第5話 「ぼく」がきみに打ち明けた話

 夜が明けたから今度こそ、本当の秘密の話をしよう。

 自分がコンプレックスに思っている部分としている「おしゃべりが上手にできない」ということを、本当はどう思っているか。じいちゃんとばあちゃんにも言ったことがない。二人は年齢のわりに幅広いことへの理解があるけれど、果たしてこんなことまで受け入れてくれるかはわからなかったし、受け入れなくても当然だと思ったから、まだ話せていない。ぼくだって本当のことは全部話しておきたかったし、親子のように接してくれたふたりに隠しごとなんかしたくもなかった。けれども嘘も方便という言葉があるように、ぼくにとってそれは隠しておくべきことだと判断できたから、そういうことにしておいた。言わないほうがいいと思った。

 ホテルのふかふかのベッドの上で寝転がりながら考える。死ぬまでに誰かに一度は話せたらいいなと思っているけれども、それがうたくんだったらいいなと思ってしまった。うたくんには迷惑かもしれないけれども、聞いてほしいと思ってしまった。聞いておいてほしいと思ってしまった。ぼくが死ぬまでに、一度でいいから心のなかを全部曝け出すことができるようなひとに会ってみたいと思ってしまった。そういう出会いを求める素振りはしなかったけれど、やっぱり同級生がそうしているのを見ると、ぼくだってそういう気持ちになることはあるのだ。抱えているコンプレックスのせいで難しいかもしれないことはわかっていても、望んでしまうんだ。

 ぼくはね、うたくん。おしゃべりが上手ではないということを、本当はコンプレックスには思っていないんだ。言わなくていいことを言わなくていいし、誰かに知られたくないことを話してしまう危険がないというのは、とても安心で安全だと思ってしまっているんだ。このまま喋れないままでいいと思っているし、どうしても必要に迫られたときは筆談でもゆっくり喋るんでもいいと思っているんだ。苦労なんかしたくないし、努力なんかしたくない。みんなはそんなことをしなくていいのに、ぼくだけが苦しまなきゃいけないなんて不平等だから。ぼくはその不平等を、世の中に配慮させるということでバランスを取りたいと思っている。ずるいかなあ。ずるいよねえ。

『今日、予定ないって言ったよね、亮太』

『物件探し手伝おうか、俺』

『亮太の役に立ちたい』

 ぼんやりと考えごとをしているぼくのスマートフォンがブルブルと震えて、着信を知らせた。内容はもちろんメッセンジャーの受信を知らせるもので、既読がつくのもお構い無しで画面を開いてみる。送信主はばあちゃんでもじいちゃんでもなくて、知り合って友達になったばかりのうたくんだった。今ちょうどきみのことを考えていたところなんだ。こころの中で語りかけても聞こえないけれど、どことなく言葉にしたくてぼんやりと思考を巡らせてみた。立て続けに三つ来るメッセージ、短めの吹き出しが並んでいてかわいい。やっぱりかわいいところがあるんだよねえ、うたくん。

 上手にコミュニケーションを取れない代わりに他人の感情を手に取るように理解できるので、ぼくには普段うたくんが居酒屋での仕事中に、ホールでお客様からの声掛けを待ってスタンバイしている間に考えていることがわかってしまっている。半分くらいは経験則で理解しているけれど、半分くらいは想像になってしまうから百パーセントの理解とは言えない。けれどきっと、この勢いのメッセージ送信やこういう申し出を見る限り、ぼくの想像と推測は間違っていないんじゃないかなとも思っている。かわいくて素直になりきれなくて、どこか真面目でどこか不真面目を装っているうたくん。きっとそうしないと彼のきれいなこころは守られなかったのだ。

 寂しがり屋でがんばりやさん、ついでにいうなら気遣いやさん。これが彼にまつわるぼくの中の評価になる。お客さんの言動に常に気を配って異変があったら誰よりも早く駆けつけて被害を小さくしようとする。居酒屋さんって他のところにいったことがないから「普通」の水準がわからないけれど、きっとこれは普通じゃないんだ。うたくんの優しさがあるから成立している。アルコールを飲みすぎて顔が真っ赤になってしまっているお客さんのところには何気ない顔をして水を持っていきながら声をかけるし、忙しく駆け回るフロアスタッフに声をかけにくいと思っていそうなお客さんには注文大丈夫ですか、なんて言いながら近づいていく。なにもしない他のスタッフだって、うたくんにはものすごく助けられているはずだ。ぼくが助けてもらったように。

