第6話 「俺」がきみにおちてく話

 必要に迫られたカミングアウトはしたことがあったけれど、必要もないのに自分から言ったのはこれが初めてだった。ゲイの人間が出会いを求めて集まる場所に行くために自分を開示したときなんかはもちろん自分から言ったけれど、それ以外は聞かれてもいないのに言ったことなんかない。あんまり言いたいものでもなかったし、自分という人間とゲイだという性的指向をはっきりと結びつけることが好きになれなくて積極的に言っていないままだ。両親は知らないし、大学までの友人たちも知らないままだと思う。自分から言ってしまおうと思ったのは、亮太が初めてだった。

 目元がちょっと腫れぼったいかもしれない。顔を突き合わせて会話をしたかったことと自分の部屋に案内してやりたかったことを含めて、休みの今日に待ち合わせの約束を取り付けた。待ち合わせ場所の近くの商業ビルのウィンドウに映った自分の顔を見て、ごまかせないくらいに泣いたあとの顔つきに笑ってしまう。一応マスクをしてきたけれどもそれすらあんまりカモフラージュになっていない。おかしいな、と思う。いつもだったら全米が泣いたとかそういう大げさなキャッチコピーを付けられている映画を見ても、これっぽっちも泣かないのに。今日はどうしても朝から泣いてしまった。

 彼のことを特別にかわいそうだと思ったからでもなく、同情して泣いたというわけでもない。そんなに殊勝な性格をしていないことは自分が一番良くわかっている上に、亮太と同じように困難にぶつかりながら生きているひとなんて、この世にはたくさんいるということもわかっているのだ。誰が大したことがあるとかこのひとは大したことがないとか、そういう比較をすることもやめている。俺は俺でひとに言えない秘密を抱えて生きているようなものだし、その秘密だって基本的に墓場まで持っていくつもりでいる。真新しいなにかに触れたわけでもない。今どき家庭環境が複雑な人間だって珍しくはない。けれど、朝から泣いてしまった。

 なにがそこまで俺の心を揺らしたのだろうとひとつずつ挙げ連ねて考えてみるけれど、ひとつとしてしっくりくる答えは出てこない。必死に自分なりに向き合って生きている亮太に感動したから泣いたのだろうか。それもどうにも納得がいかない。だって人間は誰しも死ぬときはひとりだから。家族をどれほど作ったって、どれほど友人関係に恵まれた人間だったとしても、そのときはひとりで旅立つしかないのだ。なにをどう寂しいものと感じても、どうにもならないことだとみんながわかっている。この世に生きる人間がみんな理解した上で、それでも泣いたりしているだけで。

 結婚をしようとしない俺に対して両親は、心配そうな顔をしている。俺がしてほしいのはそういう顔じゃないんだよな、とその度に少しだけ胸の奥がモヤモヤするのだ。小さい頃から厳しかった両親。何かを頑張ったときに、まわりの人間はみんな褒めてもらっているのに、俺だけは褒めてもらえていなかったこと。誰もが大事に扱われているそのひとときで、俺は大事にしてもらっている子どもたちを眺めるだけの立場だったこと。ずっとずっと子ども扱いされずに生きてきて、それを両親に聞いたこともあった。ふたりは平然と答えた。私達は悠太のことをひとりの人間として扱っているから。そんなことを言われても、俺のこころの寂しさのようなものはひとつだって埋まらなかった。虚しくてさみしいだけだった。

 だから、ピンとこないのだ。結婚をしないと最終的に一人ぼっちになっちゃうよ、と言われても。あまりピンとこないままでいる。ずっと昔からひとりぼっちだったし。他の子どもたちが子供として扱われている瞬間に、俺はずっとひとりの人間として扱われていたじゃないかと思うだけで終わってしまう。ずっとひとりぼっちだから変わらないでしょ。両親にはそのからっぽのこころの感情が伝わらないのだ。家族だけで作られたグループラインに何かを送っても、必要じゃないことを送ってくるなと説教するひとたちなのだから。俺とは違う人間なんだと思って飲み込むしか無かった。我慢することがうまくなっていった。

