にしてほしかった。

 しっかりしていると言ってもらえることが多い。居酒屋の常連客なんか、店長よりも店長しているとか言ってくるくらいだ。けれどもそういうものが全部、ときどき俺には重荷になってしまう。全部を放り出してもなお、俺だけを抱きしめてくれるようなひとが欲しかった。そういうひとに出会いたかった。距離のとり方が最早わからなくなってしまった家族との関係とか、あるいは自分の持っているセクシャリティとか、そういうものを全部自分で受け止めきれない未熟さとか、そういうものを全部見ないふりをして生きてきてしまった。母親は相変わらず布団で寝ている相手のことを知りたがるようなラインを送り続けている。暇なんだろうか、今はどう考えてもちゃんと落ち着いて説明できそうにないから、やめてもらいたい。そもそも俺と亮太ってどういう関係なんだろう。いろいろと限界が近づいているのを自分でも感じ取った。明日の今頃はもう居酒屋でシフトに入っているはずだ。もうなにも考えたくなくて、亮太がくるまっている布団に上半身を預けた。

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