『もし住むところ見つからなかったら』

『俺の部屋に住んでいいよ』

『知り合ったばっかでなに言ってんのって思うかもだけど』

『俺はおまえを気に入ったから』

『だからだいじょうぶ』

 返事を悩んでいるうちに立て続けに囲い込むようなメッセージが来てしまった。こういうメッセージをもらったのは初めてだ。淡々とした文章だけれど、そこにはたしかにうたくんなりの覚悟が盛り込まれているような気がして、メッセージを見ているぼくの指が止まってしまう。画面をするりとなぞってみた。こんなふうに言ってもらったのは初めてだし、こんなふうに自分を必要としてもらえたのも初めてだった。都会に来てから数週間、初めての体験はたくさんあったけれど、このメッセージが一番心が揺れ動いた。こんなふうに丁寧に自分を受け入れると表明してもらったの、ぼく、初めてだよ。うれしさから指が震える。

 本当にお言葉に甘えてしまっていいのかなあ、迷惑になったりしないかなあ。ぼくは仕事をすぐに見つけられるわけじゃないし、あてがあるわけでもないから家賃も渡せないかもしれないし、すごくご迷惑をかけることになっちゃうんじゃないかな。そうやって入力しようとしてもちろん途中で失敗した。震える指先で不要な言葉を入力してしまったことに気付いてすぐにデリートボタンを長押しし、文章を編集しようとした。指先がひどく震えている。長押しすらもうまくできないでいることにぼく自身が一番びっくりしている。スマートフォンの保護フィルムの上に、ぽたりと水滴がひとつ落ちた。

 りょうちゃんはこのままこの地域に残ってちゃいけないよ、絶対にここを出るんだよ。母親とはなればなれになってからばあちゃんはずっとぼくにそう言っていた。嘘を言わない主義のばあちゃんによれば、ぼくの母親がぼくをばあちゃんとじいちゃんに託す選択をした最終的な根拠はやっぱり、ぼくがうまく話せないことだったらしい。りょうちゃんは悪くないんだけどね、お母さんのことを嫌いになってもいいんだけどね、と苦笑いしながら話してくれたことを覚えている。もともと母親に対する愛着が少ない上にばあちゃんもじいちゃんもいろんなことをしてくれていたし、なによりぼくの田舎ではそんなことはザラにあったので、ひとつも不満に思わなかった。ばあちゃんとじいちゃんに愛されて、同じように家庭に何かしら問題を抱えて山奥で生きている同級生たちと小学校を卒業して、中学校を卒業して大きくなっていくんだと思っていた。

 ばあちゃんはずっとぼくに言っていた。りょうちゃんは広い世界に出たほうがいいね、広い世界ならりょうちゃんのペースに合わせて喋ってくれるひとがいるからね。上手に話せないぼくのことを悪く言うことなく付き合ってくれていた小学校の同級生たちは気づけばみんな都会の進学校に入学していて、地元の不良が集まる学校に進んだのはぼくだけだった。ばあちゃんとじいちゃんに愛される環境を捨てられなくてずっとずっと地元で生きていくのだと思っていた。母親がいてもいなくてもきっと、ぼくは、自分を自分のままで認めてくれるひとのもとで生きていくんだと思っていた。

『ぼくは、きみが思うようないいひとじゃないんだよ。上手に喋れないことをアドバンテージだと思っているところがある』

 送信する予定だったうわっつらのメッセージを全部削除して、こんなことを送ってしまった。出会って数日の人間に話す内容じゃないのかもしれない。けれど、出会って数日の人間に親切にしてくれたのは相手側だし、出会って数日の人間を家に住まわせてやろうとまでしてくれているのだから。だから、その言葉に甘える前にきちんと話をしておくべきだと思った。その言葉に甘えたいのならきちんと向き合う必要があるんだ。一人で生きていけるとか、自分という人間が抱える性質のことを理解してくれる人間だけでいいとか、そんなことを考えているんじゃなくて。新しい人間関係を増やそうと思うのなら、相手と親しくなりたいのなら、自分だってある程度の情報を開示しておくべきだ。そうじゃないと相手と仲良くなれない。