「あー、亮太!こっちこっち」

 俺の声に反応して亮太が慌ててこちらに駆け寄ってくる。ガラガラと大きめのスーツケースを引きずりながら、しっかりした足取りで。住居も仕事も決まらずに上京してくるような無鉄砲さを持っているけれど、その足取りはいい加減に現実から目をそらして駄々っ子のようなことをしている俺と比べたら、ずっときちんと地に足がついていた。どんな顔しているかは知らないけれど、亮太のばあちゃんとじいちゃんにこころの中で言ってやる。あんたたちが育てた男はちゃんとしているよ、って。田舎で育ったと言いながら、きちんと都会のなかに溶け込むことに成功しているよ、って。その場しのぎで両親からの追求すらも躱そうとしている俺なんかよりずっとずっと、地に足をつけて生きているよ。

 待ち合わせ時間よりもずっと早く出てきたから、のんびりと町並みを眺めて過ごしていただけだ。亮太が俺を待たせたわけじゃないし、ときどき休みの日はこうやって過ごしている。申し訳無さそうな顔をしてこちらにやってきた彼に、そうやって説明をしてやる。なにも悪いことをされていないこと、なにも申し訳無さそうな顔をされるようなことはないこと。全てにおいて亮太は間違っていないこと。それからここで街を眺めることは俺の趣味みたいなものだということ。きちんと言葉にして説明してやると、亮太は表情をほっこりと緩めて犬のような顔つきになった。やんわりとした犬だ。居酒屋ではいつもどこかかしこまって緊張しているような顔つきだったから、これが本来の彼なんだろうなと考える。かわいい顔をしている。

「俺の部屋で話したほうがいい?それともカフェとかどっか入った方がいい?」

 スーツケースの取っ手をしっかりと掴みながらもどこか体重を荷物に預けている亮太が、少しだけ悩んだような顔をしている。きっと考えているのだろうと思ってそのまま待ってみる。ゆっくりでいいんだ、慌てなくていい。結局俺はメッセージで「ゲイだ」と発言しただけで終わらせてしまったし。そのあとはこちらから顔を合わせて話そうと提案してしまったから、ライン慣れしていなさそうな亮太からすれば俺の性的指向の掘り下げなんかできなかっただろうし、警戒もされているだろう。

 田舎育ちだからってそこまでの情報が隔絶されていたとは思わない。認識が古いのだって田舎で過ごすご年配連中だろうし、亮太はそれなりに価値観を更新することに成功しているだろう。そういうことができるという意味を込めてばあちゃんが都会にいった方がいいと言っていたんだろうし、そういうことが出来るタイプは実際閉鎖的な環境で生活することにはストレスを感じるはずだ。だから俺がゲイだと自分から発言したことに関しても、治らない病気を持った男がいるような認識はされていないはずだけど。だけど、それでも、やっぱりさ。抵抗のようなものはあるだろうって思うわけで。

 同じ性別を持っている男だから一緒に暮らしてもいいかなと思っていたところで、その男が実は男が好きでした、なんてことを言われてしまったらさすがに抵抗があるだろうし。家賃や生活費を浮かせるためとは言っても、どこまで我慢できるかというようなところもあるわけだ。かわいい系の見た目をしている亮太のことをどうこうしたいとはあんまり思っていないし、どうこうできるわけでもない。俺は自分がどうこうしたいというよりはされたい側なので、相手にしてやることはできなくはないけれども、その、なんというか、欲望と欲求が降り積もったときには自分がどうにかされたいと思ってしまうタイプなので。手を出すってことはないけれど。ない、けれど。

 でもさあ、ちょっとは期待してしまうわけだ。そういう目で全く見ないといったら嘘になってしまう。だってここまで俺の気持ちにも寄り添おうとしてくれたひとなんか、亮太が初めてなんだから。まだ俺が抱かれたい側だという話はしていないけれど、亮太なら大丈夫だと思えたし。きっとこの子は俺の欲求や嗜好を笑わないでいくれるだろうって思うから。身長が高い男でも、身体がガッチリしている男でも、抱かれたいと思ってもおかしくないと肯定してくれるだろうから。だから、そういう性質を持っていることを俺が見通したから、一緒に住んでもいいと思ったのだから。

 ここまで考えているうちに、くいくいと洋服の裾を引っ張られる感覚を察知した。ああ、亮太のことを忘れて思考の海に飛び込んでしまっていた。恥ずかしい。自分が言葉を話せないというコンプレックスにならないコンプレックスを持っている亮太のことだから、きっといろんな感情に襲われてしまっているだろうに。放置してしまったことを申し訳ないといいながら、彼からの返事を待ってみる。できればセクシャルな話もするからカフェじゃないほうが有り難いんだけど、そういうセクシャルな話をしたがる男と二人きりで男の部屋っていうのも抵抗があるだろうから。

 だから俺はちゃんと彼に選択肢を提示する。せっかくお互いに顔を合わせているし、たぶん亮太は上手に自分で思ったことを口にできない分、他のところで補うことが出来るようなスキルを持っているはずだから。例えば表情で察知することが出来るような、そんなスキルがあるだろうから、スマホは出さないでイエス・ノークエスチョンで聞いてやる。顔を見たままで答えられるように。どうしても必要なことは入力してくれるだろうから、それ以外は基本的にコミュニケーションを取ったほうがいいと思っている。だってこの先、仕事をしていくことを考えたらそういう方法を身に着けておくべきだし、そういう成功体験を持っていても悪くないだろう。

「亮太、決まった?」

 ちゃんと相手の様子を見ていなかった俺が悪いんだけど、まあでもこれくらいは許してもらわないと。この先一緒に住むんだからある程度の妥協を覚えてもらわないと大変なことになってしまう。まあぶっちゃけ俺は別にいいんだよね、自分で稼ぎもあるし保証人になってもらう人間も直ぐに連絡がつくし書類なんかすぐに揃うから。問題は亮太のほうだ。慣れない都会生活に、初めて会ったばかりのひとと生活をすること。今まで亮太が一緒に暮らしてきたじいちゃんやばあちゃんのように気遣いをしてられないから、必要な自己主張のしかたを覚えてもらわないとならない。それなりに自分で自分を提示するような手段を身に着けてもらわないとならない。

 ゆっくりと亮太が頷いた。さて問題は何に対して頷いたかだ。これを俺が読み取ってやってもいいんだけど、こいつのためにならないかなあ。これくらいは甘やかしてもいいんだろうか。どっちかと言ったら俺は尽くしてやりたいタイプだし、なんでも求められるならやってやりたいタイプなんだけど。夜の体位以外では俺はやってやりたがりなんだと思う、下世話なはなしだけれど。昼間は俺が尽くすから夜はそっちが尽くしてねってこと。はじまりはそうじゃなかったけれど、ゲイとして生きていくうちにそういう習性を身に着けてしまった。そっちのほうがまだ相手にしてもらえるから。高身長でムキムキの男顔なネコはそれだけで需要がないなんてことを言われてしまえばね、俺だって学びますとも。

「あ、っ……」

「ゆっくりでいいよ、時間はたっぷりあるし」

「……んっ、……と……」

「うん」

「い、ッ……い、え、……」

「俺の家でいいの?いきなり俺の家で二人で喋ることになるけど、まじでいいの?」

 普通そういうのって抵抗あるんじゃないの。少なくとも俺の経験上ではそうだったんだけど。例えば高校時代の同級生の一人とか。偶然大学に入ってからマッチングアプリで捕まえたタチの男性と一緒にホテルに入っていこうとしたところを見つかって、そこからちゃんとカミングアウトも含めて説明しなきゃいけなくなっちゃって。当時の俺が面倒事に巻き込まれていると勘違いしてくれた同級生は、俺がようやく見つけたタチの男性をめちゃくちゃに罵ってしまって、そのままその約束はお流れになってしまったのだ。向こうもそういうことはよくあるし気にしないでと言ってくれたけれど、そもそも俺のような男にはタチをやってくれるひと自体少ない。結局その彼も他のいいひとを見つけてしまったらしく、二度と会ってくれなかった。

 そういう被害を俺のほうに出しておきながら、それでも俺がちゃんとふたりきりの空間で説明するということを申し出ると、その同級生は露骨に嫌がった。俺がゲイであることを罵ったし、二人で密室に入ることをとにかく拒絶した。俺の部屋じゃなかったらいいのかと聞いたけれど、もちろんそれもお断りされてしまった。向こうも当時一人暮らしだったけれどもその部屋に俺をあげることに抵抗を示されて、カラオケボックスすらも拒否されてしまった。ゲイだからって性的なことを口にするのに恥ずかしくないわけがないだろうが。俺だって人並みに羞恥心はありますよ。けれども結局カフェで声を潜めながら説明をして、面倒ごとに巻き込まれたわけでも脅されていたわけでもなく、合意のもとでデートしていたということを理解してもらったのだ。