 じいちゃんが、あれほどに仲良しのばあちゃんと喧嘩をしていることがあるのを、ぼくは知っている。テーマはいつだってぼくのことだった。いつまでもぼくが望む限りはこの地域に根を下ろさせてやればいいというのがじいちゃんの意見で、ぼくが望むのならじいちゃんたちが生活の糧にしている農業を教えてやったっていいと言ってくれていた。大きくない上にきちんとしていない山の上のボロ屋に住んでいたから、そんな会話はいくら声を潜めても聞こえてしまっていた。ばあちゃんはぼくを都会に出したがっていた。そこでいつも衝突して、終わりのない喧嘩を続けていた。聞き続けるのが嫌になったときにぼくが顔を出す形で終わらせていた。

 言葉を上手に発することができなくてよかったと思ったことがある。これも、ぼくの、ぼくだけの秘密かもしれない。誰にも言えない秘密だ。おまえが言うなと言われてしまうだろうし、この秘密を口に出してことばにしてしまうだけで、たくさんのひとが傷ついてしまうだろうから。間違ってするりとのどから出てしまうような体質じゃなくてよかったと、本気でぼくは思っている。怒ったとき、悲しいとき、悔しいとき、理不尽にぶちあたったとき。そういうときにぼくがきちんとその事柄をこころのなかで飼いならすことができるかと言われると、それは難しそうだったから。きっと喋れなくてよかったんだと思ってしまった。

『いいよ』

『おれたちもう大人だからわるくないよ』

『自分たちのコンプレックスだって』

『愛してやらなきゃ』

『プラスにとらえてやらなきゃ』

『つらいばっかりじゃん』

『みんなそうだよ』

『ひとには言えないことあるから』

『全部前向きにするの』

『強がって生きなきゃ、誰も愛してくれないから』

『おまえのことはおれがあいするよ』

 ぽこんぽこんぽこんと立て続けに音を鳴らす形でメッセージが送られてきた。やっぱりうたくんは優しくて大きいひとだと思った。身長も大きいけれど、こころがなにより大きいのだ。人間観察には長けているし人を見る目は養っているつもりだけれど、これはやっぱり間違いない。ぼくたちはそれぞれ二十年と少ししか生きていないけれど、かの有名な織田信長にならうとしても人生五十年のうちの半分とちょっとくらい、いわば折り返し地点でしかないけれど。それでも、こうやって大きな壁にぶち当たっている。ぼくたちという個人の力ではもうどうしようもないところを乗り越えるようにって、神さまに提示されているんだ。

 ぼろぼろと泣いてしまう。うたくんもきっとたくさんつらい思いをしてきたんだろう。人間のつらさに大小はないんだよ。つらいことはつらいでいいんだ。例えば人間関係がちょっとうまくいかないとか、ちょっと試験でつまずいたせいで全ての計画が狂ってしまったとか、すべてのつらいことはみんなそれぞれの人間の首を絞めることになるから。だから、全部つらいこととして嘆いていいとぼくは思っている。だれかと比べて大したことないから頑張ろうなんて、そんなばかみたいなことを考えなくていい。言葉がうまく発せなくてもなんとかなるだろって、それを自分のアピールポイントにして同情をもらって生きていこうと開き直るような人間だっているんだ。まあそれはぼくだけど。

 うたくんのメッセージがだいぶひらがなだったのは、慌てて送ってくれたという解釈でいいんだろうか。聞いてみたらいいのかな。それとももしかして、つらいことを思い出させて泣かせてしまったりしたのかな。だとしたら早く顔を合わせて抱きしめてあげたいな。いつしか、ぼくがいろんなことを思い悩んで苦しんでいたときに、ばあちゃんやじいちゃんが抱きしめてくれて落ち着いたときみたいに。ぼくがこうやって開き直るまでに時間が必要だった頃に、保健室の先生がぼくに寄り添ってくれたときみたいに。今度はぼくが寄り添いたいひとに手を差し伸べたい。