 めちゃくちゃ恥ずかしかったしめちゃくちゃしんどかった。高校の他のメンツには黙っていてくれる約束をした。それからしばらく俺は高校の卒業生の集まりなんかに顔を出すのがひどく怖かったけれど、行ってみればまるで違っていた。俺を性犯罪者かのように扱ってきた同級生は既に他の卒業生の輪から外れてしまっていて、ほとんど連絡がつかない状態らしい。俺もなかなかに高校時代の連中とは没交渉だったから、なんとなく自分のセクシャリティの話をうまくごまかしながら出来事の説明をしてやれば気にすることもないと言われた。まあ、普通はそんなふうに性犯罪者の扱いをすることがおかしいのだと思う。太古に生まれたじいさんやばあさんじゃないんだから。得体のしれないものを気持ち悪いと思うことは否定しないけれど、それを態度に出すくらいなら離れたままでいて欲しい。

 とにかく俺にはそういう経験もあるから、いくら自分から亮太に対してゲイだとカミングアウトしたとは言っても少し抵抗があるのだ。俺に、抵抗がある。部屋に上げてやってから性犯罪者を前にした被害者のように震えられても傷つくし、そういうのは俺だってごめんこうむりたい。一緒に住んでいいよという話をするついでにちゃんと俺がゲイだということも言ったけれど、彼の方からはそこから追求もなかったのだ。俺が追求できないように話を捻じ曲げてしまったこともあるにはあるが、亮太は案外一本筋が通っているので聞きたいことは聞くだろうし。聞いてこないってことは、否定しないってことは、それはそれだと理解してくれたのだろうか。

 わからない。わからないままに行動してもいいのだろうか。うーん、わからない。ラインで聞いてみればいいのかな。それとも実は亮太もゲイとかバイとかそういう話だったりするのかな。希望的観測すぎるか、それはない。もしそうなら昨日の時点で彼からそういうアプローチがあってもいいだろうし、それすらもないってことはそういうことだろう。亮太はゲイじゃないしバイでもないけれども、俺の家に行くことを嫌だと思っていない。まあそうか。冷静に考えてみれば当然だ。今日に至るまでホテル暮らしで仕事も見つかっていないのだから、カフェなんかに入って余計な出費をしたくないってことだろう。選択肢なんかないも同然なのかな。いや、いきなり俺の家がハードル高いなら、俺がカフェ代くらい出すけども。

「亮太、あのさ、もし違ったらごめんなんだけど。もしかして、俺の家にこのまま行ってもいいって思ってくれてる?」

 こっくりと縦に首が振られた。亮太の顔はかわいいし綺麗で整っている。これは地元でモテたんじゃないかなあ。ちょっとうなずくだけの仕草でここまでなんだから、そりゃあモテたんじゃないかと思ってしまう。あんまり喋ることをしないし本人も喋ることを嫌がっていたようだけれど、それはそれでこれはこれだ。人間の噂なんて言うのは本人とは関係のないところで広がるし、モテていたのなら喋らないっていうのもミステリアスとか変換されたりしていたんじゃないかなあ。それで近づき難くて本人がモテていたことに気付いていないとか。そういうことがありえそうなくらいには、彼の表情や仕草は全てかわいくて整っていたのだ。

「もしいきなり俺の家に来るのがハードル高いなって思うんなら」

 一回カフェとかで話をしてからでもいいんだけど。そう言おうとして途中で亮太の首が激しく左右に振られた。あ、いいんだ。これまでに警戒されることが多かったためにそれなりに傷つかないように覚悟もしてから来たこちらとしては少しだけ、本当に少しだけだけど、拍子抜けのような気持ちになる。だってこっちは同じゲイのひとにも警戒されたことがあるんだからな。この体格でネコはありえないとか需要がないとか好き勝手なことを言われた挙げ句笑われて、そのあとで冷静になった相手から、なにか狙ってんのかと言われてしまったのだ。レイプ狙いとか金品を狙っているとかそういう方面の「狙い」を、警戒されてしまった。

 勝手に仲間意識を持っていた俺が悪かった話なんだけど。ゲイなら同じくらい生きづらさみたいなものを抱えているよなって、まわりに理解されなかったりまわりから警戒されたり、あるいは自分で勝手に回りを警戒してしまってうまく人間関係を築くのに時間がかかってしまったりとか、まわりにバレないように虚勢を張って女と付き合ってみたいみたいなことを口にしたりしなきゃいけなかったりとか。そういう経験をみんなが積んできていると思ってしまったから。同じ経験を積んできた仲間だと思って話をしてしまったから。そうじゃない人間もこの世には居るのだと思って、それを知って、体験して、そうして頭の上から冷や水をぶっかけられたような気持ちになった。

 仲間だと思っていた人間に警戒されるのは結構つらいものがあるのだ。つらいというか、なんとも言えないというか。味方だと思っていた存在が全部敵だったとわかってからは、あんまりそういう場所に出入りすることもなくなってしまった。自分とは違う明るい世界で仲間を沢山もったひとたちがいる場所で、俺はそういう場所にいられない人間だと納得した。自分を納得させた。そういう経験を山のようにしてきているから、今更何を言われても傷つかないはずだ。厳密に言えば傷つきはするんだけど傷ついて立ち直れないってほどにはならないはずだし。ちょっとくらいなら酷い偏見をぶつけられたって、困っているやつを家に泊めるようなことだってできる。だから、だいじょうぶなんだけど。

「う、っ」

「どした、亮太」

「うた……くんっ……」

「あー……っと、俺のこと?」

 ゆっくり喋る亮太の手伝いをしてやりたくて、助けになるように言葉を投げかけてみる。うたくんと言われたから、きっとそれは俺のことだろうと思って聞いてみた。ついでに自分のことを自分で指さしてみる。こくこくと首を縦に振ってくれたので、肯定を示されたのだと理解する。俺がなんだって言うんだ。俺の家に行くとかいかないとかそういう話をしていたから、そういうことかな。俺の家に早く行って荷物を置きたいとか、そういうことを言われるのかな。ずっと忘れていたけれど、俺たちはそれなりに平均身長そこそこのタッパがあるし亮太に至ってはかわいい系の見た目をしている。そして極めつけは上京のための大きなスーツケース。まあ目立っている。目立っていることを忘れていた。

 早くこの場を移動したいとかそういうことなのかなあ。亮太がなにを望んでいるのかがわからなくて、なかなか答えを導いてやれない。いつもだったらもっとスムーズに視線や口の動きなんかを観察したりして、注文したいメニューを先回りしてやっているのに。やっぱりここが居酒屋ではないこと、あるいはここに答えや目的がある場所ではないこと、これらが俺の洞察の邪魔をして助けてやることができない。別に俺が絶対助けてやらなきゃいけないってことはないんだけどさ。それでも、こんなにかわいい男の子が困っているっていうのなら、助けてやりたいのが俺の気持ちなんだ。できるだけ助けてやりたい。不慣れなところに来て、不慣れな環境で頑張っている不器用仲間として、手を差し伸べたい。

 スマホで入力したほうがストレスがないのかな。どちらがいいのかわからなくて、とりあえずスマホを出して目の前に見せてやる。おまえも持ってるんだからそっちでもいいよ、という気持ちを込めて。せっかく顔を合わせて喋りたいなんてことを匂わせたばっかりに、亮太を緊張させたりだとか、必要のない不安な気持ちまで押し付けてしまったかもしれない。そうじゃないんだよ、俺は。誤解をされたくなくて、必要以上に警戒をされたくなくて。他に行き場がないだろう亮太のことを、ただただ助けてやりたくて。性的指向のことなんかは顔を見せながら喋ったほうが誤解がないだろうって思ったからで。それに、俺はネコだから。エッチなことはしてもらいたい側だから。夜中に急に襲われるとかは心配ないよって伝えたかっただけで。

「……いえ、がッ……」

「うち、やっぱ行くの怖い?カフェにしとく?カラオケとかでもいいけど、密室だし……」

「う、う、うた、くっ……の……ぃ、……え……っ」

「あれ、えーと、もしかして亮太、うちが良いって言ってくれてんの?」

 半信半疑で聞いてみるとものすごい勢いで首を縦に振られる。本当にいいのかな、ゲイの俺の部屋だよ。オレの部屋に来たら誰も助けてくれないし、俺と二人きりになっちゃうよ。誰も助けてくれない上に、大きな音とか出したところで不審者とか思われないし、万が一俺が亮太のことを襲いたくなっちゃっても誰も手を差し伸べてくれないけど、それでもいいのかな。もちろん俺はどれもしないし、どれもしたいとも思っていないし、正直そこまで飢えて飢えて仕方がないってわけでもないから絶対無いって約束もできるんだけど。それでも、世の中のゲイのひとだとかバイだとか、とにかくそういう自分たちとは違う何かを見かけると異常に防衛本能が働いたりするじゃん。