『ぼくは田舎から出てきたんだ。広い世界に生きて行けってずっとばあちゃんに言われていて。でもぼくは、広い世界なんか見なくてもいいのになってずっと思っていたんだ』

『ばあちゃんが言いたいことはわかるんだ。ぼくが田舎にずっといたら良くないだろうし、ぼくのようにおしゃべりが上手ではない人間は、田舎のようなコミュニティからは爪弾きにされるから。ぼくがずっと生きていくためには、田舎を出るべきだったんだろうねっていうのもわかるんだよ』

 今度はぼくから続けて二通送ってしまった。うたくんがぼくにたくさん送るのとはまるで違って、メッセージ一つ送るのにも時間がかかってしまう。いつもの彼ならとっくに一つ二つ、ぼくのメッセージを待ちきれないというように送ってきていたはず。それなのに今回はぼくの続ける言葉を待ってくれているみたいに、すんと大人しくスマートフォンを鳴らすこともなかった。ぼくたちまだ、出会って本当に数日なのに。一緒に友達らしくどこかに出掛けたりしたことだってないし、好きな食べ物や嫌いな生き物の話だってしたことないのに。それなのに、こんなふうに身の上話に近いような会話をずっとしている。まだ太陽も高いところにあるのに。ぼくたちはそれなのに、こんなふうにじめじめしたやりとりを続けているのだ。

 広い世界を見るんだとずっとばあちゃんは言っていた。広い世界なんか見たところで、ぼくのように上手に自己主張どころか自己紹介すらできない人間に、居場所なんかないと思っていた。未知の経験が出来て楽しいかもしれないけれど、それでもぼくは居場所を失ってしまうかもしれないことに恐怖したのだ。田舎はたしかにぼくのような異端を爪弾きにするけれど、それでもぼくにはじいちゃんやばあちゃんという帰る場所が、無条件に帰っていい場所があるんだから。そこから出たくないと、そこを守り続けたいと思ってなにが悪いのだろうか。ずっとずっとぼくはそう思っていたし、ばあちゃんが都会に出るための話をするたびに機嫌が悪くなった。気分も悪くなった。

 ことばがうまく話せなくてよかったと思ったのは、ばあちゃんを傷つけなくて済んだからだ。じいちゃんもそうだけれど、特にばあちゃんを傷つけてやりたいと思うことがかなりあった。思春期だからとかそういうお年頃だとか、あるいは反抗期だとか家庭環境が複雑だからとか、そういうありふれたレッテルを貼ることによってぼくのふつふつと沸き起こる感情に蓋をした。だれもぼくの話を聞かなかった。感情が沸き起こる理由を知りたかったんじゃなくて、感情をどうやったら受け入れられるかを知りたかったのに。それに関しては誰も教えてくれなかった。

 初めてばあちゃんに罵声を浴びせそうになったのは、母親の話を聞かせてきたときだった。全ての人間がほとんど基本として母親という役割を持った女性から生まれてくるように、ぼくにだって母親がいた。うすらぼんやり顔を覚えているような気もするし、本当に小さい頃は手を繋いでもらったり手を引いてもらったりしたことがある気もする。彼女はなにもぼくに危害を与えることなく、けれどもぼくをばあちゃんとじいちゃんの住む山奥に残していった。ちゃんとお別れもした。あんまりよく覚えていないけれど、じいちゃんとばあちゃんが母親にバイバイしなさいと言ったことは覚えている。子どもだったけれどちゃんとバイバイをした。山奥に取り残されたわけじゃなくて、ちゃんとばあちゃんたちに引き渡されたのだ。

 近所に住んでいた同じ小学校に通った同級生のほうがずっとずっと複雑な生い立ちだったはずだ。山奥にひとりで取り残されて、一晩中泣いていたら知らないじいさんとばあさんが自分のことを見つけてくれて、そこから家族になったのだという。ぼくが田舎に来るよりもずっと大きくなってから田舎に来た子だった。きっと年齢が大きかっただけにトラウマとして大きな傷になっただろう。そういうのを見ていたから、ぼくはこれといって母親のことを恨むような気持ちを抱くことはなかった。大きくなればなるほどに、母親という女性に対して理解を示していた。ひとりで暗闇に置いていかれたわけでもない。ちゃんとお別れもしてくれた。血の繋がりのある祖父母のところに、きちんと置いていってくれた。児童養護施設で肩身が狭い思いをさせられたわけでもない。

 けれどもばあちゃんは違ったのだ。自分の娘という気持ちがあったのだろうか。それともぼくが母親に対して何かしらマイナスの感情を抱いているとでも思ったのだろうか。あの子もあの子で大変だったのよ、とか、あの子はりょうちゃんのことを愛していたんだよ、だとか、言わなくていいことを言ってきたことがあった。そんなことは言われなくてもわかっていたのだ。ぼくだってバカじゃない。赤ちゃんポストに突然投げ入れられるよりも、血の繋がりがあって養護する立場である祖父母に引き取られたことを幸せだとすら感じている。けれどもばあちゃんはそんなぼくの感情の整理の付け方を踏みにじるように、あの子を恨まないでやって、なんて言ってきた。

 そのときぼくは自分が言葉をスムーズに発することが出来なくて良かったと、本気で思ったのだ。もし言葉をスムーズに発することが出来てしまったのなら。きっとぼくは文句を言って、この世にありったけの罵声を浴びせて、そうしてじいちゃんのことまで怒らせてしまっただろう。そうしてあの家に居心地を悪くして、多くの非行少年のバックグラウンドのようにぼくも家出をして、同じように非行に走っていたかもしれない。それをしないで済むことに、ぼくは心の底から安堵したのだ。自分でコントロールしなくても言葉が出ないから。だから、大丈夫。いっぱいこころの中で文句を言ってやろう。そうやって自分の中で、折り合いをつけた。

 二回目に自分の言葉が出ないことに対して感謝したのは、ごくごく最近のことだった。都会に出ろ出ろと成人を境に連呼してくるようになったばあちゃんに対して、またしても罵声を浴びせたくなってしまった。ぼくは傷つきたくなかった。言葉が出ないことを笑われたくはなかった。ただでさえ田舎で異端として笑われて指をさされて、苦しい思いをしているのだから。これ以上人間関係を広げてなにになるのかと、本気でおかしなことをいうのだと思っていた。ばあちゃんもぼくを養うことが面倒になってきたのだと思ってしまった。傷つきながら言葉をやり過ごし、お金を貯めて、そうしてようやく都会に出てきた。

 ばあちゃんの言いたいことはわかる。ぼくひとり、言葉が出ようと出なかろうと誰も気にしていないのだ。その開放感はたしかに良かった。けれどもここには、ばあちゃんもじいちゃんもいないんだ。ぼくには帰る場所がない。物件も探せない。職業を見つけることすらできない。面接に行けば言葉が出なくて門前払いをされて、物件探しに行けば仕事もない人間には見せられるものがないと言われてしまう。八方塞がりだ。ずたぼろに傷ついた。もうお金が尽きたと言って田舎に、実家に戻ろうかと考えた。けれどもぼくにもひとつだけわかることがあるのだ。

『都会は広いからさ』

『亮太に合うもの、見つけるまで時間かけようよ』

『俺の家においで』

『まずは一緒に暮らして』

『そんで仕事とか物件とかも一緒にさがそ』

『ひとりよりふたりだよ』

 聞き慣れない音をスマートフォンが伝えてくるのは、うたくんがぼくに言葉をくれている合図だ。もはやこの音がくせになってきて、ぼくに安心までを届けてくれるようになった。彼のひとつひとつのメッセージがひどく優しくて、居酒屋で走り回る彼を思い出させる。恋愛なんかまともにしたことなかったし、それどころでもなかったし、正しいのか間違っているのかもわからないけれど、もしかして。ぼくはひょっとして、うたくんのことを好きになっているのかもしれない。そんな気持ちになるくらいに彼のメッセージはあたたかくて、ぼくをどきどきさせるのだ。メッセージがくるだけで気持ちが和らいで、暖かくなって、幸せを運んでくれる気がする。

『本当にいいのかな。うたくんの迷惑にならないかな?』

『いいよ』

 間髪入れずに返事がくる。彼はどうしてそこまでぼくに優しくしてくれるのだろう、と思わないでもない。これが詐欺師だったのなら、きっと凄腕のひとなんだろう。ぼくにはわかる。これは嘘じゃなくて、上辺だけの優しさでもないのだ。だからこそ不思議になってしまう。彼に、ここまでの優しい言葉を引き出させた経験は一体なんなんだろう。うたくんもやっぱり、さみしいのかなあ。ぼくはさみしいんだと思うよ、きっと。さみしくて居場所を探しているところにこんなふうに優しくされちゃったから、君に甘えてしまっているけれど。うたくんもさみしいのかな。こればっかりはわからないな。