 そういうの、やっぱり俺だって傷つくんだよね。わかってるんだよ、一部の危ない連中のせいでイメージがガタ落ちしているだけだっていうのもわかっているし、俺一人がなにかをしようとしたところでどうにもならないのもわかっている。積み上げたイメージっていうのはあるし、それこそバラエティ番組なんかでおもしろおかしくイジっているのを見たら、一般人同士でもこういう対応でいいのかなって思ったりもするんだろう。あれはバラエティであってああいう仕事だから成立しているんだけど。笑われることでお金をもらっているひとがいることと同じように、自分たちの性的指向をおもしろおかしくイジってもらって私生活を切り売りするスタイルで生計を立てるひとがいるって、本当にそれだけだし。

 でもノンケからするとそういうところの判断も難しいのかもしれない。わかるよ、わかる。よかれと思ってやってくれているんだっていうのもわかる。友達同士で性犯罪なんか起きたら目も当てられないし、やられた側は一生傷つくことになってしまう。高校時代の友達の例で言ったらきっと、俺がゲイだってわかっているのに二人きりになったほうが悪いとか言われてしまうこともあるのかも。なんとなく想像くらいはできる。人間って結構残酷なんだよな。一番言われたくないような言葉で、的確に的確にしっかりと柔らかい部分だけを狙ってぶっ刺すようなところがある。ゲイの仲間にネコなんか無理だと笑われたのもそれに近い。いいじゃねーか別に。俺が猫を夢見て生活することの何が悪いのか。おまえに抱いてくれなんてひとことも言ってねえよ。

「い、こ!」

「行こっていった?えっ、あっ、う、うそぉ……?」

 ぐるぐると過去のことを思い出しながら落ち込んだり喜んだりしている俺の手に、誰かの手のひらのぬくもりが触れた。するりと手を繋がれて、一気に顔面が熱くなっていくのを感じ取る。うわあ、もう、やばいかもしれない。成人してだいぶ経っているっていうのに、まるで初恋に出くわしたような態度を取ってしまっている。耳までどんどん熱を帯びていく。まわりの人間の視線なんかひとつも気にならなくて、俺の視界には目の前で手を引く亮太の背中がいっぱいにある。こんなの初めてだ。うれしさと興奮とどきどきとよくわからない緊張と高揚感で、視界の至る所で星が飛びそうになってくる。

 首筋までいよいよ赤くなってしまっているかもしれない。いたたまれなくなって俯いてしまったけれど、少しだけ一歩の大きさを増やして亮太を抜かす。このまま引っ張られていったらどこに行ってしまうかわからないから。こっちは一応地元民で、そっちはいちおうおのぼりさんだ。土地勘もこのあたりの道だって全部頭の中に入っている俺が手を引くのが道理だろう。ばくばく、いよいよ全身が心臓になったみたいに音を立てて波打っている。耳、頬、首筋、からだ、つないだ手。至るところが全部熱くて、あつくて、もう痛い。手汗もすごいかもしれない。めちゃくちゃ恥ずかしい。それでもこの手を離したくはない。だってこの手は俺に与えられた希望の光みたいなものだから。

 真っ赤な顔や耳や首筋を少しでもみちゆくひとに見られないように祈りながら、せめてもの抵抗としてうつむきながら歩いてやる。がらがらがたがた、大きなスーツケースを引いて付いてくるのは亮太だ。なあ亮太、おまえ今どきどきしてるの?この手はどういう手?聞いてもいいの、教えてくれる?おまえはどうして俺と手をつなごうって思ったの?あまりにも男運に恵まれない俺に同情したの?聞きたいことなんか山ほどある。同情でもいいよ、もうなんでもいい。こっちはこっちで毎晩マッチングアプリで俺のモヤモヤを吹き飛ばしてくれるくらいに抱き潰してくれそうな男を探しているんだから。もう、なんか、いっぱいいっぱいで泣いちゃうかも。見慣れたアスファルトが波打っている。頭をぽんぽんとやさしい手が撫でた。ねえ、だからそれ、なに?どういう感情?聞いたらちゃんと教えてくれる?

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