『ぼくは気付いたんだよ、うたくん。ばあちゃんもじいちゃんも、ぼくに都会に行けっていうのはさ。ぼくには母親がいないんだけど、きっとそういうことなんだろうねってわかってしまったんだ』

『そういうこと?』

 ここ数日の彼とのやり取りを通して少しずつぼくのタイピングスピードが上昇してきているのを感じている。おなじくらい、メッセージで文章をまとめることもうまくなったような気がする。喋れなくてもこうやってことばを伝えていけば、本当に問題ないのかもしれない。もちろん非常時のために少しずつ喋る練習をしていくけれども。彼ならその練習にも付き合ってくれそうだから、甘えてしまってもいいかもしれない。さみしがりやのうたくんだからね、きっとそんなことでもさみしさを埋める手助けにはなれるはずだ。

 ひとつひとつ文章をまとめながらうたくんに伝えようと頑張ってみる。ことばがこんな力をもっているなんて考えたことがなかった。言霊思想なんか、ことばを口に出すことが苦手なぼくには関係のないものだと思っていたからだ。ことばに力があるなんて言われても、じゃあそれはぼくには関係ありませんね、と思っておしまいだと思っていたから。今思えばぼくはだいぶ、かわいくない子どもだったのかもしれない。喋れなくても動揺一つ見せずに、歯がゆいというようなリアクションすら取らないで、それが当たり前だと言わんばかりの態度を貫いて。それが自分の個性だというように開き直った。

 開き直らなきゃつらかったし、開き直ることだけがぼくを活かす道だったのだと思う。実際、そうやってそれなりにハンディキャップを背負わされた人間からすれば、開き直るより他に心を軽くするための道なんかない。まわりの人間が背負っていない課題を一人だけ背負わされて、それでまっすぐにひたむきに生きろと言われるほうが無理な話だ。ぼくは、無理だった。自分のこころを守るために、自分が自分であるために、ハンディキャップを正当化して開き直る手段を取ったのだ。地元の人間に卑怯者だと断罪されても、それでも自分のこころを守ることが最優先だった。喋れなくてなにが悪い。言葉をつっかえさせるぼくを見て笑うのは、そっちじゃないか。

 ぼくがことばひとつうまく伝えられない様子を見て笑ったのはそっちなのだから、こっちだって開き直って使えるものを有利に働くように使っていくだけだ。それのなにが悪いのか、なにが卑怯なのかを聞いてやりたかった。そんな手段を持たなかったし、そんなことをしてもっと疲弊したくもなかったから、そのまま飲み込むことにしてしまったけれど。ぼくはぼくなりに、必死に生きてきたのだ。それが他でもないうたくんに汲み取ってもらえたことは、とってもうれしいことだった。

『きっとばあちゃんもじいちゃんも、ぼくが最後にひとりで残されたあとのことを考えてくれたんじゃないかなと思うんだ。ぼくは、そこに気付いたんだ。こんな重たい話をしてしまってごめんね』

『ああ、そういうこと』

『それならね、俺も言われるよ』

『俺、ゲイなんだ』

 それでも一緒に住んでも大丈夫って言うなら、今日から一緒に住んでよ。こう見えて俺寂しがり屋なんだよね。そんなようなニュアンスの言葉が、メッセンジャーの間抜けな音と主に届けられてきた。さみしがりやなんだな、うたくん。それにゲイなんだ。ふうん、それなら都合がいいかもしれないと思った。だってぼくも今、きみの言葉ひとつでここまで舞い上がってしまっているんだから。好きになってもいいのなら、それほど気楽なことはない。愛されることは悪いことじゃない。誰だって誰にだって、愛されたいことってあるでしょう。それがきみなら、うたくんなら、ぼくはとってもうれしいんだよ。ねえ、ぼくを好きになってよ、うたくん。ぼくにしようよ。こんなにやさしくて素敵なきみのこと、他の男にあげたくないよ。

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